かつて東急は「東急ターンパイク」という独自の高速道路を計画していました。道路分野に進出しようとした東急の故五島慶太が描いた「路線図」、なぜ頓挫したのでしょうか。その一部は実現しています。

「都心アクセス交通」として考えていた高速道路


東京と横浜をむすぶ第三京浜(画像:写真AC)。

 終戦から10年が経とうとしていた頃。渋沢栄一が大正時代に提唱した「田園都市」構想に基づき、東急は田園調布につづいて、横浜市北西部に大規模な宅地開発を進めようとしていました。

 ちょうどそのころ、国は首都圏の開発デザインを決める「首都圏整備法」を制定しようとしていました。戦災復興とともに一極集中化が進む東京から、人口の分散を図ろうとしたのです。東急はこの中に、自社の計画を織り込んでもらうべく、各方面へ調整に奔走しました。

 そうして出来上がったのが「多摩川西南新都市計画」で、約4400ヘクタールのうち、約1900ヘクタールを東急の主導で開発していくこととなります。

 そして「田園都市」構想でうたわれた、郊外の宅地開発とセットで行う「都心アクセス交通の整備」について、3つの計画が立てられました。

 一つめは「大井町線の延伸」です。当時、大井町から溝の口までが開業していましたが、それを長津田まで延伸。途中に7つの中間駅を設置するとしています。

 二つめは街路の整備。そしてもう一つ挙げられていたのが、幹線有料道路「東急ターンパイク」の計画でした。

東急ターンパイクの計画とは

 東急ターンパイクは、東急が1954(昭和29)年に国へ建設許可を申請した有料道路です。渋谷と江ノ島を直結する高規格道路で、完成すれば当時唯一の「高速道路」でした。東急はさらに小田原と箱根峠をむすぶ「箱根ターンパイク」、1957(昭和32)年に藤沢〜小田原間の「湘南ターンパイク」の許可も申請。東京から箱根までを一気に高速道路で結ぶ構想があったのです。

 東急ターンパイクのルートは、渋谷を出発し、大橋・野沢・玉川といった「駅」を経て南西に直進。多摩川を渡ると南に向きを変え、梶ヶ谷、小机、西横浜、南横浜、大船を経由し、西進して江ノ島方面に至るものでした。都内のルートは同時並行で構想されていた渋谷〜二子玉川園(現・二子玉川)の新線(現在の田園都市線)とおおむね一致し、二子玉川園駅では「電車とターンパイクの立体駅」の構想もあったのです。

 さらに「多摩川西南新都市計画」では、梶ヶ谷街区と、そこから約5km南の神隠(かみかくし。現在の横浜市港北区)街区に、それぞれ接続点を設置。その2点を結んで、現在のたまプラーザ・あざみ野付近までぐるりと大回りする「補助ターンパイク」も設置される計画でした。

 この「ターンパイク計画」は、当時の東急を率いていた五島慶太が、アメリカの交通事情に感銘をうけて立ち上げたものです。

「鉄道が衰退していき、代わりに高速道路が普及している」「自動車が生活必需品となり、3人に1台の保有率となっている」アメリカを目の当たりにし、日本も似た状況になっていくだろうと五島慶太は予想しました。「鉄道を建設すると1kmあたり1億円以上必要だが、高速道路はそれより安い。まずは既存道路と立体交差する高速道路を開業し、その高速道路が容量オーバーになれば、鉄道に移行していけばよい」という考えに至ったのです。

 また東急としても、鉄道業だけでなく「別業種でも会社を発展させていきたい」という思惑がありました。それもあって、交通整備計画としての優先順位は、田園都市線よりも、この東急ターンパイク計画のほうが当時は上だったのです。

計画はその後どうなった?

 東急の計画に対し、地元は「一刻も早く、電車を溝の口から中央林間まで開通させてほしい」と陳情をを行います。1958(昭和33)年に行われた署名運動では1万3629名の署名が集まったそうです。

 いっぽう国も時を同じくして、高速道路の建設に本腰を入れていきます。1957年に日本道路公団が設立されましたが、その当時の整備計画には、東京と横浜をむすぶ3本目の幹線道路「第三京浜道路」が含まれていました。

 勘付いた人もいるかもしれません。その経路は、東急ターンパイクとほとんど似たルートとなっていました。

 建設省としては「国道に匹敵する道路は無料が原則で、一時的に有料にするとしても、それを建設し経営するのは、公共企業体であるべき」というポリシーがあったようです。東急は建設省の意向を受け入れ、結局この東急ターンパイク構想を断念することにしました。1961年12月のことでした。

 あわせて湘南ターンパイクも、現在の西湘バイパスとやはりルートがほぼ一致したため、計画を断念。残ったのは箱根ターンパイクのみで、こちらは1965(昭和40)年に開通。現在はNEXCO中日本の子会社になっています。

 ちなみに、東急ターンパイクの計画が廃止になったことで、交通アクセスを失った港北ニュータウンの区域は「多摩川西南新都市計画」から除外されることになりました。