斎藤佑樹、マー君と明暗分かれたのは早大進学のせい? 当時の監督が後悔を告白、致命的故障以前に生じていた異変とは
2010年のドラフトで1位指名を受け日本ハム(2011-)に入団し、昨季までに「88登板・15勝26敗・防御率4.34」という通算成績を残しているプロ11年目・33歳の斎藤佑樹。その斎藤が1日に球団を通じて現役引退を発表したことはファンの間で大きな話題となった。
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斎藤は早稲田実業高校時代の2006年夏の甲子園で、エースとしてチームの優勝に大きく貢献。ポケットに入れていた青いハンドタオルで汗をぬぐう姿から「ハンカチ王子」の愛称で日本中の話題を集め、駒大苫小牧高・田中将大(現楽天)と投げ合った決勝再試合は平日にもかかわらず視聴率23.8%(ビデオリサーチ社調べ、関東地区)を記録した。その後進学した早稲田大学でも大学野球選手権(2007)、明治神宮野球大会(2010年/大学の部)優勝に大きく貢献し、2010年ドラフトで日本ハムから1位指名を受けプロ入りした。
しかし、斎藤はプロ1年目の2011年は6勝、翌2012年は5勝とまずまずの成績を残したものの、2012年オフに右肩関節唇損傷を負って以降は不振に陥り、昨年はプロ入り後初めて一軍未出場で終了。さらに、同年10月には右ひじじん帯断裂という新たな故障に見舞われ、今季は7月12日の二軍・DeNA戦での実戦復帰から二軍暮らしが続いていた中で引退を決断。今後については「これから、周りの人といろいろ相談しながら考えたい」と未定であると語ったことも伝えられている。
高校、大学の双方で実績を残した一方、プロでは結果を出せないままユニフォームを脱ぐことになった斎藤。引退発表を受けたネット上では惜別の声が相次ぐ一方、斎藤のキャリアがこのような結末を迎えた理由に関する議論も白熱しているが、中でも「全ての元凶は早大に進学したことではないか」、「監督に酷使されて股関節痛めてなければなあ…」と大学進学が失敗だったとする意見は少なくない。
「2007年に早稲田大学に進学した斎藤は、当時監督だった應武篤良氏(現広島・崇徳高校監督)のもとで4年間プレー。主戦場である東京六大学野球では史上6人目となる、通算30勝300奪三振を達成するなど実績を残しました。ただ、應武氏は2020年11月29日の『NEWSポストセブン』(小学館)の記事内で、斎藤を周囲の期待やチーム事情もあり1年時から積極起用した結果、3年時に股関節痛を発症したと告白。同時に、『私が鬼になって、入学当初から試合に起用せず、下半身強化に時間を割いていれば状況は違ったかもしれない。1年ぐらい肩を休ませても良かった。以降、斎藤は慢性的な股関節の痛みと付き合うことになった』と、酷使してしまったことへの後悔の念を語っています」(野球ライター)
同記事では発症以降の斎藤が患部に負担のかからないフォームを模索し、その結果右肩の可動域が狭まりフォームのバランスを崩したということも伝えられている。2012年に負った右肩関節唇損傷も、大学時代に股関節を痛めたことが根本的な原因だったのかもしれない。
なお、斎藤は故障当初こそファンから早期回復を願う声が多数寄せられていたが、復調できないまま1年、また1年と時間が経過するごとに「いつになったら復活するのか」と不満や批判が増加。加えて、この間に田中がMLBに移籍し長期間(2014-2020)活躍したこと、2013年にチームに入団してきた大谷翔平(現ロサンゼルス・エンゼルス)が1年目から投打で結果を出し2018年からMLBに活躍の場を移したことも、「マー君や大谷に比べて斎藤は…」とバッシングに拍車をかけている。
結果的にはプロ2年目を終えた段階で致命的な故障を負い、最後まで復調できないまま引退という形になった斎藤。「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい」という理由で下した大学進学の決断は、今後も長きにわたりファンの間で惜しまれることになりそうだ。
文 / 柴田雅人
>>日本ハム・斎藤、コーチの意見を完全に無視?「だからダメになった」「清宮と同じ」呆れ声 西崎氏が衝撃の光景を明かす<<
斎藤は早稲田実業高校時代の2006年夏の甲子園で、エースとしてチームの優勝に大きく貢献。ポケットに入れていた青いハンドタオルで汗をぬぐう姿から「ハンカチ王子」の愛称で日本中の話題を集め、駒大苫小牧高・田中将大(現楽天)と投げ合った決勝再試合は平日にもかかわらず視聴率23.8%(ビデオリサーチ社調べ、関東地区)を記録した。その後進学した早稲田大学でも大学野球選手権(2007)、明治神宮野球大会(2010年/大学の部)優勝に大きく貢献し、2010年ドラフトで日本ハムから1位指名を受けプロ入りした。
高校、大学の双方で実績を残した一方、プロでは結果を出せないままユニフォームを脱ぐことになった斎藤。引退発表を受けたネット上では惜別の声が相次ぐ一方、斎藤のキャリアがこのような結末を迎えた理由に関する議論も白熱しているが、中でも「全ての元凶は早大に進学したことではないか」、「監督に酷使されて股関節痛めてなければなあ…」と大学進学が失敗だったとする意見は少なくない。
「2007年に早稲田大学に進学した斎藤は、当時監督だった應武篤良氏(現広島・崇徳高校監督)のもとで4年間プレー。主戦場である東京六大学野球では史上6人目となる、通算30勝300奪三振を達成するなど実績を残しました。ただ、應武氏は2020年11月29日の『NEWSポストセブン』(小学館)の記事内で、斎藤を周囲の期待やチーム事情もあり1年時から積極起用した結果、3年時に股関節痛を発症したと告白。同時に、『私が鬼になって、入学当初から試合に起用せず、下半身強化に時間を割いていれば状況は違ったかもしれない。1年ぐらい肩を休ませても良かった。以降、斎藤は慢性的な股関節の痛みと付き合うことになった』と、酷使してしまったことへの後悔の念を語っています」(野球ライター)
同記事では発症以降の斎藤が患部に負担のかからないフォームを模索し、その結果右肩の可動域が狭まりフォームのバランスを崩したということも伝えられている。2012年に負った右肩関節唇損傷も、大学時代に股関節を痛めたことが根本的な原因だったのかもしれない。
なお、斎藤は故障当初こそファンから早期回復を願う声が多数寄せられていたが、復調できないまま1年、また1年と時間が経過するごとに「いつになったら復活するのか」と不満や批判が増加。加えて、この間に田中がMLBに移籍し長期間(2014-2020)活躍したこと、2013年にチームに入団してきた大谷翔平(現ロサンゼルス・エンゼルス)が1年目から投打で結果を出し2018年からMLBに活躍の場を移したことも、「マー君や大谷に比べて斎藤は…」とバッシングに拍車をかけている。
結果的にはプロ2年目を終えた段階で致命的な故障を負い、最後まで復調できないまま引退という形になった斎藤。「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい」という理由で下した大学進学の決断は、今後も長きにわたりファンの間で惜しまれることになりそうだ。
文 / 柴田雅人