【独占インタビュー】斎藤佑樹が悔やむあの夏「投げ方が狂って、歯車がズレ始めていた」
10月1日、今シーズン限りでの引退を発表した北海道日本ハムファイターズの斎藤佑樹。ここ数年はケガに悩まされ、満足のいくピッチングができなかったが、この決断に至った最大の理由はなんだったのか。また、斎藤佑樹にとってプロで過ごした11年はどのような時間だったのか。スポルティーバにすべてを語ってくれた。
今シーズン限りでの引退を発表した日本ハム・斎藤佑樹
── 現役引退を発表して、今、どんな気持ちですか。
「今は......そうですね。まずは球団からのリリースで一斉にみなさんに知らせることができたので、その点でホッとしています。直接、知らせなきゃいけない人はたくさんいたので、みんなに報告しなきゃと思っていたんです。でも球団の方と話をして、ひとりで全員に一斉に報告することはできないから、だったら球団に発表してもらおうということになって......僕、こうやって引退することを決めて思ったんですけど、ホント、周りの人に恵まれたなと思います。プロで11年、ここまでやってこられたのはそういう人たちがいてくれたからなのかなと思いました」
── 引退することを決めたのは、いつのことだったんでしょう。
「平塚のベイスターズとの試合(9月20日)に2番手として投げたんですけど、あの日、特別に右肩が痛かったんです」
── 特別に?
「それまでも肩は痛くて、真っすぐを押し込めない感じがあったんですけど、あの日の試合前はとくに痛くて、右腕を肩のラインよりも上に持ち上げられなくて......上げようとすると痛いし、シビれてくる」
── そんな状態なのに、投げないという選択肢はなかったんですか。
「なかったですね。去年、ヒジを痛めた段階で、今年1年、もし結果が出なかったら......という覚悟は持っていました。だからどんな形であってもシーズンの最後まで投げ続けなければいけないし、それが去年、ヒジを痛めていたのに契約してもらったファイターズに対する僕の最低限の責任だと思っていました」
── それでもブルペンで準備している時、さすがにヤバいな、という怖さはありませんでしたか。
「それはありました。だから痛み止めを飲んだら、それが効いたのか、ブルペンであんなに痛かった右肩が試合になった途端、痛くなくなったんです。しかも平塚の球場ってマウンドが軟らかくて土が掘れるから、体重が前に乗りやすくて腕が振れる感覚になります。そのせいか、スピードも球場の(スピード)ガンで138キロまで出て、『おっ、今日はいけそうだな』ってちょっとだけ思っちゃいました」
── 痛みがひどかった分、アドレナリンが出たのかもしれませんね。
「あれだけいろんなデータを見て準備をしているのに、いざ勝負となったらデータを無視してストレートを投げたくなってしまう。でも、そういうときこそ丁寧にいかなきゃいけないのに、腕が振れる分、コントロールがアバウトになってしまって......そんなこと、これまでに何度も繰り返しているんですけどね(苦笑)」
── カットボールを知野直人選手に、ツーシームを田中俊太選手に、いずれもツーベースヒットを打たれて1点を失いました。あの日は1イニング、21球を投げて、1失点という内容です。投げ終えてから、どうしたんですか。
「すぐに病院で診てもらったら右肩の関節唇と腱板が損傷していると言われました。それは覚悟していましたけど、気持ちのどこかでまだ淡い期待を抱いたりする自分もいて......。もちろん、魔法のような治療法があるはずもなく、やっぱりダメなのかなと頭の半分では考えながら、もう半分ではシーズンが終わったら1カ月、地道にストレッチをして治療に専念すればどうなるのかな、なんてことをやけに現実的に考えていたりする自分もいたんですよね」
── 相変わらず、ショックを受けていてもおかしくない状況で、冷静ですよね。ひとりなのに、叫んだりわめいたりすることはないんですか。
「ないない(笑)。それはまったくないですね。逆に、いつもそうやって言われて、感情を出せない僕って、もしかしたらちょっと寂しいヤツなのかなと思ったりして(苦笑)」
── 希望と絶望の狭間で揺れていた斎藤さんの気持ちが、最終的に引退のほうへ振り切れた時の気持ちを思い出すと、どんなことを感じていたんですか。
「最初に浮かんだのは、次に何をやるべきか、ということでした。普通なら過去を振り返ったり、懐かしんだりするんでしょう。でも、そういう感じじゃなかったかな」
── たしかに、それは斎藤さんらしくない。で、次に何をするんですか。
「いろんなことをイメージしていますけど、いまの自分が何をすべきか、もう少し考えたいなと思っています」
── ならば、あえて振り返ってもらうとしたら、ここまでの野球人生、悔いのようなものはあったりしますか。
「それは、いっぱいありすぎて」
── いっぱい?
「そのいっぱいは、大きいのがいっぱいじゃなくて、本当に細かい、小さなことがいっぱい、という感じなので......これが、というのを挙げるのは難しいですね」
── ボタンを掛け違えてズレちゃったな、みたいな感覚はあるんですか。
「そうですね......まぁ、ありますね」
── それは、どこでしょう?
「高校3年生の夏の甲子園をスタート地点とするならば、最初にズレたのは、甲子園が終わって行ったアメリカ遠征かな。あの時、技術的な感覚がズレてしまった気はしています」
── 技術的な感覚?
「夏の甲子園の僕は、変化球はほとんどがスライダーでした。フォークはたまに投げるくらいだったのに、アメリカではフォークばっかり投げたんです。それは、フォークの調子がものすごくよかったからでした。甲子園のマウンドはすごく軟らかいのに、アメリカのマウンドって土が硬いじゃないですか。その硬いマウンドに適した投げ方をすると、フォークがやたらと落ちてくれるんです。それで、フォークの味を覚えてしまって......でも、いま思えば、それが落とし穴でした」
── その時、何が狂ったんですか。
「僕のなかでは『調子いいじゃん』って感じだったんですよ。新しい自分を見つけた......くらいに思って喜んでいました。甲子園ではストレートとスライダーだけで勝った。でもアメリカでさらにフォークを覚えた。大学からプロに行くためには新しい変化球を増やさなくちゃいけないと思っていましたから、すごくうれしかったんです。でも、じつはあれでリズムが変わって、投げ方が狂って、歯車がズレ始めていたのかなと、最近、思うようになりました」
── 最近というのはいつ頃ですか。
「この2、3年かな。この2、3年でトラックマンが出てきて、いろんなデータを見ることができるようになった時、僕の得意球は何だろうというふうな視点で見てみたんです。そうしたら、フォークの回転数とか回転軸がすごくいい。ああ、僕ってフォークがいいんだと思って投げていたら、いい数字が出たときって、肩に負担がかかっている感じがあったんです。そういえば......と思い返してみたら、高校のアメリカ遠征でフォークを落としにいくためにそういう投げ方をして、実際にすごく落ちていた時って、肩やヒジにものすごく負担のかかる投げ方をしていたんですよね。トラックマンのデータがなかったら気づかなかったことかもしれませんけど、あれはいっぱいあった小さいことの最初だったのかもしれません」
── 夏の甲子園から考えれば16年、斎藤さんは"斎藤佑樹"であることを演じさせられてきた感じはお持ちですか。
「それはもちろん、あります。もちろんあるし、今でもかすかに残ってるんじゃないかなと思います」
── "斎藤佑樹"を演じることを、斎藤さん自身はどう捉えていたんでしょうか。
「どうなんでしょうね。もし今の僕が甲子園で勝った直後に戻ったら、もっともっと演じているかもしれませんよ(笑)。だって、高校生や大学生だった時の僕はノリにノってたし、ホントに何でもできると思っていましたから......。そう思うと、よくあの程度で収まっていたなって。もっともっと調子に乗っていてもおかしくなかったし、周りのことなんか何も考えずに突っ走っているんじゃないかな」
── そうやって聞くと、"斎藤佑樹"を演じていたことは、必ずしも居心地が悪かったわけではないんですか。
「ただ、どこかで気恥ずかしさを感じながら演じていましたね。だから、もちろん今の僕なら、絶対、そんなふうには演じさせませんよ。むしろ、もっと堂々と演じればいいんだって言います」
── 堂々と演じる(笑)。
「堂々とすればいいのに、ヘコヘコしてましたからね(笑)。もっと素の自分をさらけ出したかったんですけど、自分が置かれている立場を考えて気恥ずかしさが出てしまっている感じ。チームのど真ん中にいようとしてもよかったのに、ほかの選手に気を遣って自分は表に出ないようにしようとか、周りを見ながら立ち位置を探っているところはあったかもしれません」
── そうだとすると、演じることはやっぱり辛くて、苦しかったのかな。
「そうですね......。でも、みんなが僕に自分を投影してくれているのかなと思うことは、決して苦しいことではなかったような気がします。実際、今の僕も夏の甲子園の時の自分に気持ちを投影していますからね。あの夏、(延長15回の決勝引き分けを含めて)準々決勝から4連戦で4連投、4完投(4日で553球)した最後の決勝再試合、肩はすごく疲れていたし、身体も全然動かなかったんですけど、それでも投げなくちゃいけないって当たり前のように思っていました。
もちろん、あの時は今に比べれば若いし、元気だし、身体に不安もありませんでした。でも、ホントに今もまったく一緒で、腕は上がらないし、身体は思うように動かないのに、投げ続けなくちゃいけないと当たり前のように思える。それは今の僕が"斎藤佑樹"に気持ちを投影しているからなのかな、なんて考えたりしたこともあります」
── 逆にこの数年、結果がついてこなかった時に聞こえてくる声は、"斎藤佑樹"を演じる斎藤さんにどう響いていたんですか。
「この数年は、本気で演じていた頃に比べれば(笑)、ずいぶん演じなくなっていましたからね。その分、フォーカスするのは自分のことではなく、自分がやるべきことになっていた、というところはありました。"斎藤佑樹"がどうあるべきかではなくて、"斎藤佑樹"が何をやるかが大事であって、どうプレーしているかということが大事なんじゃないかなって思うようになりました。栗山(英樹)監督にもそれはずっと言ってもらったことでした」
── 実際、この数年は本当に楽しそうに野球に向き合っていましたよね。
「それは本当にそうですね。とくにこの1年は、自分で考えて、投げて、トライアンドエラーを繰り返しながら、こうやったら打ち取れるんじゃないか、こうすれば結果は違ってくるんじゃないかということを、データを見ながら、あるいは自分のフォームを撮影して動画で見ながら、いろいろ考えてやってきた感じはあります。それが頭のなかで整理できたときには身体が言うことを聞かなくなっていて......いやぁ、すべてを合致させるのは難しいものですね」
── いま、やり尽くしたというふうには思えていますか。
「それはじつは去年くらいから思っていたんです。それでも22歳で入ったプロの世界で33歳の今年、11年目のチャンスをもらえたのは、もしかしたら野球の神様からのご褒美だったのかなって......。全部、ゾロ目だし(笑)......いまはそんなふうに思っています」