男子73キロ級で五輪連覇を達成した大野将平【写真:AP】

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「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#23

「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など、五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。柔道では、活躍した選手の恩師の育成法をクローズアップした短期連載を掲載。第4回は男子73キロ級で連覇を達成した大野将平(旭化成)。柔道界に君臨する最強の戦士の礎を築いたのは、恩師の持田治也氏(世田谷学園柔道部監督)だ。数々の五輪金メダリストを輩出した柔道私塾・講道学舎(東京・世田谷区、2015年閉塾)で鍛え上げ、内股と大外刈りを伝授し、世界で闘えるたぐいまれな精神力を育んだ。とはいえ、初期は“弱すぎた将平”。名伯楽は大野の才能をいかに見抜き、心技体を伸ばしたのか。(取材・文=THE ANSWER編集部)

 ◇ ◇ ◇

 講道学舎は、中学・高校一貫指導の全寮制の柔道私塾だった。1964年東京五輪の柔道競技で、初めて外国人選手(アントン・ヘーシンク=オランダ)に敗れたことに危機感を強めた初代会長の故横地治男さんや財界人が、本来の日本柔道を取り戻すべく76年に設立した。大道場には、嘉納治五郎師範の最後の書が飾られ、食堂、トレーニングルームを備えた。ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻が訪れるなど、海外から著名人の来賓も多かった。バルセロナ五輪金メダルの古賀稔彦さんや、吉田秀彦、瀧本誠など名だたる柔道家を輩出した。

 大野は、先に講道学舎の門をたたいた2つ上の兄の背中を追って、故郷山口から上京。小学校6年生のときに、講道学舎の入門試験を受けた。当時の体重は、50キロほどと細く、試験の成績は振るわなかった。見かねた兄は道場に来ていた母に向かって言った。

「恥ずかしいから連れて帰れ!」

 持田氏は首を縦に振らなかった。「バカ言うなと。泣きながらでも試合を続けていることが大事なんだ」。大野は9人の同期と、入門を許可された。

 この日がなければ、今の大野の姿はない。「彼と初めて会ったときのことを思い出して、こんなふうに2度も五輪を経験するような選手になるとは思っていなかったし、巡り合わせに感謝をするとともに、不思議な感覚を覚えているのが正直なところ」と持田氏は感慨深げに語る。

 いかにして“ダイヤの原石”大野の将来性を見抜いたのか。

「私たちは、泣きながらでも取り組みをやめない子に対しては、当然、何か手伝えることがあるというふうに思っていました。強い弱いだけが適性ではない」

 母の前で涙を流しながらボロボロになっても挑戦することをやめない。小さな可能性の芽を摘み取ってしまうことは、持田氏の信条に反していた。

 大野はその後も、何度も壁にぶつかった。中学3年になる手前、大野にとってターニングポイントになる出来事が起こる。

 持田氏は大野をキャプテンに指名した。当時、大野の位置は同期のうち真ん中か下から数えたほうが早かった。名門・講道学舎の主将は何より、実力が評価される。

 だが、そのころ、持田氏はすでに大野の能力をはっきりと見抜いていた。

「彼が相手と乱取りをしたり、練習する中での取り組み方、そこがやはり、他とは違かった。まず一番下でレギュラーに入っていなかった大野が、それでも頑張って、当時6番目くらいに上がってきたとき、私が大外刈りと内股という1つの材料を与えました。本来、体力がある者がやりがちな内股と大外。

 いわゆる大技と言われるものをやりなさいと指示を出したとき、たいがいの生徒は無理だからと自分で判断する。新しい技に取り組むと、一時的に弱くなる。私との距離を作って、自分のスタイルに戻そうとする選手がほとんど。それは甘んじて許すわけですけど、ところが、将平だけはそれをしなかった」

 内股、大外刈りは今や大野の代名詞。その習得過程で、同様の指示を受けたほとんどの選手が脱落する中、妥協なく鍛錬に打ち込む姿勢が、師の心を動かした。

「例えば、彼がチームの中でポイントゲッターの位置にいたら、それはさせなかったかもしれない。ポイントゲッターというのは、ある一定のスタイルがあって、それで投げられるわけですよね。だけど、将平は違った。彼は取れなくても仕方がないっていうくらい、小っちゃかったし、弱かった。だけど、キャプテンにした」

インターハイで騒然となった会場「あれ、誰よ? 大野の弟だってよ?」

 とはいえ、当時の大野にとっては大きな試練だった。高校に入ると、柔道の団体戦では無差別の闘いを想定しなければならない。組み合わせによっては、大野の体格で100キロ超級の巨漢と対峙しなければならないのだ。名門を率いる主将としてのプレッシャーは想像を絶するものだった。
 
「相手のしんがりに130キロ、140キロの技のキレる高校一流の選手がいたとしたら、自分は体の半分しかないからどうぞって道を譲るのかという話なわけですよ、単純に言ったら。そうすると、いや譲りませんってウチのキャプテンは言うわけですよね。教えとして、そういう作り方を常々してきたので。じゃあ、どうあるべきかということは彼らは考えますよね。

 全部引き分けで大将に回ってきたとき、どういう覚悟で相手と向き合うか。それは中学生の思春期だったら、大変な刺激を受けたと思いますね。『やばい、この俺がキャプテンかと。俺だって、順位的には4番目か5番目だろ』と思ったと思いますよ、将平は。『じゃあどうする?』と言ったら、わらにもすがる思いで、技を試してみたんだと思うんですよ」

 こうして、血のにじむような努力の末に、内股、大外刈りを徐々に習得。結果もついてくるようになる。高校2年生のとき、全国高校総体(インターハイ)の個人戦で優勝した。「あれ、誰よ? 大野の弟だってよ?」。当時柔道家としては兄のほうが有名で、会場は騒然となった。

 講道学舎で寝食をともにした持田氏は「技」の部分を伸ばしながら、大野の「心」や「体」の成長も促した。

「心」について言い聞かせたのが、相手を敬うことの大切さだった。

「勝った側と、負けた側は精神状態としては、当然、両極にあるわけですよね。ただ、そんな中で、必ずしも勝っておごるなということは教えましたね。なぜかというと、次に自分が同じ立場にいるかもしれない。そして相手を思いやる幅こそが、お前たちががむしゃらに修行している理由だ、ということも言い続けました。本当に強い男を求めるなら優しくあれという言葉を言ってきたつもりです。勝った選手を必ずしも私が強いとは思わなかった。逆に負けた人間に強いなって思い知らされたことが多くて」

 例えば、疑惑の判定と言われたシドニー五輪の篠原信一VSダビド・ドゥイエ戦を教材に、「篠原が『自らが弱いから負けた』ということを言ってくれたことで日本の威信が保たれた」と大野に話したこともある。消化できない敗戦から、何を学ぶか。また、勝者はどうあるべきか。いつしか大野自身もその答えを探すようになった。

 リオ五輪でも派手なガッツポーズをしないことが脚光を浴び、中学3年生向け道徳の教科書に掲載された。侍のようなたたずまいが日本人の心を打った。「心の部分というのは成熟度っていうことにつながる。人間は勝ったときは舞い上がるし、負ければヘコむ。当たり前なわけですけど、浮き沈みそのものこそが心が整ってないっていうこと」。東京五輪決戦前の7月初め、大野から相談を受けた持田氏は「強さは優しさだ」と改めてメッセージを送っている。

主将から近年2人の東大合格者を輩出した世田谷学園柔道部の教え

 学生である以上、学業との両立にも気を配った。大野は世田谷学園でも優秀な生徒だった。「彼はクラスで1年のときからずっとトップでした。結局、そこが彼の意地。柔道だけ強い選手はいっぱいいる。あるいはアスリートとしてそれなりに優秀である生徒はいるわけですけど、それだけではいかんということで言ってきましたので。両方やるからすごい」。大野は天理大卒業後も大学院に進学し、柔道に対する研究を行っている。

 伝統は受け継がれ、世田谷学園では、柔道部主将から近年2人の東大合格者を輩出した。「主将としての誇りを彼らなりに受け継ぎたいという流れがありまして。オリンピックの金メダリストと東大、今はそういう柔道部です。それが私のできる取り組みかなと思っているので」と持田氏は話した。

 一方で、難しかったのが、「体」の根幹となる食事面。「正直、ここが一番の難題で。彼は食が細くて偏食なんです。生魚を食べられない。要は一番の大好物はピザだったりする。洋食みたいなの好きだったんですね」と苦笑した。ハードな練習量をこなし、食事もどんぶりで豪快に取るという柔道家のイメージは大野には当てはまらなかった。「育ちざかりなのでガーッと食うイメージがあった。本当に茶碗一杯。普通の食事しか取らないんです。ごはんはもりもり食べるタイプじゃないです」。食堂ではバランスの整った食事を提供していたものの、栄養の心配は常につきまとった。

 魚が食べられないため、力を入れたのは肉料理だった。持田氏が自ら台所に立つこともあった。よく食べさせたのはプルコギといい、「彼は牛が好きでしたね。プルコギなんかも私が鍋を振っていました」。野菜を多めに摂取させ、ちゃんこ鍋は味付けをアレンジしながら振る舞い、栄養の偏りを少なくしたという。無理やり食べさせることはなく、「食べないもん、あの子は。頑固だから。そんなの言ったって」と、本人に任せていた。

 持田氏は、大野に限らず、子どもの父兄に対し「我が子」「我が子以上」と声をかけ、愛情を持って育ててきた。

 選手を育てる秘けつについて、次のように結んだ。

「これは親子関係と一緒で、信じる力というのかな。いいときばかりではないけど、我が子と同じスタンスじゃなきゃといけないと思っている。それに近づかなきゃいけないなと思っています。もちろん、本当に(我が子と)思えているのかな? と思うこともあるけれど、ただ、やっぱり、一番のファンであることは間違いないよね。

 ほかの人がいろんなことを言ったとしても、自分の一部だと思っている。親子関係だって思春期があって、離れる親もいる。だけど、それでも親の思いっていうのは変わらない。みんなに袋だたきになっても、誰かが待っててくれる、あの人だけが信じて待っていてくれるという存在であればいいなと思っています。居場所かな……」(THE ANSWER編集部)