「見た目が外国人」に見られる日本人男性の職務質問体験とは(写真:じろきち/PIXTA)

1月27日の夕方5時半頃、アロンゾ・表側さんは東京駅を通って職場から帰宅していたところ、警察官に薬物所持の疑いで質問を受けた。警察官は、日本人とカリビアンの血を引く日本国民である表側さんに、身元と所持品の検査を要求した。表側はそれに応じたが、その前に、何千人もの人がそれぞれの理由で通勤をしている中、なぜ彼だけを選んで声をかけたのか、また彼の権利について質問を投げかけた。

その後、激しく言い争う様子の動画はさまさまなでSNSで拡散された(ツイッターでは2月21日時点で視聴数約26万8000回、3000回以上リツイートされている)。

言い争っている動画では、日本人の警察官が若い表側さんの服装やヘアスタイルから人物を判断したことを告白している。

外国人は「違法行為」と結びつけられやすい?

悲しいことだが、表側さんが東京の路上で警察に引き留められて差別を受けたのはこれが初めてのことではない。この件の数日後に表側さんに話を聞いたところ、彼はこれまでもこの屈辱的な体験に何度も耐えてきたが、たいていの場合、日本人の通行人はじろじろ見て通り過ぎるだけだ。少なくない通行人が、表側さんが「外国人」だから違法行為を犯したと結びつけていたのかもしれない。

こうした推測は不幸にも長く続いてきた非日本人――特にアフリカ系の子孫である人々へのステレオタイプな見方、無警察ぶりを強固にしている。これは恐れや無知、固定観念、決めつけなどによるもので、”一般的な”日本人が受けるよりずっとひどい「犯罪者扱い」に表側さんは耐えてきた。

実際、このタイプのハラスメントは頻繁と言っていいほど発生しており、もう同じことが起きても表側さんは驚かなくなっているという。彼がハラスメントの動画を撮ったのですら、これが初めてのことではない。過去6カ月で3度目だ。

「前の2回の時は、私の髪のせいではなく、黒人だからという理由で呼びとめられたんです」と表側さんは説明する。

「それで、今回呼びとめられたとき、同じ理由だと思いました。私はドレッドヘアにする前から、このヘアスタイルのために重荷を背負うことになると知っていたんです。自分が警察に呼びとめられることになるだろうとはわかっていました。

でもドレッドヘアだけのせいではなく、ドレッドヘアの黒人だからです。ですから、この動画の警察官が、ドレッドヘアが理由で私を呼びとめたと言って、私の肌の色のことは何も言わなかった時、その皮肉さに笑うしかなかったんですよ。私は疑い深い人間なもので」

どうしようもなくて「笑う」

彼の話を聞いていると、本当にその気持ちがわかる。この話を語りながら、彼は笑っていたが、私もこういう笑い方をよく知っていた。私もこんなふうに笑うことが時々あるからだ。当事者がこうした状況で感じるこの屈辱と怒りを覆い隠すには、笑うことしかできないものだ。

人間性を抹殺されたことを笑ってやり過ごすこのテクニックは、アメリカにいるアフリカ系の多くの人々が頼りにしているスキルだ。なぜなら、われわれが何を言い、書き、歌い、叫んで泣こうとも、「より優れた」社会によっていつも勝手に決めつけられ、ちょっとでも怒っていることを示そうものなら、怒り狂って理性を欠くという黒人のステレオタイプを悪化させてしまうと知っているからだ。

私の母ならこう言うだろう。「お酢よりハチミツの方がハエをたくさん捕まえられる」と。つまり、本当は怒ったり絶望していても、あなたが笑いかければ、あなたの経験により共感してくれるようになるものだ、ということなのだ。これは、「J-Gaze(ジェイーゲイズ)」の中で生きている、異なる人種の血を引く人々にとっても同じことがあてはまる。

J-Gazeとは、「ホワイトゲイズ」の日本バージョンを言い表すために私が作り出した言葉だ。「ゲイズ」とは、じっと見ることを意味する。

ノーベル賞とピュリツァー賞を受賞したアフリカ系アメリカ人の作家トニ・モリスンは「ホワイトゲイズ」という言葉を作った。黒人は一定のレベルでつねに自分の人種を代表していると意識している。黒人である自分の行動は、 広義の意味で類似しているだけの人も含め、同じ人種と見なされている人々が皆同じようにするはず、と他人が期待する行動例として認識されてしまう。

黒人にしてみれば自分たちはそれぞれお互い明確に違い、多様であるのに、他人を肌の色でラベル付けする自らの怠慢さを許す贅沢のある人々は、黒人というステレオタイプに基づいてラベル付けをする。

これは表側さんや、彼と類似する外見を持つほかの多人種の血を引く日本人の場合にも当てはまるだろう。そして、同一人種であるという幻想に誇りをもっている日本社会では、避けることのできない「他人化のレンズ」を通して見られているのだと非常に強く意識せざるを得ない。

動画を撮って共有することの意味

こうしてじろじろ見られてしまう事態は、表側さんが受けた職務質問のように、いわゆる権威を持った人が介在するとより強いものになってしまう。そうした時に、撮影することは一種の自己防衛、保障になり、その存在を知らない人に対して、じろじろ見られることは現実として起きている、と示すことができる。

しかし、表側さんはもう1つ、異なる形で動画が役に立つかもしれないと期待している。

「日本の警察にハラスメントを受けた友達はたくさんいますよ」と表側さんは言う。「動画が拡散して嬉しく思っています。この問題に対する認知度が上が上がるのは素晴らしいことです」。

「でも、この動画を何かの運動を立ち上げるためのものにしたいとは思っていません。個人的には友達の多くが思ってるほど、このことを悪く思っていないからです。日本で生まれてよかったと思っていますし、日本語も英語もネイティブです。だから自分の面倒は自分で見られます。でも同じような目にあっている多くの人は、そこまで恵まれてない。多人種で多文化の背景を持つ警察官や通訳を多く採用して、非日本人の人を援助できるようになるといいなと思います」

こうしたタイプのハラスメントが止まらない理由の1つは、私が思うに、外国人、いや全ての黒人が同じことを体験しているわけではないからだ。アフリカ系アメリカ人である私の体験は、実は表側さんのものとはほぼ正反対なのである。

私が初めて日本に移住したのは2004年だったと記憶している。当時付き合っていた女性が遊びに来た時は、駅まで自転車で迎えに行って彼女を乗せた。彼女には、自転車のハンドルバーに乗ってもらい、私は駅からちょっと先のアパートまで自転車を漕いでいた。

ある夜、警察官が私の行く道に現れて、私は自転車を止め、彼女もハンドルバーから飛び降りた。これが、私が初めて日本の警察と関わった出来事だったが、どう感じていいのかわからなかった。ひどい扱いを受けるかもしれないと心の準備をしたが、警察官の反応は予想外だった。

何もしなかったのだ。

警察官は私がそこにいないかのように、まるで私が違反行為をした人間ではないかのように振る舞った。そして警察官は私の彼女に対して話しかけ、目線を合わせたのだ。私のことを話しているのに、私はそこに存在していなかった。

2人は私のことを3人称で話して、ハンドルバーに乗る行為の危険性(と違法性)について話していた。彼女は怒られ、私の行いを一生懸命謝っていて、まるで彼女が私に関して責任を負っているようだった。彼女のペットの外人が交番の外の歩道に糞をしたみたいに。彼女は何度か頭を下げ、そしてそれでおしまいだった。

16年間で4回警察に引きとめられたときも、似たようなものだった。私と警察のやり取りはまったく過剰になることはなく、不公平にハラスメントを受けたと感じたこともなく、アメリカで頻繁すぎるほど起きている取り扱いに比べたら(比較することは嫌だが)、日本では怒ることもない。

しかし、これは私の個人的な経験である……ほかの多くの非日本人、多人種の血を引く日本人で、日本に住んでいる人たちはまったく違う経験をしているらしい。表側さんが東京駅で経験した出来事の動画がアップされて以来、非常に多くの人が警察によってハラスメントを受け、差別された話を私に教えてくれた。私が警察にそのポリシーについて問いただしたくなることばかりだった。

警察からの「回答」

そこで、私は警視庁に質問することにした。警察官が職務質問をする基準をどう設けているかについてだ。例えば、警察官は外国人、特に黒人に対して偏った見方をしていないか、服装や髪型で決めつけてはいないか、所持品検査をする基準は何か、そして警察ではハラスメントに対する教育を職員にしているのか、どうすれば、外国人やそう見えてしまう人が不要な職務質問を避けることができるのか、といったことだ。

そして警察からは以下のような回答が来た(ちなみに、私のようなフリーランスが警察に質問することはできず、掲載媒体から文書で要請する必要があった)。

「街頭における職務質問や所持品検査を始め、警察官が行うあらゆる職務執行は常に法令上の根拠に基づき、適正かつ公平、忠誠に実施しているところでございます。引き続き都民、国民の期待と信頼に応えるべく、職員に対する指導、共有をしてまいります」