戦国ファン必見!その名も「武田信長」というインパクト最強な武将が実在した
戦国時代ファンなら、「第六天魔王」織田信長(おだ のぶなが)や「甲斐の虎」武田信玄(たけだ しんげん)を知らない人はいないと思いますが、この両者をくっつけた名前の武将が実在することは、あまり知られていません。
その名も武田信長(たけだ のぶなが)……何だか歴史ゲーム「信長の野望」で設定したオリジナル武将みたいな強烈インパクトですが、武田信玄の遠い親戚(※)として室町時代〜戦国時代初期に活躍していました。
そこで今回は、武田信長の生涯をたどってみようと思います。
父の跡を継ぎ、甲斐国守護を目指すも……。
武田信長は甲斐国の守護大名・武田信満(たけだ のぶみつ)の次男として誕生。生年は不詳ながら、一説には応永7年(1400年)ごろと考えられています。
時は応永23年(1416年)、前関東管領職の上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう。氏憲)が鎌倉公方の足利持氏(あしかが もちうじ)に対して叛乱を起こしました。
いわゆる「上杉禅秀の乱」に信満が加担し、信長も参戦しますが、父が討死すると甲斐国は無政府状態となり、国人勢力の逸見(へみ)氏、穴山(あなやま)氏、跡部(あとべ)氏らが権力の座を奪い合って大混乱に陥ります。
「おのれ、父の死に乗じて好き放題を!甲斐国守護は、嫡男たるわしが継ぐのじゃ!」
まだ17歳ごろの若い信長でしたが、その通称を悪八郎(あくはちろう)と呼ばれたほどの豪傑で、海千山千の国人衆らと渡り合い、一進一退の攻防戦を繰り広げたのでした。
武田信虎。信玄に追放された暴君として悪名高いが、甲斐国を統一する100年越しの偉業を成し遂げた英雄でもある。
※その後、甲斐国は信長より4世代子孫の武田信虎(のぶとら。信玄の父)によって再び統一されるまで、100年以上にわたって分裂状態が続きます。
ただし、室町幕府から見れば信長も父に加担した謀叛人であることには変わりなく、甲斐国守護は信満の弟である武田信元(のぶもと。当時、兄の叛乱に際して出家していた)が任命されました。
「守護職はわしのものじゃ、叔父の還俗など、断じて認めぬっ!」
信長は他の国人勢力と一緒になって(ただしそれぞれの仲は険悪)、還俗して京都から帰ってきた信元の甲斐入国を阻み、応永27年(1420年)には死闘の末に信元を討ち取りました。
「よし、これで守護職はわしのものじゃ!」
……と思った信長ですが、幕府が任命した守護を殺すのは叛逆以外の何ものでもなく、応永30年(1423年)には信長の兄・武田信重(のぶしげ。叔父と一緒に出家していた)が甲斐国守護に任命されます。
「父の謀叛を恐れて出家したくせに、我が兄とは言え、甲斐国守護になど認めてたまるか!」
という訳で、信元の時と同じく他の国人勢力と一緒になって信重の甲斐入国を妨害し続けた信長ですが、今度は信重に対して鎌倉公方からの全面バックアップがあり、奮闘するも敗れて降伏。しぶしぶ鎌倉府へと出頭したのでした。
甲斐国への復帰ならず、各地を転戦して上総国へ
「おのれ、無念じゃ……!」
信重の口添えもあったのか、命ばかりは助けられた信長は、鎌倉で8年ばかり屈従の日々を送ることになりますが、永享5年(1433年)には鎌倉から出奔、甲斐国へ戻って再び叛旗を翻しました。
「今度こそ、甲斐国守護に!」
しかし甲斐国内はすでに信重が(統一できていないとは言え)勢力基盤を固めており、つけ入る隙のないまま跡部氏に敗退した信長は、駿河国(現:静岡県東部)へと逃亡、しばらく行方をくらませます。
※一説には室町幕府に仕えて武功を立て、相模国(現:神奈川県の大部分)に勢力基盤を築き上げて同国の守護職に任命された(嘉吉2・1442年ごろ)とも言われていますが、間もなく上杉氏によって守護職を奪われてしまいます。
「かくなる上は、いったん遠方にて態勢を立て直そう……!」
そこで今度は下総国(現:千葉県北部)まで逃れ、古河公方の足利成氏(あしかが しげうじ)に仕えます。
約28年間にわたって室町幕府と渡り合い、関東一円で激戦を繰り広げた足利成氏。歌川国貞「八犬傳 犬之艸帋之内 足利成氏」より。
この成氏、かつて信長が上杉禅秀の乱で争った鎌倉公方・足利持氏の遺児で、やがて関東管領の上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を暗殺し、室町幕府を相手どって戦う「享徳の乱※」を惹き起こしました。
※享徳3年(1455年)〜文明14年(1483年)の28年間にわたって断続的な戦闘が関東一円で繰り広げられたことから「関東地方における戦国時代の幕開け」と考えられています。
「右馬助(うまのすけ。信長の官位)よ、そなたに兵を授けるゆえ、上総国(現:千葉県中部)におる上杉勢を蹴散らして参れ!」
「ははぁ……!」
誰かの下につくのは気に入らないが、相模守護職の座を奪った(?諸説あり)にっくき上杉氏を討伐できるならお安い御用……康正2年(1456年)ごろ、信長は兵を進めて上総国を制圧し、真里谷城(現:千葉県木更津市)を築き上げます。
「これでようやく、わしも一国一城の主じゃ!」
思えば討死した父の跡を継ぐべく、甲斐国守護を目指してから約40年……長い長い道のりを振り返れば、遠く上総国まで来ていたのでした。
エピローグ
その後も上杉氏や在地領主らとの戦いに明け暮れる一方、領国経営に心血を注いだ信長は、文明9年(1477年)ごろにこの世を去り、その志を子の武田上総介信高(かずさのすけ のぶたか)に受け継ぎます。
信高の子・武田八郎五郎信興(はちろうごろう のぶおき)の代になって本拠地の真里谷(まりがやつ)を家名に改め、戦国大名として頭角を現していくのでした。
武田・真里谷(上総武田)氏略系図
やがて一族の内紛や南総の戦国大名・里見(さとみ)氏らとの抗争に敗れて没落し、主の去った真里谷城は天文21年(1552年)に廃城とされたということです(天正18・1590年までは使用されていたという説もあります)。
現代、真里谷城跡はキャンプ場(木更津市立少年自然の家)として活用されていますが、もし現地を訪問の際は、かつて甲斐国からやってきた武田信長の雄志に思いを馳せてみるのも一興でしょう。
※参考文献:
秋山敬『甲斐武田氏と国人 戦国大名成立過程の研究』高志書院、2003年4月
黒田基樹『武田信長 シリーズ・中世関東武士の研究 第二巻』戎光祥出版、2011年1月