アフガニスタン、ミャンマー、ボスニア・ヘルツェゴビナ……傭兵として20年近く活動してきた高部正樹さんの壮絶で快活な半生とは?(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第86回。

日本人ながら「傭兵」として活動した異色の経歴

高部正樹さん(56歳)の最も知られている肩書は「元傭兵」だ。


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アフガニスタン、ミャンマー、ボスニア・ヘルツェゴビナと、海を渡り戦地に赴き、傭兵として20年近く活動してきた。傭兵とは金銭などの利益により雇われ、戦闘・闘争に参加する兵士や集団のこと。これは日本人としては非常に珍しい経歴だ。

引退後は、軍事アナリスト、軍事ジャーナリストとして活躍している。

著作も『戦友 名もなき勇者たち』(並木書房)、『実録!!傭兵物語―WAR DOGS―』(双葉社)など、傭兵時代の経験を基にした作品をたくさん執筆している。

先日上梓した『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』(竹書房)では、傭兵のシビアな面だけではなく、コミカルな面も描かれている。

不足した野菜をとるために銃撃されながらピーマンを採った話、仲間が現地の女性に惚れてしまった話、そして少女からビスケットを1枚手渡されて感動したエピソード、など。イメージする傭兵よりも、ずっと人間味のある姿が描かれていた。

ただ、それでも「元傭兵」という肩書の人だから、こわもての男性が来ると思い少し身構えていた。しかし実際に会議室に現れた高部さんは体躯こそ大きいものの、ニコニコと笑顔でとても優しい雰囲気の男性だった。


傭兵のコミカルな面も描かれている『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』(竹書房)

今回は、高部さんにどのような経緯を経て傭兵になったのか。傭兵時代の歴戦の話、そして傭兵を引退した現在の話を聞いた。

高部さんは、愛知県豊田市に産まれた。山も川もある自然豊かな田舎だったという。

「小さい頃から身体を動かすのは好きでした。朝から晩までカブトムシをつかまえたり、川で釣りをしたり。野球でもなんでも得意でした。勉強はほとんどしなかったですけど、成績は上位でした」

ある日、小学生の高部さんは両親に書店へと連れて行かれ、

「好きな本を買っていいよ」

と言われた。

高部さんは『戦艦大和のさいご/真珠湾上空6時間』(偕成社)という本を買ってもらった。それからは第2次世界大戦の軍記物の作品を読み漁るようになった。

「子ども心に『軍人は自分のためではなく、他人のために命をかけて戦う仕事だ。これこそ男の仕事だ』と思いました。そして大きくなったら軍人になろう、と決めました」

ただ、学校の先生は高部さんの夢は理解しなかった。

「卒業文集に将来の夢は『軍人』って書いたら、勝手に『プロ野球選手』って書き直されました。さすがにひでえなあって思いました(笑)」

当時、高部さんのいちばんの目標は航空自衛隊のパイロットになることだった。パイロットになるには大学を卒業するしかないと思いこんでいたので、普通科の高校へ進んでいた。

「高校2年生で航空学生という制度があるのを知りました」

航空学生とは、航空自衛隊の戦闘機のパイロットなどを養成する制度だ。非常に狭き門で、高部さんが入隊したときは、結果的に3000人が応募し、68人しか入隊できなかった。

「試験は全教科まんべんなく出題されました。マークシート試験ですが、英語と数学だけはそれ以外に筆記試験もありとくに重視されていました。

学校では私立文系コースで理系の授業がなかったため、教科書を買ってきて独学で勉強しました。理系の先生のところへ行き、教えてもらったりもしました。ただ、学力の試験もあるけれど、実際には適性検査のほうが重要視されているというのがもっぱらの噂でした」

適性検査とは、飛行機を操縦する適性を測る検査だ。身体検査、知能テスト、性格検査、そして実際に飛行機に搭乗しての試験と、徹底的にふるいにかけられる。

「なんとか合格することができました。もし合格しなかった場合、一般大学に進んでから航空自衛隊に入るなど考えていました。ただ航空学生になるのがパイロットになるいちばんの近道でしたからうれしかったですね」

1年生のときに基礎教育を学び、2年生では航空力学など飛行機に関する学問を学ぶ。その間、毎日ハードな体育訓練があった。

1日10〜20キロメートル走るのは当たり前

「1日10〜20キロメートル走るのは当たり前でした。教官に

『10キロ50分で走ってこい』

って言われて、これはかなり楽なペースなので内心喜びながら帰ってきたら

『はい、ウォーミングアップ終わり。10キロ40分で走ってきて。タイム切れないヤツはもう1本』

って言われました。みんな死にものぐるいで走って、なんとか40分を切って戻ってきたんですけど教官は

『はいクールダウンで10キロ走ってきて』

って言いました(笑)。そんなのが日常でしたね」

体力と気力は徹底的に鍛え上げられるが、耐えきれず辞める人もいた。2年の卒業時には、10人がいなくなっていた。

そして飛行機の訓練に移行したのは、58人だった。

「僕はジェット機の訓練までいっていたのですが、G(重力加速度)で腰を悪くしてしまいました。それで自衛隊を辞めることになりました。あと1年で戦闘機に乗れるところまで来ていたので、すごく残念でした」

残念だったが、だが普通に就職する気はなかった。それならば「傭兵になろう」と思った。ただ、当時は現在と違いインターネットで情報を調べるわけにはいかなかった。誰に聞いても、

「そんなのは映画の中の話だよ」

と馬鹿にされた。

高部さんは自動車工場で期間工として働いたり、ヨットハーバーでアルバイトをしたり、ボーリング(穴掘り)の仕事に就いたりと、さまざまな仕事を渡り歩きながら、傭兵になるチャンスを探っていた。

そんなある日、とあるフリージャーナリストがアフガニスタンに行った経験をまとめた本を目にした。

「『この人に連絡取ったら傭兵になる方法がわかるかもしれないな?』と思い出版社に連絡をとりました。すると『出版記念パーティーがあるからよかったらおいで』と誘ってもらえました」

そのパーティーでアフガニスタンに精通している人物を紹介してもらい、後日その人の事務所を訪ねたが、ほぼ門前払いをくらってしまった。

がっかりではあったが、だが少しの会話からある程度の知識を手に入れることができた。

「それはパキスタンとアフガニスタンの国境にあり、ベシャールという街の『ユニバーサルシティ通り』という場所に行けば、反政府ゲリラの事務所がある、という情報でした。

こうなったら1人で『ユニバーサルシティ通り』に行くしかない、と思いました」

仕事を辞めて、パスポートとビザ、パキスタン行きのチケットの入手した。

そこまで用意したところで、前述のアフガニスタンに精通している人物に挨拶をしておこうと思い立った。顔を出すと、その人は驚いた様子だった。

戦いたいと言って本当に戦うのは100万人に1人

「男が1000人いれば戦いたいと言い出すのが1人くらいいる。しかし実際に戦うのは100万人に1人だ。だから最初は拒絶したけどもしかしたら君はその100万人に1人なのかもしれない。なら時間を無駄にしなくてもいいように紹介状を書いてあげよう」

と、反政府軍の事務所の電話番号や担当者の名前を教えてもらい、紹介状も書いてもらった。

現地で、紹介状を見せると話はすんなりと通った。そして

「いつ行きたい?」

と単刀直入に聞かれた。高部さんはもちろん

「明日にでも行きたい」

と答えた。

「3日後くらいに、アフガニスタンに入る反政府軍がいるから一緒に入るか? と言われて、オーケーしました。3日あるならゆっくり準備しようと思っていたら、翌日

『今から行くから来い!!』

と急に言われました。現地の人が着る服、シャルワール・カミーズだけは準備していたので、それだけを持って反政府軍に加わりました。シャルワール・カミーズは民族衣装ですが、彼らは軍服ではなくシャルワール・カミーズを着て戦います」

反政府軍は多くの場合、親兄弟、仲間同士、というような人のつながりでできている小さなグループの集合体で、基本的に、自分たちが住む地域周辺で戦闘をしていた。

高部さんは当時、反政府軍の中では2番目に大きいグループに入った。そしてすぐに最前線に回された。高部さんにとって、最初の戦闘が始まった。

「アフガニスタンでは斜面の上のほうから攻めていくことが多いです。初めての戦闘は、気分も高揚していたので、まったく怖くなかったですね」

弾丸が飛んでくるときにはこんな音がするんだ、砲弾が炸裂するときはこんな音がするんだ、などと冷静に判断していた。

重症を負った兵士がかつがれて、斜面の下から運ばれてくる。撃たれて死んでいる人もいた。

「戦闘時はまったく怖くなかったんですけど、戦闘が終わり後方の拠点に移動してから、いろいろ思い出して急に怖くなってしまいました」

こわくてもう戦闘に出たくないと思った。

「頭が痛い」

「熱がある」

と仮病を使って戦闘をサボろうとした。

怯える高部さんに指揮官は、

「大丈夫、大丈夫!! 前線に行けば治るから!!」

と高部さんの手を引っ張り無理やりに、戦闘へ連れ出した。まるでスーパーで駄々をこねる子どもを、親が無理やり引っ張っていくような状態だったという。


(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房

「実戦では基本的に先に敵を見つけたほうが、自分たちのタイミングで攻撃をしかけます。戦闘のはじめに最大火力を出すようにします。もちろん先に相手から見つかって発砲されることもあります」

パパパパン!! と山間に銃声が響くと、それを契機に戦闘がはじまっていく。

撃たれた側は当然即座に撃ち返す。

野球の応援のウェーブのように、戦闘は波及していく。


傭兵時代、部屋で準備をする高部さん

「もちろん、戦闘になるかどうかは状況によってさまざまです。パトロールで敵を見つけても戦闘をしかけないことはありました。無視しても問題ないと判断したときや、相手が強すぎる時は仕掛けませんでした」

一度だけ、お互いが発見し合ったのに戦闘にならなかったこともあったという。

高部さんの隊が山の中腹を歩いていると、200メートルほど先の敵の軍隊と鉢合わせしてしまった。

お互い、敵がいるとは思っておらず油断していた。高部さんたちは銃を肩にかけていたし、敵の兵隊は地面に銃を置いていたりした。

お互いに睨み合ったまま、動けない状態が続いた。高部さんの隊の先頭を歩いていた兵士が、ゆっくり1歩ずつ歩き始めた。相手の兵士は目で追うだけで、行動はしなかった。

敵兵の死角に入った途端、全員全速力で走って逃げた。

「戦闘力は相手のほうが圧倒的に強かったですね。味方は10人。敵は30〜40人でした。戦闘になったら結構不利な状態でした。その頃、旧ソ連軍が撤退する直前だったんですよ。彼らは、もうすぐ故郷に帰れるのに、無用のリスクは犯したくないって思ったんでしょうね。助かりました」

このように傭兵は、まさに命を張った仕事だ。朝ごはんを食べた仲間が、夕食にはいなくなっている、というのは珍しい出来事ではなかった。


ヘリに攻撃された後。小さい破片が3つ背中に刺さった

実際、高部さんも大怪我をしたことがある。

「ソ連製の攻撃ヘリが、砲台をロケットで攻撃しました。砲台は大破して、飛んできた小さい破片が3つ背中に刺さりました」

ヘリコプターは砲台を撃破しただけで退散したからよかったが、追撃されていたら一瞬にしてミンチになっていただろう。

そんな命をかけた戦闘をこなして、高部さんはどれだけの報酬を得ることができたのだろうか?


(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房

1回にもらう給料は8000円ぐらい

「アフガニスタンのときは1回にもらう給料は8000円ぐらいでしたね。雑にカバンからわしづかみにしたアフガニー(アフガニスタンの通貨単位)札束を手渡されました。その給料の出どころもどこからなのかはわかりませんでした」


(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房

現地の兵隊としては、8000円は悪い金額ではなかった。ただ、高部さんにとっては使い道がなかった。アフガニスタンにいる間は、食べ物などは支給される。そして国境を超えて、パキスタンに戻るとアフガニーは使えない。両替商はいるが、弱いアフガニーをルピーには交換してくれなかった。

結局、高部さんは給料を全部仲間に配っていた。


(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房

「でも僕はお金のために傭兵をしていたわけじゃなかったので、何とも思いませんでした。それに、その後に行ったミャンマーはボランティアだったので報酬は0円でした。衣食住武器弾薬はタダで支給されましたが、飛行機のチケット代などを考えると完全にマイナスでしたね」

高部さんはミャンマーではカレン民族解放軍に加わり、活動した。アフガニスタンで傭兵デビューした高部さんだったが、イスラム教徒ではないので感情移入がしづらかった。

それに比べミャンマーは、指導層こそキリスト教がメインだが、一般人の7割は仏教徒だった。また第二次世界大戦で日本兵が行っていた地域もあり、比較的日本人に対して好意的な人も多かった。

1990〜1994年、1995年〜2007年と合わせて16年間、高部さんの傭兵人生では最も長く活動した。

先にも書いたがミャンマーでの戦いは、給料は出ない。着るものを買うくらいしか出費はないが、それでもお金は減っていく。

ミャンマーには雨季と乾季があり、雨季には車両が走れなくなり、敵も味方も補給がしづらくなる。結果的に、戦闘は散発的になる。

「1年のうち半分は動きがないので、雨季の間は日本に帰ってきて働くことも多かったですね」

とにかくギリギリまでミャンマーにいたため、日本に帰ってきたらもう手持ちのお金が5000円しかないときもあった。

キャベツ1個を買ってきて、油で炒めて、醤油をかけて食べる日が続いたこともあった。

「帰ってきて知り合いに会うと、みんないいもの食べて、いい女と遊んで、いい自動車乗ってました。彼らに、

『よくそんな生活してるね?』

って馬鹿にされましたけど、逆に僕からしたら

『お前らこそ、よくそんな退屈な生活をしていられるな』

と感じていました」

それでも戦場にいると、飢えるし、汚いし、肉体的にもきつい。日本に帰りたいと思うこともあった。

日本に帰ってくるとつまらなくなった

だが、日本に帰ってきて2〜3日がすぎると、つまらなくなった。まるで生きている感じがしなくて、早く戦場に戻りたいと思った。

「例えば1000円払っていいもの食べるなら、毎日キャベツでもいいから、1日でも早くお金をためて戦場に戻りたかったですね」


銃の準備をする高部さん

戦場は死ぬ確率が非常に高い。

高部さんも自分が死なずに済んだのは、運がよかったからと認識している。

戦場に憧れる人は少なくない。だが実際に戦争に行く人はごくわずかだ。それは戦場へ行くとリアルに死んでしまうからだ。

高部さんは、死とどのように付き合ってきたのだろう?

「周りで仲間は死んでいきますから、いつかは自分にも順番が回ってくるかもしれないと覚悟はしてました。ただあんまり重たくは考えてなかったですね。『運が悪ければ死ぬな』ってな感じです。『死ぬのも契約のうち』くらいに思ってました」

後輩の日本人の兵士が深刻そうな顔で、

「これが最後の日本かもしれないと思って、両親の作ったご飯を食べてきました」

としみじみと言っているのを聞いて、高部さんは少し呆れたという。

「僕たちは徴兵じゃありません。『好き勝手にやってきて戦争してるのに、深刻な顔で何を言ってるの?』って思いました。死ぬのが嫌だったら日本にいたらいいんですよ」

高部さんが傭兵になって10年後、世話になっている出版社経由で日本から連絡が入った。連絡をよこしたのは、高部さんの母親だった。

「『1年前に父親が死んで、今度納骨するからよかったら帰ってきたら?』って言われました。それで久しぶりに帰ることにしました」

戦場から帰ってきて家族やペットと再会して、大歓喜するシーンがニュースになることがある。高部さんは10年も離れていたのだから、感激もひとしおだと思うが、まったくそんなことはなかったという。

高部さんの母親は、

「お前は小さい頃から『戦争だ!! 戦争だ!!』って言ってたから、きっとこんなようなこと(傭兵)してるんじゃないかと思ってた」

と高部さんに告げた。

「見事に母親の予想どおりのことをしていましたね(笑)。久しぶりに会っても、押し寄せる感動とはなかったですね。

僕も母親も、ごく自然に、まるで昨日も会っていたかのように過ごしました」

そうして20年近く傭兵として活動してきた高部さんだが、43歳を機に引退することに決めた。

「やはり体力的に衰えたのが理由ですね。カレン軍の人たちはかなり歩くのが早いのですが、それまでは普通についていけてました。ただ40歳を超えてから、彼らが心なしか僕に遠慮してちょっと速度をゆるめてくれたり、気遣ってくれてるのがわかるようになりました」

また若い頃は2〜3時間眠れば体力が70〜80%は回復していたのが、50%くらいしか回復できなくなったと感じた。

「傭兵は通用しなくなるまでやっちゃダメ」

「傭兵はスポーツと違って、通用しなくなるまでやっちゃダメなんですね。仲間の命を危険にさらしますから。まだ余力があるうちにやめないといけない。だから、キッパリと引退しました」

やめた後は、

「新兵の訓練教官にならないか?」

と誘われたが、訓練だけして自分は戦場には行かず、リスクを負わないのは性に合わないから断った。

「傭兵をやめたときに、

『この人生における、僕の仕事は終わった』

と思いました。

『この命でやるべきことは終わった』

と言ったほうがいいかな?

そして残りの人生は流れるままに生きよう、と思いました」

とりあえず日本に帰国することにしたが、とくに帰国後の不安はなかった。


オシャレなカフェに行くこともあった傭兵時代

「そりゃミャンマーの基地にいたほうが不安ですよ(笑)。日本で生活してても銃弾は飛んでこないし、まあなんとかなるだろう……と思いました」

日本に帰ってくると、古くからの知り合いに、

「お前、必死になって傭兵やってきたかもしれないけど、何も残ってないじゃん? お金も家族もないだろ?(笑)」

と馬鹿にされた。

「でも僕にとっては“何も残してないこと”をむしろ誇りに思ってるんです。自分がこうと決めた道を100%、余力を残さずに生きてきました」

高部さんは「流されるまま生きよう」と考えたが、それは別に捨て鉢になったわけでもないし、ダラダラ生きようと思ったわけでもない。来る仕事は受けたし、真摯に応えるつもりだった。

現に傭兵として20年近く活動したという実績は、非常に希少で価値があるため、たくさんの仕事が来た。

まずは、軍事アナリスト、軍事ジャーナリストとしての仕事がある。

「仕事をいただけるのはありがたいのですが、ただちょっとズレているなと思うこともありました。日本での軍事アナリストの仕事って、“カタログデータ”を出して検討することなんですね。例えば、この銃は(資料によると)何メートル弾が飛びますよ、とか。ただ現場で働いていると、データと実際には大きな隔たりがあるって現実がわかる。でも僕は彼らのように上手く解析、解説はできない。

大学教授と、叩き上げで現場で働く職人の違いのようなものを感じました。

ただ、マスコミで必要とされているのは、大学教授の意見なんですよね。だから名刺の肩書には、軍事アナリスト、軍事ジャーナリストとは書いていません」

ただ実際に戦場に行っていなければわからないことはたくさんある。日本の自衛隊は、戦後実戦経験がまったくない。高部さんは自衛隊に呼ばれて講話を頼まれることもあった。


「僕の経験が少しでも役に立ってくれれば、と思います」(筆者撮影)

「僕も元自衛官ですから、彼らが持っていない経験を教える、共有できるというのはうれしいですね。僕の経験が少しでも役に立ってくれれば、と思います」

日本は現在平和であり、ほとんど街中で戦闘が行われることはない。ただフィクションの中では、たびたび戦闘が繰り広げられる。

高部さんは、ドラマや映画での戦闘シーンの監修を頼まれる。映画『寄生獣』、ドラマ『S -最後の警官-』など、人気作品に多く携わってきた。

「例えば『ここの道路を封鎖するにはどうしたらいいか?』などシナリオ上の具体的な相談を受けて、『こういう場合は、このビルを爆破して道を防ぎましょう』という感じで答えています」

傭兵時代のエピソードを漫画に

傭兵時代のエピソードをつづった本も『傭兵の誇り』(小学館)、『戦友 [名もなき勇者たち]』(並木書房)などたくさん出版してきた。

「どうしても“傭兵”って、アウトロー、戦争の犬、みたいなシビアなイメージを求められるんです。皆の傭兵に対するイメージって『ゴルゴ13』(小学館)のような冷徹なかっこよさなんですよね。もちろん、頼まれれば書くのですが、どうにも恥ずかしいんですよね(笑)」

そんな折に依頼が来たのが、竹書房での

『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』(竹書房)の連載だった。

「かっこつけた漫画になったら嫌だなと思ったんですが、漫画家のにしかわたくさんの絵を見て、この絵なら大丈夫だなと思いました。単行本の表紙は、青ざめながら走っている僕なんですが、まさにこんな感じの場面が何度もありました(笑)」

漫画内では高部さんが戦場で経験したさまざまなエピソードが描かれている。

もちろん戦場が現場だから、凄惨なシーンもあるのだけど、仲間同士ではしゃいだり、友人の恋を応援したり、あまりに不味い飯に辟易したり、と楽しげな青春譚もたくさん描かれている。

「実際、戦場では笑いあり、涙あり、ケンカもして、馬鹿もする。そんな雰囲気でした。傭兵たちの意外だけど当たり前な一面を知ってもらえたら、うれしいですね」

と高部さんは語った。

高部さんは、筆者がインタビューした数多くの人の中でも、とくに親切で優しい雰囲気の方だった。

話を聞きながら、その優しさの源泉は、苦しい状況を自力で乗り越えてきたという自信にあるのではないか? と思った。