by Joe Haupt

1998年に発売されたセガ最後の家庭用ゲームハードがドリームキャストです。ドリームキャストの名作タイトルに携わった8人のクリエイターに「ドリームキャスト向けのゲームソフト制作」の裏側を尋ねたドキュメンタリームービーを、日本のクリエイターを取材するYouTubeチャンネル「Archipel」が公開しています。

ムービーは前後編の2部構成で、ドリームキャスト発売からゲーム制作に至るまでを8人のクリエイターが語る「A Dream Cast - Part 1」が以下からチェックできます。

A Dream Cast - Part 1 - YouTube

「シーマン」を世に送り出した斎藤由多加氏は、ある日「Dの食卓」「エネミー・ゼロ」で知られる故・飯野賢治氏に誘われたとのこと。当時セガの副社長を務めていた入交昭一郎氏を交えて3人で会食していた時にドリームキャストが開発されていることを明かされたそうです。



シーマンは、水槽の中で人の言葉を話す生き物を飼育するというゲームで、ドリームキャストで発売されたソフトの中でも約40万本とトップクラスの売上を誇っています。



シーマンの大きな特徴は、コントローラーのメモリスロットに挿せるマイクを使うことで音声認識が可能になるということ。まだ音声認識の技術がそれほど進歩していない時代でしたが、直前にNINTENDO64向けに発売された「ピカチュウげんきでチュウ」と共に先進的な作品だと話題になりました。



シーマンの制作資料は多くがPDF化されているものの、一部はまだ手元に残っているとのこと。ムービー中では斎藤氏が資料集を見返すシーンが映りますが、その中身はすべて手書きによるものでした。



シーマンはもともとドリームキャスト以前から斎藤氏が温めていた企画だったものの、当時の技術では難しいと判断されお蔵入りしていたそうです。しかし、ドリームキャストの性能ならば可能かもしれないということで、斎藤氏はこのシーマンをドリームキャスト用のタイトルとして制作したそうです。



斎藤氏によるシーマンのスケッチ。ゲーム内容は「電子ペット育成」のようなものであり、仏頂面でシニカルな物言いをするシーマンは普段ゲームをしない人からも人気を得ました。しかし、シーマンをプレイしたいがためにドリームキャストを購入した人はほとんどが非ゲーマー層だったため、シーマン以外のソフトの購入につながらなかったと斎藤氏は述懐しています。



「忍者プリンセス」「アレックスキッドのミラクルワールド」など数多くの名作ゲームのデザインやプロデュースを手がけた小玉理恵子氏。



特に「ファンタシースター」は、今でも「ファンタシースターオンライン2」として提供されているなど、セガを代表する人気シリーズの1つとなっています。



そんな小玉氏が制作した「エターナル アルカディア」は、2000年にドリームキャスト向けのタイトルとして発売されたロールプレイングゲーム(RPG)です。まだドリームキャストの開発が全く機密だった時に存在を明かされ、開発を始めたそうです。



エターナルアルカディアは通常版のほかに、安価で購入可能で途中まで遊べ、もっと先に進めたかったらインターネット経由でダウンロード購入するという「@barai版」も販売されました。2019年では珍しくないビジネスモデルですが、2000年当時は画期的なアイデアとして話題になりました。



「クレイジータクシー」のプロデューサーを務めた菅野顕二氏は、当初ゲームセンター向けのアーケード機器を作る仕事に携わっていたそうです。



以下は、90年代後半に菅野氏が初めてプロデュースした「トップスケーター」の画面。



2000年前後に「クレイジータクシー」をアーケード向けに発表したタイミングで、ドリームキャストが発表されたとのこと。



ドリームキャストは業務用基板であるNAOMIと互換性があるため、アーケード向けのゲームも移植しやすいというメリットがありました。



クレイジータクシーはセガの第3AM研究開発部(通称・AM3研)で初めてNAOMI基板を採用したアーケードゲームでした。2000年1月にドリームキャスト版が発売され、2001年5月には続編となる「クレイジータクシー2」もドリームキャストでリリースされました。



「龍が如く」1作目でプロデュースを務めた菊池正義氏



1995年にセガに入社後、セガサターン向けのシューティングゲーム「パンツァードラグーンツヴァイ」の制作に参加しました。



菊池氏が手がけ、2000年に発売された「ジェットセットラジオ」は、街中をスケートシューズで爆走しながらトリックを決めたり壁にグラフィティを書いたりするアクションゲーム。その強烈なデザインとアクションで、さまざまな賞に輝いた名作タイトルの1つです。菊池氏によると、「これまでのゲーム市場になかったようなモチーフを実現させよう、若者にかっこいいといってもらえるようなものを作ろう」という思いで、ストリートカルチャーをゲームに取り込むことを思いついたとのこと。



「ゾルゲ市蔵」名義で漫画家としても活躍する岡野哲氏は、1992年にセガへ入社。「SGGG(セガガガ)」の原案やプロデュースを担当しました。



2001年のドリームキャスト生産中止発表以降に発売されたセガガガは「セガを引っ張ってゲーム業界制圧を目指す」というRPG。「実在の部署や出来事がゲームイベントのモデルになっている」「過去にセガが発売したゲームが登場する」「RPGというワードが出る度に『R.P.G.は(株)バンダイの登録商標です。』というメッセージが出る」など、セガガガはメタフィクションと自虐と悪乗りが詰め込まれた一本です。



岡野氏は「どうせならもう今後メタフィクショナルなゲームが出てくれないぐらい徹底的にやろう」と思って作ったとのこと。当初は通信販売専売のソフトでしたが、後に一部データを修正した一般販売版もリリースされました。



そんなセガガガは広告予算はわずか3万円。企画書がムービーに映りますが、開発期間は「とにかく短期間、かつ低コスト」を掲げて6カ月。



自他ともに認めるゲームハードファンである岡野氏はセガハードの色に言及しながら「ドリームキャストセガは正気に返ってしまった」と表現。これについては菊池氏も「セガはそれまでコアなゲームファンに支えられていたのだが、ドリームキャストセガはオシャレになろうとしていた」と述べていて、セガがコアなゲーマーだけではない一般層にも目を向けた展開を図ろうとしていたことがわかります。



1990年にセガに入社した水口哲也氏。



水口氏がプロデュースした作品で特に知名度が高いのが、リズムゲームの「スペースチャンネル5」と……



音楽と光と振動を融合させた新感覚シューティングゲームの「Rez」です。水口氏によると、音楽の明るい側面を追求したのがスペースチャンネル5であり、音楽のより深く没入する側面を追求したのがRezだとのこと。



水口氏のオフィスの隅には、「Rez」シリーズ最新作である「Rez Infinite」でより没入感を高めるために開発されたシナスタジア・スーツが飾られていました。



水口氏は飯野氏や斎藤氏、菊池氏など多くのクリエイターと食事をしながらコミュニケーションを取り、話し合ってアドバイスをしたり相談したりすることをよくやっていたと証言していました。



1989年にコナミに入社し、1992年にトレジャーを設立した井内ひろし氏。



トレジャーはセガのゲームハード向けにソフトを多く発売していました。



その代表ともいえるのが、メガドライブ向けに発売されたトレジャー初のソフト「ガンスターヒーローズ」です。



そんなトレジャーはアーケード向けにもゲームをリリースしていました。例えば以下のゲームは1998年にアーケード向けゲームとしてリリースされ、セガサターンにも移植されたシューティングゲーム「レイディアント・シルバーガン」です。



そして、トレジャーが2001年にアーケード向けにリリースしたのが「斑鳩」。白と黒の2色を切り替えながら進めていくというパズルのような要素を含んだ縦スクロールシューティングゲームで、井内さんによると「レイディアント・シルバーガンの反省を生かしつつ、要素をどんどん引いていって残ったものを抽出して作るという引き算の考え方で開発した」とのこと。アーケードの段階では「ちょっと遊ぶには複雑に見えた部分もあって、あまりプレイしてもらえなかったかも」と井内さんは思ったものの、「ドリームキャストで出してほしい」という周りの声に支えられ、2002年に完全版をドリームキャストで発売したとのこと。



1993年にナムコに入社した世取山宏秋氏は入社直後に「マッハブレイカーズ」のディレクターとなり、ナムコの3D格闘ゲーム「鉄拳」にも関わります。世取山氏は家庭用3Dゲーム黎明期だった当時に「モーションデザイン」という概念を強くゲーム業界に浸透させた立役者といわれています。



そんな世取山氏は、3D格闘ゲームの設計とディレクションを担当することになりました。当時鉄拳シリーズがPlayStationで展開されていましたが……



世取山氏はアーケードの「ソウルキャリバー」をセガのハードであるドリームキャストで展開しようと考えたとのこと。「業務用以上のものを出す」という意気込みで徹底的に調整した結果、ドリームキャスト版のソウルキャリバーは瞬く間に世界中から称賛を浴び、20年経っても新作がリリースされるなど人気シリーズとなっています。



ドリームキャストはゲームデータを保存するメモリをコントローラーに装着するシステムになっていましたが、このメモリに液晶画面とボタンがついた「ビジュアルメモリ」も存在しました。世取山氏はソウルキャリバーをドリームキャストに移植する上で、このビジュアルメモリもフルに活用したいと考え、対応させたとのこと。



なお、ビジュアルメモリにうつる画面のドット絵は、世取山氏も描いたそうです。



また、世取山氏は、釣り体感ゲームを遊ぶために使うドリームキャスト専用の「つりコントローラー」を使ってもフル操作が可能になるようになっている、と身振り手振りを交えて語っていました。



Part 2では、PlayStation 2の登場によって市場での敗色が濃厚となっていったドリームキャストの末期の様子が、各クリエイターによって語られています。

A Dream Cast - Part 2 - YouTube

「インターネット接続用のモデムを搭載」「業務用基板の移植がしやすいGD-ROMを採用」「坂本龍一作曲の起動音」など、魅力的要素を多く持っていたドリームキャスト。宣伝プロデューサーは秋元康氏で、「セガは倒れたままなのか?」という新聞コピーや、セガの専務取締役・コンシューマ事業統括本部副統括本部長を務めた湯川英一氏をCMに起用した「湯川専務シリーズ」などの広告戦略を展開して話題になりました。



しかし、本体1台あたりのコストは非常に高く、もともとソフト開発に強いセガはソフトウェアを中心にしたビジネス戦略を考えていたとのこと。ドリームキャストの2万9800円という発売当時の定価は売れても利益はほとんどなかったにも関わらず、発売から1年でコストダウンを行わないまま1万9900円に値下げしたため、1台売るごとにおよそ1万円の赤字が出ることになってしまいました。



また、湯川専務シリーズのCMでは「セガなんてだっせえよな!」「帰ってプレステやろうぜ!」という自虐的な内容が話題になりましたが、くしくも2000年に発売されたPlayStation 2は、1.4GFLOPSのドリームキャストより圧倒的に上の6.2GFLOPSという演算処理性能を見せ、DVD-VIDEOの再生にも対応していて、ドリームキャストはかなりの苦戦を強いられることになりました。斎藤氏が「PlayStation 2は非常にスマートで、密度の高いゲームハードだった」と語る通り、当時のクリエイターの目にもやはりドリームキャストの不利は明らかだった様子。



また、PlayStation 2は前モデルのPlayStationのソフトが遊べる下位互換性を持っていたのに対し、ドリームキャストセガサターンのソフトを遊ぶことができなかったのも大きな敗因のひとつ。これはハードウェア設計の仕様上仕方がないものがあり、互換性よりもコストを選択した結果でした。他にも本体の生産トラブルやキラータイトル不足などがあり、PlayStation 2から市場シェアを取り戻すこともできず、2001年1月にドリームキャストの生産中止が発表されました。ドリームキャストの開発プロジェクトを全力で支えてきたセガの大川功会長がこの世を去ったのは、その2カ月後のことでした。



他にも貴重な証言がさまざま収録されているので、気になる人はぜひ本編を見てみてください。Part 1とPart 2で合計1時間30分とかなりの長さがありますが、かつてドリームキャストのコントローラーを握った人であれば最初から最後まで見る価値はあります。