戦後、日本の空が最も緊張に満ちた日のひとつが、1987年12月9日の「対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件」でしょう。米ソがINF(中距離核戦力)で歩み寄った翌日の、冷や水を浴びせるようなできごとでした。

東西冷戦の最前線だった日本

 航空自衛隊の主力戦闘機が、旧ソ連の爆撃機に対して実弾を発射する、という衝撃的な事件が起こったのは、いまから30年ほど前、1987(昭和62)年12月9日のことでした(以下、国名や部隊名、部隊の所属基地、所属機体などは、説明のない限りすべて当時のもの)。


那覇基地に配備されていたころの、第302飛行隊のF-4EJ(画像:航空自衛隊)。

 当時は東西冷戦の真っただなかで、アメリカを中心とする西側自由主義諸国と、ソ連を中心とする東側社会主義諸国による対立が静かに激化していたころです。その4年前の1983(昭和58)年には、ソ連の領空を侵犯した韓国の民間旅客機が、ソ連軍戦闘機により撃墜され、乗員乗客合わせて269名が死亡するという「大韓航空機撃墜事件」が、そして直近の1987(昭和62)年11月には、同じく韓国の旅客機が北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されるという、「大韓航空機爆破事件」も起こっており、極東の空は非常にピリピリとした緊張感に包まれていました。

 航空自衛隊のスクランブル発進も、1984(昭和59)年度には年間約944回を数えるまでになっており、そんな緊張感高まる日本の上空で、その事件は起こったのです。


那覇空港に隣接して配置されている那覇基地の正門(月刊PANZER編集部撮影)。

那覇基地(那覇空港)の滑走路を2機編隊で離陸する第302飛行隊の「ファントムII」(画像:航空自衛隊)。

1978年11月、三沢基地で訓練する第302飛行隊の「ファントムII」(画像:アメリカ空軍)。

 事件の始まりは、1987年12月9日午前10時30分ごろ、沖縄県宮古島にあった航空自衛隊のレーダーサイトが、4機の国籍不明機をとらえたことでした。すぐさま解析により4機はソ連軍機と判明、そのまま日本の防空識別圏を越えて沖縄に接近してきたため、午前10時45分ごろ、航空自衛隊那覇基地 第302飛行隊所属のF-4EJ戦闘機2機がスクランブル発進しました。また直後には、増援として4機のF-4EJも発進し、計6機の自衛隊機が対処にあたることになったのです。

 上空でソ連機に接近したF-4EJは、各地のレーダーサイトと連携をとりながら無線を使い、英語とロシア語で警告を発します。また同時に、F-4EJは主翼を大きく振りながらソ連機の周囲を飛び、ソ連機に「退去」を意味する視覚信号を送り続けました。

ソ連機の沖縄縦断、そして実弾発射

 空自機の行動が通じたのか、4機のうち3機は宮古島南方を飛行後、去っていきました。しかし1機は警告を無視して、そのまま沖縄本島へ向けて飛び続けます。その1機は、ソ連の主力戦略爆撃機Tu-16、NATOネームは「バジャー」。多数の爆弾や対艦ミサイル、場合によっては核兵器をも運用できる爆撃機です。


1975年、ソ連のTu-16に近付いて飛ぶアメリカ海軍のF-4J(画像:アメリカ海軍)。

 そんな恐ろしい機体が、沖縄本島の上空を飛行しようとしています。どのような武器を積んでいるのかはわかりませんが、何かあってからでは遅いのです。空自F-4EJの編隊長は決断し、南西航空混成団(現在の南西航空方面隊)司令に警告射撃の許可を求め、そして警告射撃命令が下されました。

 午前11時24分、ソ連軍機Tu-16は沖縄本島上空へと到達、航空自衛隊の那覇基地やアメリカ軍基地の上空を通過していきます。そこで航空自衛隊のF-4EJは、最初の実弾射撃を行いました。これは搭載されている20mmバルカン砲を目標機の前方に向けて射撃し、曳光弾の軌跡を見せ付けることで警告するというものです。同時に視覚信号で「着陸」を指示します。これらの行動が功を奏したのか、ソ連軍機Tu-16は、日本の領空から外へと抜けました。こうして、航空自衛隊初の実弾射撃事件は、幕を下ろしたかに思われました。

 しかし、Tu-16は午前11時41分に再度日本の領空内へ侵入、さらに北上し鹿児島県の沖永良部島や徳之島上空へと迫ります。追跡を続けていたF-4EJは、やむなく2回目の警告射撃を行いました。この2回の警告射撃により、航空自衛隊では計数百発の実弾を発射したといわれています。

 ソ連軍のTu-16は、それ以上の北上をやめ、領空外へと逃れ、その後、北朝鮮の平壌へ着陸しました。

 同日夕方、外務省はソ連に対して抗議を表明しました。前日にアメリカとソ連の間で「中距離核戦力全廃条約」が締結されたこともあり、竹下 登首相が遺憾の意を表すという事態となりました。

現在も続く極東の緊張

 日本側からの抗議に対しソ連側は、「領空侵犯は悪天候と計器故障による事故であった」「航空自衛隊機を目視したが旋回方向を誤った」などと説明しています。

 しかし、当日の天候は晴れ、視界は十分で、複数の島も見渡せるほどの天候であったことから、防衛庁(現在の防衛省)防衛局長は「かなり悪質であると考えている」と強い口調で発言しました。またスクランブルの任務にあたった自衛隊員からも、「ソ連機の搭乗員からは、操縦ミスなどの焦りは感じられなかった」という証言もありました。

 こうした日本の抗議を受けソ連は翌1988(昭和63)年2月、当該機(Tu-16)の機長を1階級降格させ、さらに搭乗員2名に対して搭乗停止処分を下したことが、ソ連大使館を通じて発表されました。

 ちなみにアメリカ軍は、12月9日に起こった事態をすべて把握していました。ソ連軍機の沖縄接近にともない、米空軍のF-15戦闘機もほぼ同時に嘉手納基地からスクランブル発進を行い、非常事態に備えて上空待機していたのです。そのうえで、上級司令部である横田基地の在日米軍司令官(兼第五空軍司令官)は、「あの事態において、航空自衛隊のF-4EJがソ連爆撃機を撃墜しなかったことを高く評価する。彼らは、非常に冷静に対応した」という高い評価を下しています。

 このとき、航空自衛隊がTu-16を撃墜していたらどうなっていたでしょう。考えすぎかもしれませんが、第三次世界大戦が勃発していたとしてもおかしくはありません。


第302飛行隊のオジロワシのマークは大きく派手なことで有名。F-35Aでは「雷神」を用いた違うマークになる予定(月刊PANZER編集部撮影)。

南西諸島の島の上を飛ぶ「ファントムII」戦闘機(画像:航空自衛隊)。

百里基地のエプロンに並んだ第302飛行隊の「ファントムII」。現在は改良型のF-4EJ改を運用している(画像:航空自衛隊)。

 時は経ち2018年現在。ソ連は崩壊し冷戦は終結しましたが、極東上空の緊張感は、まだまだ続いています。それどころか、国籍不明機の出没回数は、冷戦時代をも上回っており、2016(平成28)年度におけるスクランブル発進の回数は初めて1000回を上回ったそうです。

 なお、この事件の主役である第302飛行隊は、1976(昭和51)年9月6日に起きたMiG25亡命事件の際にも、千歳基地(北海道)からスクランブル発進しています。そして2018年12月現在は、改良型のF-4EJ改を装備し、百里基地(茨城県)にて首都圏防空の任に当たっていますが、2018年度末(2019年3月)には三沢基地(青森県)へ移駐し、最新鋭のF-35Aに機種更新して、航空自衛隊初のステルス戦闘機部隊になる予定です。

 第302飛行隊の領空防衛任務は、新型機に更新されても連綿と続けられるのでしょう。

【写真】冷戦末期、米空母とソ連爆撃機のツーショット


冷戦末期の1989年、アメリカ海軍の空母「レンジャー」に近付くソ連空軍のTu-16(画像:アメリカ海軍)。