本記事は、電通総研 カウンセル兼フェロー/電通デジタル 客員エグゼクティブコンサルタント/アタラ合同会社 フェロー/zonari合同会社 代表執行役社長、有園雄一氏による寄稿コラムとなります。

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私の20代は、アルコール依存症だった。そんな私にとって、メディアとは、「光」だった。メディアがなければ、私はおそらく、暗闇から抜け出すことができなかった。そして、その経験を通じて、メディアとは身体の「拡張」であるという、メディア論で有名なマーシャル・マクルーハンの言葉の意味を、私なりに理解した。

19歳の夏、私は交通事故に遭った。2カ月ほど入院し、無事に退院した。そこまでは良かったのだが、その後、しばらくして、私は、フラッシュバックに苦しめられた。繰り返し襲ってくる交通事故の映像。頭の中で、その映像が繰り返す。

このフラッシュバックによって、私の精神は蝕まれ、人として、壊れていった。ときに、手足がガタガタと震え、滝のような汗でシャツを着替える。止まらない動悸。息をすることさえ苦しく、自分の生きる意味が分からなくなった。

テレビは「光」だった



私は、アルコールに逃避していった。もっとも悪化した時期は、10日ほど一歩も外出せず、自宅で浴びるようにウイスキーを飲んでいた。飲み過ぎて嘔吐する。その嘔吐物は、気づけば、血液が混じっていた。それでも、飲み続け、そして、血液混じりの液体が床に散乱する。その濁った体液にまみれ、気を失う。無意識の闇の深淵で、唇を蝿が歩く感触、その蝿の羽音で目が覚める。そんな生活で、大学1年の修得単位数はゼロだった。

闇の中で、気を失い、何時間経過したのか。自分が生きているのか、死んでいるのか、判然としない。意識とも無意識ともわからぬ朦朧と恍惚のなかで、真っ暗な部屋の一隅から、点滅する物体があった。テレビだった。

気がつくと、ただ、ぼーっとテレビを見続けていた。テレビだけが唯一、外界と私をつなぐ生命線だった。テレビに映るさまざまな映像、ニュースやドラマ、バラエティ。外の世界に接し、自分の惨憺たる現実を恨んだ。

なんどか自殺を試みた。私は無色透明になりたかった。だが、なぜか、死ねなかった。そして、目の前に、ただ点滅するテレビがあった。それは、「光」だった。

『資本論』を読んで泣いた



マルクスは『資本論』(大月書店 1972)で、次のように書いている。私は、この文章に救われた。

「人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種族の現象形態として認められるのである」(p102)

私は、『資本論』をはじめて読んだとき、泣いた。マルクスの明視力に圧倒された。そして、意味や存在意義は、人間であれ商品であれ、相対的なものであり、「他者」との関係性の中でしか見出せないものだ、と知った。

あの暗闇の中で点滅したテレビは、私にとって、「他者」であり「光」だったのだ。マルクスのいうところの、人間ペテロでありパウロだった。「人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみる」。そして、その「他者」との関係によって、「はじめて人間としての自分自身に関係する」。

「光」とは「他者」である



マルクスは、『資本論』の第1巻で、有名な「価値形態論」を展開する。その要点のひとつは、商品世界では、商品は他の商品との相対的な関係の中でしか価値を表現できないということだ。言い換えれば、「ベンツ1台は平均点な日本車3台分に相当する」という感じで、ベンツと日本車の相対的関係で価値を表現するしかない。それは、あくまでも、商品世界がメインなのだが、少しだけ脱線して、マルクスは、人間世界についても言及したのだ。

私なりに分かりやすくいえば、人間は外界の誰とも関係せずに、ひとり孤島に暮らしていても、価値を持ち得ない。そこにその人が生きていることが分からない。生きていることが誰にも分からなければ、なんの意味も持ち得ない。「他者」と関係してはじめて、なんらかの意味を持ち、存在意義も生まれ、アイデンティティが形成される。そう、勝手に解釈した。

私が関わる電通総研では「よい社会におけるメディアの信頼性と社会的役割」(リリース)をテーマのひとつに掲げている。メディアの社会的役割とは、権力の監視や表現の自由の確立、知る権利の担保、コミュニティの形成など、さまざまな役割があるとされる。だが、私は、もっとも重要なメディアの役割は、社会的な「光」になることだと思っている。「光」とは「他者」である。「他者」とは関係性の中で、意味と価値の源泉になる。

安藤忠雄氏と小松美羽氏



建築家の安藤忠雄氏はいう。「人生に”光”を求めるのなら、まず目の前の苦しい現実という”影”をしっかり見据え、それを乗り越えるべく、勇気を持って進んでいくことだ。<中略> 何を人生の幸福と考えるか、考えは人それぞれでいいだろう。私は、人間にとっての本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えて、それに向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実があると思う」(『建築家 安藤忠雄』p382 新潮社 2008)

「光」とは、安藤忠雄氏にとって、「遠く見据え」るもので、外界の「他者」なのだ。その「他者」と無我夢中に戦う、その関係性の中に、意味が生まれ、「人生の充実がある」ということではないか。

あるいは、いま世界的に注目を集める現代アーティスト、小松美羽氏も、光と闇に言及する。

「まぶしく明るい日差しの中で蝋燭に火を灯しても、光は見えない。しかし、真っ暗な闇の中で蝋燭に火を灯せば、光が見える。それと同じで、闇の中で自分の魂の光を動かすと、自分の存在がわかる。闇があるから、私は私だと、自分という存在が認識できる。<中略> もっと闇を照らす光を描こう」(『世界のなかで自分の役割を見つけること』p202-204 ダイヤモンド社 2018)

マクルーハンのメディア論



「他者」という「光」が自分の魂を照らす「光」になる。彼女が「もっと闇を照らす光を描こう」というとき、その作品が社会的に存在意義を持つとすれば、それは社会的な「光」になり、「他者」の魂の闇を照らす。作品を鑑賞する人が、その作品と関係することによって、そこに意味を見出し、自分の魂の「光」とする。人間ペテロが人間パウロに関係し、「はじめて人間としての自分自身に関係する」のと同じだ。これは、芸術作品だけではない。メディア関係者にとっての作品は、日々の記事やニュース、ドラマ、バラエティなどだろう。それは、「他者」との関係性で意味をもち「光」になり得る。

『メディア論 ― 人間の拡張の諸相』(みすず書房 1987)で、マーシャル・マクルーハンが、テクノロジーやメディアは人間の身体の「拡張(延長)」であると主張するとき、彼が言っているのは、それが「他者」となり、人間に対峙するということだ。メディアとは、単なる媒体ではない。人間と人間の中間で、情報を右から左に単に橋渡す媒介物ではない。マクルーハンが言いたいのはそういうことだ。マルクス的にいえば、人間ペテロの身体の「拡張(延長)」としてメディアが存在し、人間パウロに「他者」として対峙して、意味や価値の源泉になるのだ。

マクルーハンの時代、代表的なメディアはテレビだったが、その本質はネット時代になっても変わらない。「インターネット上のコンテンツは、結局はメディアによって拡張された人間の感覚で、それを可能にしているのは個人の存在だ。人間の脳を外在化したコンピューターと、神経を拡張したネットワークを結び付けたインターネットは、こうした個人の存在を直接的に表現するメディアにもなっている」(『マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』イースト・プレス 2018)

メディアは人を幸せにする



結局、個人の存在が拡張され、メディアという表現型になる。身体が延長しメディアに変容する、それは、メディア=人間のように機能する。

「英国史上最も影響力のある科学書」 第1位に選ばれた『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店 2018)で、著者のリチャード・ドーキンスが「延長された表現型」を遺伝子の特徴のひとつとして指摘している。

「肝に銘じる一つの方法は、今日においてさえ、一つの遺伝子の表現型効果が必ずしもすべて、それが位置する個体の体の内部に限定されていないことを思い起こせばいい。原理的に言って確実に、そして事実においてもまた、遺伝子は個体の体壁を通り抜けて、外界の世界にある対象を操作する。<中略> 遺伝子の長い腕(リーチ)に、はっきりした境界はない。あらゆる世界には、遠くあるいは近く、遺伝子と表現型効果をつなぐ因果の矢が縦横に入り乱れている」(p447-448)

ドーキンスの論に従えば、メディアとは人間の遺伝子の「延長された表現型」のひとつだ。メディアは人間の身体の「拡張(延長)」であるとするマクルーハンの論に、ドーキンスが科学的な裏付けを与えているようにみえる。

身体が延長し、メディア=表現型になる。それは人間のように機能し、「他者」として対峙する。換言すれば、人間に意味と存在意義を与えはじめるのだ。

私は、もっとも重要なメディアの役割は、「他者」になり、「光」になることだと思う。そして、意味や価値の創造によって、メディアは人を幸せにする。私は、そう信じている。(もしよかったら、「広告やメディアは、ヒトを幸せにする」もお読みいただけると嬉しいです)

Written by 有園雄一
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