時にひとつのポイント、あるいは1本のショットが、勝敗の行方を大きく左右することがある。

 大坂なおみにとっては、WTAファイナルズ2戦目のアンジェリック・ケルバー(ドイツ)戦が、その類(たぐい)の試合であった。


ポイントを奪えずコートでがっくりとうな垂れる大坂なおみ

「スウィングボレーを打ったら、相手が打ち返して……あれは間違いなく、大きなチャンスだった」

 試合から約1時間後に、大坂は悄然(しょうぜん)として振り返る。

「今もまだ、あの1本のことが心に引っかかっている」

 そう深く悔いる件(くだん)のショットは、ファイナルセットの中盤で飛び出した。

 第3セットのこのときまで、試合の流れと両選手の心理状態が生み出す優勢は、間違いなく大坂の側にあった。

 第1セットを落として迎えた、第2セット終盤――。相手がサービスゲームをキープすれば試合が終わる剣ヶ峰から、大坂は3ゲーム連取し、逆転で第2セットを奪い返す。

 第3セットも互いにゲームをキープしながらも、チャンスの数では大坂が上回った。

 とくに、大坂の攻撃的なリターンの前にケルバーが感じた恐怖と重圧は、第3セットで3度冒したダブルフォルトに投射される。ゲームカウント3-3で迎えた第7ゲームでも、大坂が40-15とリード。そしてここでも大坂は、フラフラと上がったチャンスボールを相手コートへと叩きつければ、それでよかった。

 だが、大坂が放った一撃は、オープンコートをカバーすることもあきらめ、その場に立ち尽くしていたケルバーの正面へと飛んでいく。

 もっとも、それでも並の選手なら球威に押され、まともに打ち返すことなどできなかっただろう。だが、ネットの向こうに立っているのは、手首の強靭さと返球能力にかけてはツアー随一と謳われる、3度のグランドスラム優勝者だ。

 ケルバーが打ち返したボールは緩やかな放物線を描き、大坂の頭上を越えてベースラインの内側に落ちる。大坂も必死に背走するが、相手コートに返すことはできなかった。

 苦笑いを浮かべた大坂は続くサーブで、この試合2本目のダブルフォルトをおかす。件のショットを機に4連続失点した大坂は、このゲームを落とし、そして最終セットを……つまりは、試合そのものを失った。

 最終スコアは4-6、7-5、4-6。試合時間は2時間30分。第3セットでは両者合わせて73ポイントを奪い合い、勝者と敗者を隔てた差は、わずかに3本だった。

 大坂本人が認めるように、決めるべきあの1本が流れを変え、終焉に向けて加速したのは間違いない。

 だが、全体を俯瞰すれば、試合の大勢を敗戦に向けて形成する、いくつかの構成要素か見受けられるのも、また事実だ。

 たとえばこの試合での大坂は、ネットに出ていく場面が目立った。それは時に成功したが、ケルバーのパッシングショットの餌食になることも少なくない。大坂はそのような戦術を、戦前からの策ではなく、試合のなかで自発的に行なったことだと説明した。

「今日のように、走力に長けた選手と戦うときには、ベースラインに居続けるわけにはいかないし……」と。

 この大坂の言葉は、示唆に富む。

 先の全米オープンで大坂を頂点に押し上げた要因は、長いラリーにも焦れることなく打ち合い、ジリジリと相手を土俵際まで押し込むような走力とスタミナ、そしてフィジカルの強さに下支えされた精神面の安定にあった。だが、ケルバーと相対した大坂は、相手の走力を恐れたという。

 その理由を雑駁(ざっぱく)に述べるならば、やはり「疲れ」ということになるのだろう。

「今季はすべてが、私にとって初めての経験ばかり……」

 そう認めた大坂は、「『なんであなたは、まだプレーしているの?』という身体の声が聞こえてくるみたい」と言って、小さな苦笑いを浮かべた。

 それでもシーズン最終戦を戦う大坂は、体力の最後の一滴まで振り絞ることを胸に期す。

 幸い2連敗の大坂にも、まだグループ戦を勝ち上がる可能性が残されている。もちろん次の試合で、大坂がキキ・ベルテンス(オランダ)に勝つことは必須条件。そのうえでスローン・スティーブンス(アメリカ)がケルバーに勝てば、セット率やゲーム率との兼ね合いだが、かなりの高確率で大坂の準決勝進出となる運びだ。

 大坂のフィジカルコーチのアブドゥル・シラーは、「疲れはあるが、彼女の身体は大丈夫。まだ3試合戦える」と、決勝までの戦いを視野に入れる。

「この大会に出られることは栄誉」だと言う大坂は、「何があろうと、最後まで戦い抜く」と顔を上げた。

 準決勝進出の可否をめぐる命運は、すでに大坂の手を離れている。

 今の彼女が専意すべきは、躍進のシーズンを笑顔で終えるためにも、迫り来る試合で持てる力を出し切ることのみだ。