文芸誌「MONKEY」。国内外の小説、エッセイ、対談などが充実

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 翻訳家でアメリカ文学者の柴田元幸さんに、言葉を取り巻く今の社会に対する鋭利な意見や、責任編集を務める文芸誌「MONKEY」に込める思いを聞いた。出版不況と言われて久しく有名な雑誌の休刊が相次ぐ中、「MONKEY」は「15号まで”広告なし”で赤字も出さずやってこられた」という。2013年創刊の季刊の文芸誌である。出版不況の中で「上手くいく処方箋はない」と言うものの、お話には色々な媒体が上手くやっていくためのヒントが散りばめられているように思う。

 -ネットやデジタルツールが普及した現代の言葉に関する問題意識を教えてください。

 「言葉は真実を伝えるためのものだという前提が今まではあったが、その前提がなくなってきている。以前は「噓をつけば世の中機能しない」という考えのもとに何らかの歯止めがあった。言葉を公の場で発する時には新聞や本があり、色々な人が関わることでチェック機能も働いていた。今はチェック機能なしで全世界に情報を流せる。実はチェックが働いていた方が幸運な状態だったのかもしれない」

 -言葉の発し手も受け手もモラルがより必要になりますか。

 「自分も含め世の中は本当にモラルを求めているだろうか。「世の中全体がうまく行った方が良い」「皆が幸福な方が良い」という視点に立てば、モラルを求めた方が良い。しかし今は、そう考える余裕のある人がどれだけいるだろうか」

「教養を身に付けても別に良いことはない」
 -そのような時代に教養として読むべき小説はありますか。

 「その問いが成り立たなくなっている。小説と教養がセットだった時代は過ぎた。教養とは、人間のことを知ろうとする試み。しかし今は「人間の中身なんて知ってもしょうがない」というシニシズムがあるように思う。これは健全なことかもしれない。実際に今、人間が地球に対して行なっていることを見ても、そんなに賢いとは思えないし」

 -そもそもどうしてセットだったのですか?

 「おそらく市民社会ができたことと小説が生まれたことがセットだった。王様がすべてを支配している社会では、民衆一人ひとりの個人性なんて誰も考えなくて、小説は成り立たないだろう。市民社会になって、一人ひとりが心の中に豊かな世界を抱えていて皆が違っているという前提ができると、人の心を分かろうとする気概が生まれる。そういったことに高揚を感じられた時代には、小説は教養としての役割があったと思う」

 -今はそのような時代ではないのですね。

 「人間を有り難がる姿勢が小説を支えていた。もうその前提が成り立たない。日本の場合、教養を身につけるという行為は明治の開国以来ずっとやってきた。そこには頑張れば物質的にも精神的にもより良くなれるはずだという大前提があった。今は、教養を身に付けても別に良いことはないことが露呈して、教養として小説を読むことは義務でもなんでもない時代になった。でも好きな人しか小説を読まなくなっているのはある意味で健全。ただ、好きな人が一定数いないと商品として成立しないので、そこは面白がりながら頑張りたい」

資本主義の最終形態って・・・
 -文芸誌「MONKEY」の責任編集者を務めていますが、今は雑誌の市場が厳しいです。

 「15号まで広告なしで赤字も出さずやってこられたのは奇跡。こうすれば上手く行くという処方箋はない。しいて言えば、自分が楽しむこと。かつてのように、良いものを作れば買ってくれる人がいて、作り手の生活も成り立つだろうという前提が成り立たなくなった。資本主義の原理が突き詰められ、店は個人商店からデパート、デパートからスーパーマーケット、さらにはオンラインストアになった」