伝説から25年!春のセンバツで度肝を抜かれたゴジラ・松井秀喜の本塁打をプレイバック!
星稜高校の松井 秀喜が甲子園に登場したのは1990年夏である。初戦敗退した日大鶴ヶ丘高戦は3打数0安打だったが、石川県大会で左右方向に2本塁打した長打力と柔軟性は早い段階から評判を呼んでいて、甲子園での立ち居振る舞いや打席での投手を圧倒する盤石の構えは、前評判の高さを十分すぎるほど納得させた。ちなみに、この大会には愛工大名電高2年の鈴木 一朗(イチロー)も出場していて、天理高校に1対6で敗れている。イチローは甲子園の雰囲気を雑誌『インパクト!』(平成12年、新潮45別冊4月号)の中で「アルプススタンドから見下ろされている感じが威圧的で好きではなかった」と答えている。
翌91年夏は一塁から三塁にポジションを代えて甲子園に登場した。2回戦(初戦)の市立沼津高戦が4打数2安打、3回戦の竜ヶ崎一高戦が5打数2安打2打点(1本塁打)、準々決勝の松商学園戦が2打数0安打、準決勝の大阪桐蔭高戦が4打数0安打という成績。凄かったのが竜ヶ崎一高戦で放った甲子園初アーチで、打球はこのときはまだ存在していたラッキーゾーンを超えて、甲子園最深部の右中間スタンドに飛び込んだ。
秋には明治神宮大会に出場して決勝で帝京高を13対8で下し、秋の王者に輝いている。この試合の松井の成績は2打数1安打4四球。帝京高のエースはのちに巨人、近鉄などで296試合に登板する三澤 興一で、ドラフト候補に挙がっていた早稲田大4年時に取材したときこの試合の話題になり、4つの四球は敬遠だったと話してくれた。翌92年夏、明徳義塾高の5打席連続敬遠が社会問題になるほどの騒ぎになるが、その9カ月前に松井はすでに敬遠の洗礼を浴びていた。
92年春の選抜では1回戦の宮古高戦で2本のホームランを放ち、ファンの度肝を抜いた。甲子園球場はこの年からラッキーゾーンが撤去されていてホームランが出にくい球場になっている。つまり松井の甲子園での全ホームランはすべてスタンドインということになる。力だけでなく技術力の高さを見せつけたのが2回戦の堀越高戦のホームランで、のちに阪神入りする山本 幸正から放ったライトスタンドへの一打は、バッターが最も苦にする内角低めへの縦カーブを捉えたものだった。ヒザでタイミングを取るバッティング技術が見事で、容貌も含めて高校時代の松井は高校生という感じがまったくしなかった。
そして最後の甲子園となった92年夏、松井は伝説になった。1回戦の長岡向陵高戦は4打数1安打の松井以外がよく打って11対0で大勝し、2回戦が運命の明徳義塾高戦。明徳義塾高で采配を振るう馬淵 史郎監督は松井との勝負を徹底的に避ける作戦を執った。1回表が二死三塁の場面で、キャッチャーが立ち上がりこそしないが全球外角に構え、3回表は一死二、三塁の場面で明らかなボールが4つ続き、5回は一死一塁の場面でやはり全球ボール。状況がわかりやすいようにイニングごとのスコアも紹介しておく。
星稜1 2 3 4 5 6 7 8 9 計0 0 1 0 1 0 0 0 0 20 2 1 0 0 0 0 0 X 3明徳義塾
伝説の高みを持ち上げた5連続敬遠3回の1点は5番・月岩 信成のスクイズ、5回の1点は松井が一塁に歩いて一、二塁になった場面から6番・福角 元伸のレフト前タイムリーが出ているので、明徳義塾の敬遠作戦はすべて的中したわけではない。しかし、松井には長打があるので、もし勝負してくれたらビッグイニングが生まれた可能性がある。全打席敬遠の四球を投げた明徳義塾高の先発・河野 和洋は卒業後、東都大学リーグの専修大学に進み、2部リーグで通算16本塁打を記録する強打者として4年時にはドラフト候補に挙げられていた。このときの河野を取材しているが、私の質問に「勝負したかった」と洩らしている。
その勝負したかった場面とは二死走者なしの7回表、このときの馬淵監督のサインもやはり敬遠。3対2の僅少差なので理解できないことはないが、河野はさすがにこのときは勝負できると思ったという。
キャッチャーが外角に構えるたびにスタンドからは不穏な怒声が飛び、それが最高潮に達したのが9回表の二死三塁の場面。松井への初球が外角に大きく外れるとレフトスタンドから数多くのメガホンがフィールド内に投げ入れられ、星稜高応援席からは「帰れ!帰れ!」の怒号が明徳義塾ナインに浴びせられた。松井はこの試合のことをよく覚えていて、巨人入り後も録画したビデオを東京に持参している。つらいことがあってもあの試合を思い出せば乗り越えられるとテレビ番組で話していた。そして、5連続敬遠によって甲子園の伝説になれたことを感謝する、とも言っている。曰く、「当時の松井 秀喜は5連続敬遠されるほどのバッターではなかった」
河野は専修大卒業時にドラフトにかからず、社会人野球のヤマハに進んだ。強烈なプロ志望は社会人入り後も変わらなかったが、ドラフトにはかからない。プロのテストを受けるためにヤハマを退社して、それでもプロ入りが叶わず、アメリカの独立リーグ挑戦を経たのちにウォーレン・クロマティ(元巨人)が創設したサムライベアーズに参加するが、やはりドラフトにはかからない。専修大時代の取材で「今度はバッターとして松井と勝負したい?」と聞くと、「そうですね、勝負したいですね」と答えている。河野のプロ入りへの強い思いを知っているだけに、その経歴を見ると涙腺がゆるくなる。
テレビ番組で念願の対面を果たしたとき河野は最後まで松井に敬語で対し、松井はそれを鷹揚に受け止めて、2人の間からは同級生という雰囲気がまったく漂ってこなかった。河野の松井への最後の質問は「どうしたらプロになれますか」。それに対して松井は、「これだけは誰にも負けないものを作ることが大事」という意味のことを河野に返した。松井が打ち解けた空気を作ろうとしているのにもかかわらず、河野は最後まで敬語で対し、松井への敬意を隠さなかった。
松井が話す通り、明徳義塾高の5敬遠によって、松井は甲子園の伝説になった。一度もバットを振れない不条理な状況が松井を伝説の高みにまで持ち上げたのである。
(文=小関 順二)
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