今からちょうど50年前の1956年7月、戦火で疲弊し、南北に分裂していたベトナムは選挙を実施して、統一政府を樹立するはずだった。しかし、当時の南ベトナム(ベトナム共和国)の熱心なカトリック教徒だったゴ・ディン・ジエム大統領(1955年就任)が北ベトナム(ベトナム民主共和国)のホー・チ・ミン大統領に選挙で敗れることを恐れ、選挙を拒否したのだ。

  1956年、南ベトナムの首都ハノイを拠点にして、AP通信で働いていた筆者は、他の誰もが思っていたように7月1日には選挙が実施されないと考えていた。選挙に応じない理由について聞くと、ゴ大統領は、インドシナ休戦を討議し、選挙の実施も定めた1954年のジュネーブ会議には出席しておらず、協定に従う必要はないとしていた。南ベトナムだけでなく、米国政府内にもゴ大統領に異を唱える者はいなかった。

  選挙が流れ、北のホー大統領は外交で失ったものを破壊活動と武器で取り戻そうとひそかに決心したのだ。筆者は1954年、ハノイに駐在していた。同年5月にディエン・ビエン・フーで仏軍に勝利したホー大統領の軍隊は古タイヤの靴を履いて、ジャングルから静かに行軍を始め、ベトナムの北半分を勝ち取った。姿を現したホー大統領はベトナム全土に平和をもたらし、統一すると宣言した。

  南のゴ大統領は自身の楽観的で自信に満ちた性格だけでなく、米国の支援があったからこそ、選挙を反故にすることができたのだ。

  ゴ大統領は野心的な土地制度の改革に乗り出し、共産主義勢力の農村部浸透を阻止するための軍事拠点となる「戦略村」(集中キャンプ)を各地に建設。戦略村に米国型の民主主義の導入を試みた。筆者はゴ大統領に同行し、南ベトナム軍が敵対する宗教勢力から奪った広い地域を回った。長い間、フランス支配からも免れていた地方だ。

  ゴ政権の存続に懐疑的な見方をする人々も少なくなかった。例えばワシントンの政治評論家、ジョセフ・オルソップ氏は、ゴ大統領が長期間政権の座にとどまるという筆者の慎重な予想を冷笑的に見ていた。オルソップ氏は主にフランス人が中心だが、ワシントンの取材源から、ゴ大統領は数カ月以内に失脚すると予想していたのだ。しかし、彼のこの予想はあとで時期尚早だったことが分かる。

  ゴ大統領と米国の支持者たちによる南ベトナムの統治は、1956年末までは非常に安定していた。書くべき記事のない筆者はサイゴンを離れ、香港に移ったくらいだ。その後の7年間も南ベトナムは比較的平和だった。

  そして、南ベトナムを揺さぶったのはカトリック教徒が牛耳るゴ政権に迫害されていた仏教徒だった。1963年6月、ゴ政権による弾圧に抗議し、公衆の面前で焼身自殺した僧侶の姿は世界中に衝撃を与えた。カトリック教徒のジョン・F・ケネディ大統領は、仏教徒を守らなければならないと考えたに違いない。

  ケネディ大統領は南ベトナム軍部によるゴ大統領の追い落としの動きを黙認した。そして、1963年11月1日に起きたゴ政権打倒のクーデターでゴ大統領と実弟で政治顧問のゴ・ディン・ヌー氏が殺害された。秘密警察などを操っていたヌーは仏教徒抑圧の黒幕だと広く信じられていた。当時、ほとんど誰も注目しなかったが、国連は共産勢力が仏教徒の抗議行動を支援したと報告している。ケネディ自身が暗殺されたのはゴ兄弟が命を落としたクーデターから1カ月も経っていない11月22日だ。

  筆者は1954年のディエン・ビエン・フーの後、他のジャーナリストと同様にベトナムの国土を覆う水田と密林は、機械化された近代的な軍隊にとって、死の罠になるに違いないという趣旨の記事を書いた。この記事をケネディ大統領は、大統領になる前の上院議員時代に読み、筆者と共通の知人に対し、賛意を示したという。暗殺された1963年にケネディ大統領は米軍事顧問団の撤退に向けた準備を始めていたとされている。