世界100カ国以上で驚異的に売れている筆記具「フリクションボール」。デジタル化が進む中で、なぜ、アナログの筆記具がこれほど人気を集めているのだろうか。

■消せるインキはどうして生まれたか

デジタル化が進展し、手書きの文字を残す機会が明らかに減少した昨今、ボールペンという伝統的筆記具でありながら、大ヒットを飛ばしている商品がある。パイロットコーポレーションの「フリクションボール」だ。2006年にフランスで発売以来、約6年間で実に累計4億本超を売り上げている。マーケットの地理的なカバレッジも大きく、世界100カ国以上で販売されている。

この商品の特徴は、ボールペンで書いた文字がペン尾についているラバーで擦ることによって容易に消せる点にある。もちろんラバーは消しゴムではなく、摩擦熱を起こすためだけのツールなので、いわゆる消しカスのようなゴミは一切出ない。

ただ、「消せるボールペン」というアイデアは、特段目新しいものではない。パイロットコーポレーション営業企画部営業企画課主任の田中万理氏によれば、「1980年代からありました」とのことで、筆者も学生時代に使った思い出がある。「消せるボールペン」は筆記具業界では幾度もチャレンジしては、消えていったアイデアだったのだ。

事実、同社でも、フリクションボールの発売に先立つ01年に同種の商品を発売している。当初は、学生を中心に大ヒットとなったそうだが、残念なことにしばらくしてその需要は急降下したという。問題点は消し去る原理にあった。旧来型の消せるボールペンは、水性のインキを使用しており、紙に水分だけが染み込み、色素の部分が紙の上に残って、その色素を取り除くことで消えたとしていた。それゆえ、消しゴムを使わなくとも指で擦っても消えてしまうような代物だったのだ。

パイロットコーポレーションの営業企画部営業企画課主任の古謝将史氏によると、「当時の消せるボールペンは、消えることは便利だけれども、これで書いたらすぐに消えてしまうというフラストレーションがたまり、面白いけれど、使えないというものだったようです」とのことだ。消費者が求めていたのは、「しっかり書けて、しっかり綺麗に消せる」ということだった。これを実現したのがフリクションボールであった。

フリクションボールは、メタモインキという同社オリジナルのインキ技術の開発によって可能になった。これは、3つの成分が一つのカプセルに入ったもの、とイメージすると捉えやすい。まずは、ロイコ染料という発色剤である。これは単体では無色なのだが、顕色剤と結合すると、独自の色を出す。そして、これら2つの成分をコントロールするのが顕色温度調整剤である。これは、一定温度になると、ロイコ染料と顕色剤との結合を断ち切ってしまう成分だ。例えば、45度で結合を断ち切る顕色温度調整剤を入れておけば、この温度以下になると、また元の色が浮かび上がってくる。

メタモインキは75年の開発以降、たゆまぬ技術改良を経て05年には温度変化の幅を80度前後にまで拡大し、60度以上の温度で無色になり、マイナス20度以下で文字が現れるという調整が可能になった。これにより日常の生活環境下では、一度消去した文字は浮かび上がることはなく、消去されたままの状態にできるようになった。

このメタモインキという画期的な発明はどのようにして誕生したのだろうか。そこにはなんともドラマチックな機縁があった。発明者の中筋憲一氏(現パイロットインキ会長、パイロットコーポレーション常務取締役)は70年代初頭、27〜28歳頃に取り組むテーマをなくし困惑していた。そんな折、たまたま外回りをしているときに、突如ひらめきのチャンスを得た。それは紅葉だった。秋冬の風物詩、紅葉は、緑の葉が一晩で真っ赤に染まる。それを目にした中筋氏は、こういう劇的な色彩変化をビーカーの中で再現できたらと考えたそうだ。失意の中での紅葉との衝撃的出合い。これが後のメタモインキ「フリクションインキ」の出発点となったのだ。

開発当初、この技術は筆記具には適さないと考えられていた。なぜならインキはきちんと残り続けるところに価値があり、消えたり光で劣化したりするのはいいインキではないとの常識があったからだ。それゆえ出だしは、玩具やマグカップなどにこの技術を利用していた。例えば真っ白なエビフライのオモチャを冷水に入れるとこんがりきつね色に変わったり、マグカップに熱いお茶を入れると下の絵柄が浮かび上がり枯れ木に花が咲くといったようにだ。筆記具が本業の同社では、このような商品ジャンルのビジネスは全体の2割程度でしかなかったのだ。

しかしいつかは筆記具にこの技術を応用しようと、地道な努力が続けられた。今回お話をうかがったパイロットコーポレーション湘南開発センター名古屋分室インキ開発グループ部長の千賀邦行氏が同社に入社したとき、中筋氏は課長だったそうだが、とにかく彼から幾度も口を酸っぱくして言われたのが、「技術を止めるな。絶対これで完成ではないのだ」という言葉だった。

メタモインキのボールペンへの応用に関してはいくつかの高いハードルがあった。前述のように、メタモインキは3つの成分が混入したカプセルででき上がっている。が、その安定性を維持するにはある程度の大きさが必要だった。だがこれが大きくなると、ペン先のように狭い隙間からは出なくなってしまう。

技術的改良は難航を極めた。まず安定的なカプセルの小型化が大きな課題になったのだが、カプセルを小型化すると、カプセル膜の耐久性が脆弱になり、化学反応が不安定になってしまう。きちんと変色できなくなってしまうのだ。最終的にはカプセル内の成分をしっかり保護する強靭な膜剤を開発することにより、この課題はクリアできた。

また、技術的な問題点はメタモインキの変色機能自体にもあった。開発当初、30度で温めると色は消えるのだが、それよりも少し温度が下がるとまた元に戻ってしまうという問題があった。わずかな温度の変化で色が消えてしまってはインキとしての価値はない。この課題は結局、「メモリータイプ」という、消去した部分はそのまま記憶できる変色温度調整剤を開発することで克服できた。

そして、筆記具として実用可能なメタモインキ、フリクションインキが完成したのが05年のことである。この画期的発明に同社のヨーロッパ代表が飛びつき、最初の販売が翌年、フランスで実現した。

ヨーロッパ代表がいち早く飛びついたのにはわけがある。フランスでは、小学生が通常の授業で万年筆を使っていたからだ。無論、筆記には書き損じがつきもので、その都度、インキキラーという化学的消去液で消さねばならなかった。だがこの薬液を使うと、修正個所にこの液体が残存するので、同じペンで書くと消えてしまう。これを避けるためには、別のペンを使わねばならないのだ。そうすると、元のペン、インキキラー、さらにインキキラーで消えない別のペンの3種類を常備しなければならない。

ところがフリクションボールの場合は、ペン尾につけられたラバーの摩擦熱でインキが消え、同じペンで即書き直しが可能なので、オールインワンで済んでしまう。千賀氏はこの商品のヒットの理由を「切れ味のある消え方、消しカスが出ない」に加え、「一本で何度でも書き消しができる」といった点を挙げた。

とはいえ、フランスのように小学生から万年筆やボールペンを使う習慣がある国ならいざ知らず、日本のように通常、鉛筆、シャープペン、消しゴムを使う国では、事情が異なるのではと思ってしまう。とりわけビジネスではインキというものは消えない点に本来の価値があるように思えてしまう。それにもかかわらず日本でも大ヒットとなった理由は一体何なのだろうか。千賀氏はこう語る。「考えながら書く作業をする方に非常によく使っていただいたからです」。

例えば出版物の校正、設計図の作成、楽譜への書き込み等を仕事とする人たちに重宝されたというのだ。さらに興味深い例は、漫画家の使用方法だ。通常、漫画は下書きを鉛筆で書いてその上にペン入れを行い、最後に消しゴムをかけて絵を完成させる。これをまず薄い色のフリクションボールで下書きをして、その上からペン入れを行い、最後にドライヤーの熱で下書きのフリクションインキを消し飛ばしてしまう。こうすればいわゆる「消しゴムがけ」という作業を省略することができる。もちろん消しカスも一切出ない。

フリクションボールは、以上の例のように当初は特殊な職業の人が専門的な使い方をするための道具だった。ところが今日では、販売実績が明瞭に示しているように、一般の人々に幅広く購買されている。なぜこのように裾野が広がったのだろうか。

■単なる面白グッズで終わらないために

この問いに対し、古謝氏は「デジタル化の流れとの相性がよかったからです」と指摘する。実はこの商品は、オフィス環境に非常に優しいのだ。例えば、会議で配られた書類へ書き込みができ、そのコピーをとる際には書き込みを綺麗に消去することができる。

そして、何といっても優れモノなのは、文書やイメージを作成する際に、自分の思考をまとめ上げる過程で、自由に書いたり消したりできるという点だ。パソコン・ワープロでの作成は、人に開陳する最終的な完成形を作るという意味で非常に重要なのだが、それを作成する事前プロセスでは、アナログ的な筆記具が必要である。

その意味でこの筆記具は、デジタルとは代替関係にあるのではなく、機能の違いに基づいて使い分けすべき補完関係にある商品といえるのだ。まさにオフィスに不可欠の筆記具なのである。それゆえ、ターゲットに関しても、「オフィス」を強く意識している。

通常、筆記用具業界では、女子中高生に受けるとヒットするというセオリーがあった。この世代は文房具に関してものすごく感度の高い世代で、筆入れの中に多数の筆記具を所持している子が多い。それゆえ、この世代に好まれることは非常に重要なことだった。

しかし同世代を意識して01年に発売した「消せるボールペン」は当初、大ヒットしながらも、その後急激に失速するという辛酸を舐めている。フリクションボールの場合も、「摩擦熱でインキが消え、冷やすと復活する」と訴えると若者向けの単なる面白グッズで終わってしまう恐れがあった。そこで、低温による発色復活現象は一切「ウリ」にせず、逆に「注意事項」としてアピールし、実用的な筆記具として、大人向けに真面目なアプローチを試みたのだ。

同社は、いかにも大人向け、オフィス向けというターゲット設定を感じさせるマーケティング意思決定を随所で行っている。例えばそれは価格面に表れている。通常、ボールペンの価格は1本100円というのが定番だ。これ以上の水準になると、需要量が激減するからだ。ところが、フリクションボールの場合、1本210円とかなり強気のハイプライスをつけている。これは、この商品が綺麗に消せるという優れた技術に裏打ちされた独自の付加価値を実現したものだからだ。この価格は、その価値を理解してくれた人に購入してもらいたいという強い意志の表れなのだ。

また、マーケティングコミュニケーション活動も、大人向けだ。同社では、日本での発売の半年後からハードなニュース番組であるテレビ朝日「報道ステーション」でCMを流している。最初のバージョンは、この商品の特性である「消せること」をアピールしたものだった。だが、その後には「会社編」というバージョンを作り、オフィスでフリクションボールがどのように活用できるのかを説く便益訴求型のクリエイティブCMを流している。

同社の優秀性は、どんな困難な課題に直面したとしても、必ずクリアできると信じるところにある。できないわけはなく、何か必ず手があるはずだと常に考えるのだ。フリクションボールという大ヒット商品誕生の背景には、このように不可能は必ず可能にできるという不屈の精神と、たゆまぬ技術開発およびこだわりのマーケティングへの専心があったのである。