「今日の判決にはなにひとつ納得できません。当時の校長や(当日学校にいて唯一生き延びた男性教師)A先生に《救助活動をする義務がなかった》とは、どういうことなのか、人として、教員としてどうなのか−−」

2011年3月11日の東日本大震災による大津波で、宮城県石巻市立大川小学校5年生だった二女・紫桃千聖ちゃん(享年11)を亡くした母・さよみさん(50)が、怒りをあらわにして言う。

地震発生から津波が襲うまでの「51分間」。教師の判断で校庭に座らされ、裏山ではなく三角地帯(川の堤防方向)に避難させられて死亡・行方不明となった児童74人のうち、23人の遺族が市と県に計約22億6,000万円の損害賠償を求めていた大川小訴訟。

10月26日、仙台地裁より市と県に、計14億3,000万円の支払いを命じる判決が出された(控訴期限は2週間)。だが《勝訴 子供たちの声が届いた!!》と書かれた旗文字は“終結”を示すものではなかった−−。

ジャーナリストの池上正樹さんが言う。

「お金のための訴訟ではなかった。あの51分間に“何が起きたのか”を知るための闘いでした。《校庭にいた先生に子どもの命を守る義務があった》と市と県の法的責任を認めて遺族の『勝訴』となりましたが、5年7カ月をかけた裁判でも、知りたかった部分はほぼ不明のまま−−。そこに遺族のもどかしさがある」

学校側の“真実を隠す”体質は、3月11日の震災直後から繰り返されてきたという。千聖ちゃんの父・隆洋さん(52)が振り返る。

「山に逃げようと子どもらが話していたという聞き取りメモが“子どもの記憶は変わるから”と破棄されました。そういった、保身のための彼らの偽証は、すべて“あの日”から始まったんだと思います」

隆洋さんが“あの日”というのは、遺族の強い要望でようやく行われた、’11年4月9日第1回保護者説明会だ。この説明会で津波を生き延びた唯一の教師・A先生が証言している。遺族らが撮影した当日のビデオ映像を確認することができた。A先生はときおり言いよどみつつも、津波襲来の瞬間をこう振り返った。

「校庭では、すでに堤防のいちばん高いところに避難するというので、移動を始めていて、私はいちばん後ろになって、ついていきました。その直後、ものすごい高さの津波が道路に沿ってくるのが見えました。すぐに『山だ、山だ、こっちだ』と叫んで山のほうにやりました。山にたどり着いたとき、私も雪で滑ってぜんぜん登れなくて、周りに子どもたちもいました。斜面についたとき杉の木が2本倒れてきて、それにはさまれた瞬間に波をかぶって、もうダメだと思ったが、波が来たせいか木が軽くなって、斜面の上を見たら、数メートル先のところに3年生の男の子(Bくん)が『助けて』と叫んでいました。絶対にこの子を助けなければと、押し上げるようにして斜面の上に必死で登っていきました……」

この説明会を最後にA先生は「体調を崩し自宅療養中。医師よりパニック障害、対人恐怖症、うつ病などで入院を勧められている」として公の場に現れなくなった。

そして、遺族側が独自に調査した結果、A先生の話の中でいくつか“つじつまが合わない”部分が出てくる。たとえば、A先生とBくんが避難した先の自動車整備工場の千葉正彦社長の証言。

「A先生もBくんも服装はきれいで濡れていなかった。波はかぶってないと思います」

また、津波に遭遇しながら奇跡的に生還した4人の児童のうちの1人、当時5年生だった只野哲也くん(17)と父・英昭さん(45)は、Bくんの話を聞いている。

「Bくんは『僕は自分で登った』と言いました。そして『A先生が山の上のほうにいて“こっちだ、こっちだ”って言っていた』とも。この証言を聞いて、A先生が『波をかぶった』というのは偽証だと思ったのです」(英昭さん)

遺族関係者が、A先生が遺族の前で嘘の証言をした理由をこう推測する。

「学校側が決めた『三角地帯に避難する』という命令をA先生が守らず裏山に逃げたのであれば、その指示に背いたA先生が助かり、従わされた児童が被災したことになる。学校側の『過失責任』を問われないよう、当時の“上司”の指示で、A先生が偽証させられたのではないでしょうか」

市や教育委員会の説明が信じられなくなった遺族は、’14年3月に「A先生の真実の言葉を聞きたい」と民事訴訟に踏み切った。だが、A先生の証人尋問は今年4月に裁判所に却下される。今回の勝訴でも“納得いかない”理由はここにある。

被告側が控訴する可能性はまだあるが、英昭さんは次のように決意表明をする。

「裁判中は『係争中の事案』を理由に中断されていた遺族と学校関係者の話し合いを、すぐにでも再開し、51分間の真実を明らかにしたい。わが子(長女・未捺ちゃん)を亡くした事実に、嘘の説明をされることほど怒りをおぼえることはないんです。それでもA先生が真実を語ってくれないのなら、個人的に彼のところに私が訪ねていくことになるのかもしれない。いくつかの選択肢がありますから、判決は終わりではなく新たな闘いの始まりだと、私たちは思っています」