「今、この場から富士山を動かしてみなさい」…あなたならどう答える?
忙しない現代を生きる上で、自分の心をコントロールするだけでも大変なことです。
どんな風に考えたら、もっと楽に生きることができるのか。
どんな風に振る舞えば、もっと自分らしく日々をおくることができるのか。
八洲(やしま)学園大学国際高等学校の校長、八洲学園大学の教授、そして僧侶でもある岩井貴生さんが執筆した『楽になる禅のおクスリ』(主婦の友社(発売)/ 主婦の友インフォス情報社(発行))は、禅の考え方を通して、悩んでいる人たちへの“おクスリ”を処方する一冊。
今回、新刊JPは岩井さんをお招きし、本書についてお話をうかがいました。その前編です。
岩井さんが師匠から出されたという「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という問い。あなたはどう答えますか?
(新刊JP編集部)
■「今、この場から富士山を動かしてみなさい」…あなたならどう答える?
――岩井さんは現在八洲(やしま)学園大学国際高等学校の校長、八洲学園大学の教授、学校法人八洲学園の理事でもあり、僧侶でもあります。ですが、以前はアメリカに長年お住まいだったということで大変ユニークな経歴を持っていらっしゃいます。そこの経緯をもう少し詳しく教えて頂けますか?
岩井さん(以下敬称略):アメリカの大学・大学院を卒業した後、日本に帰国せずにアメリカに残って都市開発や都市政策に関わる仕事をしていました。居心地がよくて、気がついたら12年ほどアメリカに滞在してしまっていました(笑)
アメリカは年功序列的・論功行賞的な社会ではないため、とても暮らしやすかったのですが、それがゆえにすべてが実力主義・成果主義で、とても厳しい一面もありました。成功のためなら平気で人を裏切ったり、お金や権利、そして名利への貪欲さが露骨に見える世界で、人間の醜さ、本性が見えてしまい、「何のため人間は生きているのか」という問題意識を持つようになったのです。
禅は「自分はなぜ生まれてきたのか」「自分の存在とは何か」ということを究明することです。「何のため人間は生きているのか」という私の問いも、禅を学べばその答えが見つかると思いました。また、人間関係の難しさを経験していくにつれ、結局は「人の質が大切」と実感したのですが、人の質を向上する場所は教育ですから、教育現場でも働きたいと思うようにもなりました。ちょうどその時、現在私が奉職している学校法人八洲学園の理事長と出逢い、教育に携わる機会をいただいたのです。
――聞けば聞くほど、ユニークな経歴です。ボストン大学大学院で都市政策学を学んだあと、花園大学の大学院で仏教学に転科したのはなぜだったのですか?
岩井:禅を本格的に学びたいと思ったのは、アメリカの大学院を修了した後からです。大学院を出た後、アメリカでバリバリ働いていたんですが、その頃、自坊の師匠が体調を崩して仏事を手伝うために一時的に帰国しました。
その際、師匠から「今、この場から富士山を動かしてみなさい」と言われました。自坊は四国にありますし、ましてや富士山を動かすことなどできませんので、唐突な質問に私は言葉を失ってしまいました。すると師匠から「アメリカの大学院を出ても、こんな簡単なことが答えられないのか」と言われたのですね。
その時、学歴や職歴ましてや名声や名利などは何の意味もないと痛感しました。今までの自分の価値観が総崩れとなって、頭を思いきり強打された感覚に襲われました。今思えばきっと欠点だらけの私の人間性を師匠は見抜いて、こうした禅問答を私に投げかけてくれたのだと思います。そこからですね。真剣にもっと禅のことを知りたいと思うようになったのは。
――師匠から「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という質問をされたとき、どう岩井さんなりにお答えしたのですか?
岩井:師匠と弟子の関係である以上、そこには緊張が張りつめています。質問をされるだけで体が硬直してしまうような緊迫感があるのです。そんな状況で、論理的に考えれば「できない」と答えざるを得ない質問が飛んできたのですから、何も答えることはできませんでした。考えれば考えるほど答えが出てこなくなるし、どうしてそんな質問をしたのだろうという思いもありました。
――この質問は、いわゆる「頓知」ですよね。
岩井:頓知というか、まさに「禅問答」です。例えば、有名な禅問答で、「両手で拍手をすると音がする。では、片手で拍手をしたときにどんな音がするか」という問いがあります。これも、ロジカルに考えて答えが出るものではありません。
これが禅問答なのです。常識や固定観念、凝り固まった自分の殻を割って、もっと心身を含めてゼロから考え直さないといけない。師匠の「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という質問も、そのような意図があったのだと思います。
ただ、禅問答に答えはないかというと、そうではなく、修行の一つですからしっかりとした答えがあると思います。ただ、それは伝統的な修行道場での師匠とのやり取りの中で見えてくるものではないでしょうか。
――この『楽になる禅のおクスリ』は、その名の通り「禅」の考え方が全体に流れています。岩井さんは「禅」のどんなところに魅かれましたか?
岩井:禅は、何事にもこだわらない、執着しないということを重んじます。ですから、とても潔いというか、後味が良く、何とも言えないすがすがしい気持ちをもたらしてくれる教えなのです。そこに惹かれましたね。
禅語に、「至道無難、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」という言葉があります。これは「ただ選り好みさえしなければ人生そんなに難しくはない」という意味です。好き、嫌い、正しい、間違っていると選り好みしまうところに、他人との争い事が起きてしまう原因があるのでしょう。この言葉を実践するだけでも、随分と楽に毎日を過ごせるようになると思います。
私は本来とてもマイナス思考な人間ですが、禅の教えを学んでだいぶプラス思考になりました。それもきっと禅には気持ちを楽にさせるおクスリのような教えがあるからだと思います。
――なるほど。しかし、このように面と向かってお話していると、岩井さんがマイナス思考だったとは考えられません。
岩井:本当にマイナス思考の人間でした(笑)嫌なことがあればずっと悩んでいるような性格だったんです。実は、今でも気を抜くとネガティブ思考に戻ってしまいそうになります。これは運動でも勉強でも同じですが、トレーニングを続けていないとすぐに元の状態に戻ってしまうんです。
だから、もし自分のネガティブな部分が顔を出してきたときは、自省をすることが必要です。誰も自分のことを分かってくれないのではなく、分かってもらえないのは、自分自身に原因があると考え、反省するのです。
よく「悟りの境地に立った」といいますが、私は悟りを開いてからずっとそこにいるのではなく、開いてもすぐに俗世間に戻ってきてしまい、また開いては戻り…ということを繰り返すのだと思うのですね。だから、死ぬまで修行は続くものなのです。
嫌なことをクリアすることで、人間の質を高めていく。そう考えれば、嫌な人やことを目の前にしても、自分が向上するための一つの壁であると思えますし、とてもポジティブに受け取ることができます。
(後編に続く)
どんな風に考えたら、もっと楽に生きることができるのか。
どんな風に振る舞えば、もっと自分らしく日々をおくることができるのか。
八洲(やしま)学園大学国際高等学校の校長、八洲学園大学の教授、そして僧侶でもある岩井貴生さんが執筆した『楽になる禅のおクスリ』(主婦の友社(発売)/ 主婦の友インフォス情報社(発行))は、禅の考え方を通して、悩んでいる人たちへの“おクスリ”を処方する一冊。
今回、新刊JPは岩井さんをお招きし、本書についてお話をうかがいました。その前編です。
岩井さんが師匠から出されたという「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という問い。あなたはどう答えますか?
(新刊JP編集部)
――岩井さんは現在八洲(やしま)学園大学国際高等学校の校長、八洲学園大学の教授、学校法人八洲学園の理事でもあり、僧侶でもあります。ですが、以前はアメリカに長年お住まいだったということで大変ユニークな経歴を持っていらっしゃいます。そこの経緯をもう少し詳しく教えて頂けますか?
岩井さん(以下敬称略):アメリカの大学・大学院を卒業した後、日本に帰国せずにアメリカに残って都市開発や都市政策に関わる仕事をしていました。居心地がよくて、気がついたら12年ほどアメリカに滞在してしまっていました(笑)
アメリカは年功序列的・論功行賞的な社会ではないため、とても暮らしやすかったのですが、それがゆえにすべてが実力主義・成果主義で、とても厳しい一面もありました。成功のためなら平気で人を裏切ったり、お金や権利、そして名利への貪欲さが露骨に見える世界で、人間の醜さ、本性が見えてしまい、「何のため人間は生きているのか」という問題意識を持つようになったのです。
禅は「自分はなぜ生まれてきたのか」「自分の存在とは何か」ということを究明することです。「何のため人間は生きているのか」という私の問いも、禅を学べばその答えが見つかると思いました。また、人間関係の難しさを経験していくにつれ、結局は「人の質が大切」と実感したのですが、人の質を向上する場所は教育ですから、教育現場でも働きたいと思うようにもなりました。ちょうどその時、現在私が奉職している学校法人八洲学園の理事長と出逢い、教育に携わる機会をいただいたのです。
――聞けば聞くほど、ユニークな経歴です。ボストン大学大学院で都市政策学を学んだあと、花園大学の大学院で仏教学に転科したのはなぜだったのですか?
岩井:禅を本格的に学びたいと思ったのは、アメリカの大学院を修了した後からです。大学院を出た後、アメリカでバリバリ働いていたんですが、その頃、自坊の師匠が体調を崩して仏事を手伝うために一時的に帰国しました。
その際、師匠から「今、この場から富士山を動かしてみなさい」と言われました。自坊は四国にありますし、ましてや富士山を動かすことなどできませんので、唐突な質問に私は言葉を失ってしまいました。すると師匠から「アメリカの大学院を出ても、こんな簡単なことが答えられないのか」と言われたのですね。
その時、学歴や職歴ましてや名声や名利などは何の意味もないと痛感しました。今までの自分の価値観が総崩れとなって、頭を思いきり強打された感覚に襲われました。今思えばきっと欠点だらけの私の人間性を師匠は見抜いて、こうした禅問答を私に投げかけてくれたのだと思います。そこからですね。真剣にもっと禅のことを知りたいと思うようになったのは。
――師匠から「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という質問をされたとき、どう岩井さんなりにお答えしたのですか?
岩井:師匠と弟子の関係である以上、そこには緊張が張りつめています。質問をされるだけで体が硬直してしまうような緊迫感があるのです。そんな状況で、論理的に考えれば「できない」と答えざるを得ない質問が飛んできたのですから、何も答えることはできませんでした。考えれば考えるほど答えが出てこなくなるし、どうしてそんな質問をしたのだろうという思いもありました。
――この質問は、いわゆる「頓知」ですよね。
岩井:頓知というか、まさに「禅問答」です。例えば、有名な禅問答で、「両手で拍手をすると音がする。では、片手で拍手をしたときにどんな音がするか」という問いがあります。これも、ロジカルに考えて答えが出るものではありません。
これが禅問答なのです。常識や固定観念、凝り固まった自分の殻を割って、もっと心身を含めてゼロから考え直さないといけない。師匠の「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という質問も、そのような意図があったのだと思います。
ただ、禅問答に答えはないかというと、そうではなく、修行の一つですからしっかりとした答えがあると思います。ただ、それは伝統的な修行道場での師匠とのやり取りの中で見えてくるものではないでしょうか。
――この『楽になる禅のおクスリ』は、その名の通り「禅」の考え方が全体に流れています。岩井さんは「禅」のどんなところに魅かれましたか?
岩井:禅は、何事にもこだわらない、執着しないということを重んじます。ですから、とても潔いというか、後味が良く、何とも言えないすがすがしい気持ちをもたらしてくれる教えなのです。そこに惹かれましたね。
禅語に、「至道無難、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」という言葉があります。これは「ただ選り好みさえしなければ人生そんなに難しくはない」という意味です。好き、嫌い、正しい、間違っていると選り好みしまうところに、他人との争い事が起きてしまう原因があるのでしょう。この言葉を実践するだけでも、随分と楽に毎日を過ごせるようになると思います。
私は本来とてもマイナス思考な人間ですが、禅の教えを学んでだいぶプラス思考になりました。それもきっと禅には気持ちを楽にさせるおクスリのような教えがあるからだと思います。
――なるほど。しかし、このように面と向かってお話していると、岩井さんがマイナス思考だったとは考えられません。
岩井:本当にマイナス思考の人間でした(笑)嫌なことがあればずっと悩んでいるような性格だったんです。実は、今でも気を抜くとネガティブ思考に戻ってしまいそうになります。これは運動でも勉強でも同じですが、トレーニングを続けていないとすぐに元の状態に戻ってしまうんです。
だから、もし自分のネガティブな部分が顔を出してきたときは、自省をすることが必要です。誰も自分のことを分かってくれないのではなく、分かってもらえないのは、自分自身に原因があると考え、反省するのです。
よく「悟りの境地に立った」といいますが、私は悟りを開いてからずっとそこにいるのではなく、開いてもすぐに俗世間に戻ってきてしまい、また開いては戻り…ということを繰り返すのだと思うのですね。だから、死ぬまで修行は続くものなのです。
嫌なことをクリアすることで、人間の質を高めていく。そう考えれば、嫌な人やことを目の前にしても、自分が向上するための一つの壁であると思えますし、とてもポジティブに受け取ることができます。
(後編に続く)