源頼朝は浮気者だった―結果、史上空前の「夫婦げんか」をした
恋人や夫婦につきものの「けんか」。ちょっとした意見の食い違いから夫婦げんかに発展するのはよくある話だが、鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)は、部下を巻き込む史上空前の夫婦げんかをやらかした。
原因は頼朝の浮気で、歴史書に4回も記録されるほどの浮気性が妻・北条政子(まさこ)を激怒させ、なんと浮気相手の家を破壊してしまった。末は離婚かと思いきや、さきに他界した頼朝に捧げるために、自分の頭髪を編み込んだ曼荼羅(まんだら)を作らせた、なんとも不思議な夫婦なのだ。
■浮気相手の屋敷に「破壊命令」
源頼朝は、「いいくにつくろう」で知られる鎌倉幕府を開いた人物として有名だが、決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な人生ではなかった。父・頼朝(よりとも)が平清盛(たいらのきよもり)に破れると、まだ子供だった頼朝は伊豆に流罪となる。
その地で妻・北条政子と出会い、たがいにひかれあうのだが、北条家は平氏の支配下だったため、いわば禁断の恋だった。やがて政子は父の反対を振り切り、二人は駆け落ちする。北条政子の情熱的なひと柄がうかがえるできごとだ。
やがて源氏は平氏を打ち破り、1192年に鎌倉幕府を創設するのだが、その10年前の1182年に事件は起きた。妊娠中の政子をよこめに、頼朝が浮気に走ったのだ。
頼朝は、日本の歴史書である吾妻鏡(あずまかがみ)に4回も記録されるほどの浮気者だったが、時代を考えるとさほど特別なこととは言いがたい。だが出産後に浮気を知った政子はこれを許さず、部下に命じて浮気相手・亀の前(かめのまえ)の屋敷を破壊…なんとも強烈な報復をおこなったのだ。
それを知った頼朝も激怒し、あろうことか、屋敷を破壊した部下に八つ当たりをする。平身低頭して謝罪するも、怒りが治まらなかった頼朝は、部下の髪を切るという、なんとも陰湿な腹いせをおこなった。
現代にたとえるなら、
・社長の浮気相手の家を、部下が「建造物損壊」
・逆ギレした社長が、部下に体罰
のようなもので、理不尽このうえない。せめて当事者だけで納めて頂きたいものだ。
■亡き夫に捧げた髪
マジで別れる5秒前に思える二人は、意外なことに生涯を伴侶のまま過ごす。それどころか先に他界した頼朝のために、政子は自分の髪を使って捧げ物を作らせているのだ。
頼朝は1199年に他界し、原因は「落馬説」が有力だが、はっきりと特定されていない。政子はあとを追って自らも命を絶とうと考えたが、かの浮気騒動と同じ年に生まれた子・頼家(よりいえ)もまだ17歳と若く、将来を案じて思いとどまったという。
代わりに出家して尼となり、その際に切った髪で刺繍(ししゅう)した曼荼羅(まんだら)を作らせ、二人にとってゆかりの深い伊豆山神社に奉納したのだ。
その後は尼として生涯を閉じるが、「政治の世界」に復帰し、尼将軍とも呼ばれた。貞淑な一面を見せながらも、部下を激励するために自ら政治演説をおこなったタフさも持ち合わせていた。浮気相手への報復、自らの髪を使った曼荼羅、どちらも情熱的な政子らしいといえよう。
■まとめ
・鎌倉幕府を開いた源頼朝は、歴史書にも記されるほどの浮気者
・浮気を知った妻・政子は、部下に命じて浮気相手の屋敷を破壊した…
・頼朝が死去すると、自分の髪で刺繍した曼荼羅を奉納した
「愛憎」の言葉通り、強く愛するほどに、怒りも増すのだろう。
ただし「夫婦げんかは犬も食わない」ので、ほどほどに。
(関口 寿/ガリレオワークス)