東京五輪を、障碍者やお年寄りに優しい都市に変えるきっかけに/日沖 博道
2020年の東京五輪を旧来型の公共事業用イベントに終わらせては、後の世代に大きな負の遺産となるだけ。やるべきことはバリアフリー社会の構築であり、そのために必要なのはソフト面を中心にしたインフラ整備です。
東京五輪の施設整備は4500億円を超える額に上るといわれています。自民党が「国土強靭化」という看板を掲げて公共事業の復活を宣言したところに、ちょうどタイミングよくオリンピック誘致が決定したものですから、10年間で200兆円ともいわれる国土強靭化計画の核になる一大イベントとして、今後は扱われていくのではないかと思われます。
前回1964年の東京オリンピックによる需要の大きさを体感的に覚えている(または度々聞かされて育った)向きは、今回もそのカンフル効果を大いに期待しているようです。でも同じ成熟都市・ロンドン五輪ではどうだったかを見てみましょう。約1.4兆円にも上った運営費を支払いながら、その後英国のGDPはマイナス成長に陥っています。冬季五輪後の長野県/市の大幅な財政悪化も忘れてはなりません。ことほど左様に、先進国でのオリンピック効果というものは単なるカンフル効果だけを見たら、公共支出額に見合わないものです(ただし別観点では大いに意味があり、それは後述します)。
最近の五輪開催国である中国、これからやろうとしているブラジルやトルコなどの新興国では、人口も増えている途上ですから、巨大なハコモノを建てて高速道路等の整備にいそしむのは合理的です。いずれにせよ必要となる都市インフラを整備するためのきっかけに過ぎず、そのあとで十分な活用を見込めます。前回1964年の東京がまさにそんなタイミングでした。しかしすでに成熟した都市となった東京、しかも日本国全体として少子高齢化が進む中で、新興国と同じようにすることは馬鹿げています。近所の若い夫婦が何組も家を新築したからといって、老夫婦が今さら大きな借金をして全面的に家を建て替えるようなものです。
主な懸念点は2つです。旧来の土建屋的発想が強い人たちが中心になって整備していく結果、あまりにハード志向すなわち「ハコモノ」に偏った整備事業になり過ぎて、ソフト面がなおざりにされないかということが一つ。そして社会が大いに高齢化してしかも人口縮小が始まっているにもかかわらず、将来の身の丈に合わない無駄なサイズのハコモノが続々と作られやしないか、ということがもう一つです。長野県/市が直面した、後々生じる巨額メンテナンスコストを考えると、決して迷いこんではいけない誘惑のとば口に、我々は立っているのです。
ではどうすればいいのか。先の老夫婦の例え話で云えば、「建て替え」ではなく、ライフステージに合わせて「リフォーム」するのです。「土建屋」的発想、「新興国」的発想をそぎ落とし、我が日本社会が置かれている状況を考えれば、答は自ずと明らかです。極度に進んだ少子高齢化社会を世界に先駆けて経験しつつある日本は、今後は「世界最先端の技術力」と得意の「安心・安全の運用力」を活かして世界で稼いでいくしか、急激な衰退を避けるすべはありません。幸い世界は、伝統とハイテクが融合する国・ニッポンの首都における一大イベントに大いに注目してくれるでしょう。しかもオリンピックに続けて開催されるパラリンピックにより、東京は障碍者にも暮らしやすい都市なのか、確実に問われます。
ならば東京五輪を、世界に向けての「最先端技術」と「ヒトに優しい社会インフラ」のショーケースとして活用すべく、そして五輪後も実際に使えるように、徹底的にバリアフリー化してしまうことです。東京五輪(特にパラリンピック)のために日本各地と世界中から訪れる選手・その家族、老若の観光客が東京で体験したバリアフリー施設や運用体制(これこそ「おもてなし」)に感激し、帰ってから地元でも整備したがるようにするのです。そうすれば日本からの技術指導や社会インフラ輸出にもつながる可能性があります。また、観光客が再びニッポンを訪れてくれることも大いに期待できます。
そのために必要なものは、公共設備の手すりや歩道の点字ブロックなど旧来のものだけではありません。車椅子でも気軽に移動できる交通環境であり、お年寄りがぶらぶら歩き回れるようにするための(夏でも涼しい)休憩場所や分かりやすい案内板であり、そして迷っている人がいれば誰もが気軽に声を掛けて道案内する習慣作り、そのための教育です。技術的には、初めての人でも迷わないハイテクのコンシュルジェ的情報案内方法(もちろん多国語対応)、迷子防止システムであり、犯罪・テロ防止の体制です。公共交通網やタクシー、多くの商業施設でもっとまともに英語が通じるようにする、もしくはスマホで使える多国語の翻訳システムを普及させることも必要です。
こうしたソフト的(人的、ソフトウェア的)な仕組み作りにこそ公共予算の大部分を投入し、後々不要になる巨大なハコモノに投じる無駄金をその分減らして欲しいものです(もちろん、後々も本当に人が集まり活用できる施設であれば、妥当な公共予算を投入してより使いやすくすることは必要でしょう)。
PS なお、誤解して欲しくないのですが、小生は東京オリンピック開催自体には賛成です。開催が決まった日にはやはり歓喜の声を上げました。しかし、だからこそ、後の世代が「止めときゃよかったね」とつぶやかなくても済むようにすべきと考える次第です。
東京五輪の施設整備は4500億円を超える額に上るといわれています。自民党が「国土強靭化」という看板を掲げて公共事業の復活を宣言したところに、ちょうどタイミングよくオリンピック誘致が決定したものですから、10年間で200兆円ともいわれる国土強靭化計画の核になる一大イベントとして、今後は扱われていくのではないかと思われます。
最近の五輪開催国である中国、これからやろうとしているブラジルやトルコなどの新興国では、人口も増えている途上ですから、巨大なハコモノを建てて高速道路等の整備にいそしむのは合理的です。いずれにせよ必要となる都市インフラを整備するためのきっかけに過ぎず、そのあとで十分な活用を見込めます。前回1964年の東京がまさにそんなタイミングでした。しかしすでに成熟した都市となった東京、しかも日本国全体として少子高齢化が進む中で、新興国と同じようにすることは馬鹿げています。近所の若い夫婦が何組も家を新築したからといって、老夫婦が今さら大きな借金をして全面的に家を建て替えるようなものです。
主な懸念点は2つです。旧来の土建屋的発想が強い人たちが中心になって整備していく結果、あまりにハード志向すなわち「ハコモノ」に偏った整備事業になり過ぎて、ソフト面がなおざりにされないかということが一つ。そして社会が大いに高齢化してしかも人口縮小が始まっているにもかかわらず、将来の身の丈に合わない無駄なサイズのハコモノが続々と作られやしないか、ということがもう一つです。長野県/市が直面した、後々生じる巨額メンテナンスコストを考えると、決して迷いこんではいけない誘惑のとば口に、我々は立っているのです。
ではどうすればいいのか。先の老夫婦の例え話で云えば、「建て替え」ではなく、ライフステージに合わせて「リフォーム」するのです。「土建屋」的発想、「新興国」的発想をそぎ落とし、我が日本社会が置かれている状況を考えれば、答は自ずと明らかです。極度に進んだ少子高齢化社会を世界に先駆けて経験しつつある日本は、今後は「世界最先端の技術力」と得意の「安心・安全の運用力」を活かして世界で稼いでいくしか、急激な衰退を避けるすべはありません。幸い世界は、伝統とハイテクが融合する国・ニッポンの首都における一大イベントに大いに注目してくれるでしょう。しかもオリンピックに続けて開催されるパラリンピックにより、東京は障碍者にも暮らしやすい都市なのか、確実に問われます。
ならば東京五輪を、世界に向けての「最先端技術」と「ヒトに優しい社会インフラ」のショーケースとして活用すべく、そして五輪後も実際に使えるように、徹底的にバリアフリー化してしまうことです。東京五輪(特にパラリンピック)のために日本各地と世界中から訪れる選手・その家族、老若の観光客が東京で体験したバリアフリー施設や運用体制(これこそ「おもてなし」)に感激し、帰ってから地元でも整備したがるようにするのです。そうすれば日本からの技術指導や社会インフラ輸出にもつながる可能性があります。また、観光客が再びニッポンを訪れてくれることも大いに期待できます。
そのために必要なものは、公共設備の手すりや歩道の点字ブロックなど旧来のものだけではありません。車椅子でも気軽に移動できる交通環境であり、お年寄りがぶらぶら歩き回れるようにするための(夏でも涼しい)休憩場所や分かりやすい案内板であり、そして迷っている人がいれば誰もが気軽に声を掛けて道案内する習慣作り、そのための教育です。技術的には、初めての人でも迷わないハイテクのコンシュルジェ的情報案内方法(もちろん多国語対応)、迷子防止システムであり、犯罪・テロ防止の体制です。公共交通網やタクシー、多くの商業施設でもっとまともに英語が通じるようにする、もしくはスマホで使える多国語の翻訳システムを普及させることも必要です。
こうしたソフト的(人的、ソフトウェア的)な仕組み作りにこそ公共予算の大部分を投入し、後々不要になる巨大なハコモノに投じる無駄金をその分減らして欲しいものです(もちろん、後々も本当に人が集まり活用できる施設であれば、妥当な公共予算を投入してより使いやすくすることは必要でしょう)。
PS なお、誤解して欲しくないのですが、小生は東京オリンピック開催自体には賛成です。開催が決まった日にはやはり歓喜の声を上げました。しかし、だからこそ、後の世代が「止めときゃよかったね」とつぶやかなくても済むようにすべきと考える次第です。