【MotoGP】マルケスとロッシ、新旧天才の隣に「無二のパートナー」あり
2013年、MotoGP参戦初年度にチャンピオンを獲得した20歳のマルク・マルケス(レプソル・ホンダ)は、今季全18戦中16戦で表彰台に上がった。一方、バレンティーノ・ロッシ(ヤマハ・ファクトリー)も2000年に21歳で最高峰クラスへデビューしたが(当時はナストロアズーロ・ホンダ)、その年の成績は全16戦中10回の表彰台獲得、という内容だった。ランキングは2位で終えている。
後年になってロッシは、「最初からチャンピオンを狙うつもりで挑んでいればデビューイヤーでの王座獲得はけっして不可能ではなかった」と、このシーズンを振り返り、「1年目は学習しようという姿勢で臨んだ戦略は失敗だった」とその後何度も公言している。
たとえば、彼の自叙伝(『バレンティーノ・ロッシ自叙伝』ウィック・ビジュアル・ビューロウ/西村章・訳)にこんな一節がある。
<2000年シーズン、僕たちはとてつもなく大きな過ちを犯してしまった。開幕前に、自分たちに可能性があると思っていなかったのだ。タイトルは手が届かないと考えていた。(中略)ジェレミー(・バージェス:ロッシのチーフメカニック)と一緒に仕事をしたのもその年が最初だった。僕は21歳で、僕もジェレミーもデビューシーズンにタイトルを獲得することなどとても不可能だと決めてかかっていたのだが、シーズンが終わるころにはそう思ったことを悔やんでいた。>
だからこそ、ロッシとバージェスは、ホンダからヤマハへ電撃的な移籍をした2004年に最初からチャンピオンを獲得するつもりでシーズンに臨んだのだという。上掲の自叙伝には、その移籍に際するエピソードとして、こんな一節も記されている。
「まずバイクをちゃんと作っていこうよ。7戦か8戦もすれば、きっとトップ集団で争えるようになるさ」
そう話すロッシに対して、バージェスは「私たちなら、今すぐにでも勝てる」と断言する。
<「いいかね。2000年に犯したのと同じ間違いを繰り返すわけにはいかんのだよ」ジェレミーは続けた。「あの年のことを、覚えているだろう?」
「もちろん、忘れるわけがないさ」僕は、やや気色ばんで答えた。
「なら、二度と同じ轍を踏んではいかん」>
向かうところ敵なしのホンダから、3位表彰台を年に1回獲るのがやっと、という状態のヤマハへ移籍したロッシは、初戦の南アフリカGPで劇的な優勝を飾る。そして、シーズン全体で8勝を挙げ、開幕前にバージェスと誓い合ったとおり、移籍初年度の年間総合優勝を達成した。
自分自身にそのような経験があるだけに、ロッシは今シーズンのマルケスに対して「初年度からチャンピオンを狙いにいこうとしているところがいい」と、何度もその姿勢を絶賛した。
余談になるが、選手がチームを移る際にチーフメカニックを帯同するのは、近年でこそ比較的よく見られる光景だが、これはロッシがバージェスを連れてホンダからヤマハへ移籍したことが契機になって他の選手にも広まっていった方法だ。バージェスは、ワイン・ガードナーやミック・ドゥーハンといった歴代チャンピオンを担当してきた人物で、その名伯楽ぶりに敬意を表したロッシが、2000年に最高峰へステップアップする際、三顧の礼を尽くして自陣営に招き入れたという経緯がある。
それ以来、ロッシは後年にヤマハからドゥカティへ移籍した際も、また、2013年にドゥカティからヤマハへ復帰した際にも、バージェス以下の気心の知れたメカニックたちを常に伴って、彼らとともにチームを渡り歩いてきた。
マルケスについてもそれは同様だ。2013年に最高峰クラスへ昇格してレプソル・ホンダ・チームに所属するにあたり、チーフメカニックにはMoto2時代のサンティ・エルナンデスを指名した。チーフメカニックは、選手の声を吸い上げてマシンのセットアップを煮詰めてゆく陣頭指揮を執り、レース戦略でも胆となる役割だけに、自分のことを最もよく理解してくれる人物にその職を任せたいと思うのは、選手にして見れば当然の心理だろう。
選手とチーフメカニックは、強烈な信頼関係を媒介として結びついている。
たとえば、第16戦オーストラリアGPでの出来事は、この両者の関係性を図らずも示す好例だった。このレースでマルケス陣営はピットインの周回数を間違えて失格処分を受け、少なくともチャンピオンに王手をかけることができた一戦をノーポイントで落としてしまった。
だが、マルケスはレース後の囲み会見やその後の取材でも「皆で計画を立ててプランを練った。チーム全体の責任だから、誰かひとりを責めるわけにはいかない」と話し、いっさいエルナンデスを責めなかった。
実際には、ピットに戻って失格事由を知らされた直後のマルケスは胸部を保護するプロテクターを椅子に叩きつけて憤然とその場を去り、後に残されたエルナンデスはうつむき加減でただ茫然としていた。そのときの様子から推測すれば、すくなくともエルナンデス自身は自分を責め続けていたにちがいない。
後日、エルナンデスが明かしたところによれば、マルケスがピットを去ったしばらく後に謝罪に行ったエルナンデスをマルケスは抱きしめ、僕たちはチームじゃないか、と語りかけたという。
「ムジェロで僕が転倒したときは、助けてくれただろ。転倒は、全員の転倒。失敗は、皆の失敗さ。今回のことを教訓にし、もう忘れて次のレースに集中しよう」
マルケス自身も後日、「次の日本GPが連戦で翌週に迫っていたので、レースに集中するためには慌ただしいスケジュールが逆にいい方向に作用した」と振り返っている。
最終戦バレンシアでマルケスが3位チェッカーフラッグを受けてチャンピオンが決定した瞬間、エルナンデスはピットレーンのサインボードエリアでモニター前のテーブルに突っ伏した。そして、しばらく顔を上げることができずにいた。
選手とチーフメカニックの紐帯(ちゅうたい)は、予想外のアクシデントを経てチャンピオンを獲得したことにより、さらに強固なものになっただろう。
ところで、この最終戦では、ロッシとバージェスが長年のコンビに終止符を打つこともレースウィークの大きな話題になっていた。
34歳のロッシは、袂(たもと)を分かつに至った理由について「今のチームやジェレミーの仕事の進め方に対して、とくに何か問題や懸念、失望を感じていたわけではない。でも、自分の気持ちの奥にはこれまでと違う取り組み方をしたいという願望があり、今こそ、それをやるべきだと思った」と説明をした。
一方、60歳のバージェスが語る話には、現在のロッシが抱える懊悩(おうのう)や迷いをすべて受けいれ、咀嚼(そしゃく)しているような印象もあった。
「多くの場合、トップクラスのスポーツマンは現役晩年にキャディやコーチを変えようとする。彼らはそうすることによって、問題を解決しようとするのだろう。今回のことも、バレンティーノがトップに戻って現役時代を延ばし、高い水準で戦える状態であろうとする行為の一環なのだと思う。
残念ではあるが、何らかの変化が必要だった、ということだろう。今回のことで彼の裡(うち)なる闘志がふたたび燃え上がるのなら、これは正解だったということだ。
バレンティーノとの14年間で、80勝を挙げることができた。平均で年間5勝以上だから、自分でもいい仕事ができたと思う。そのすべてが、いい思い出だ」
マルケスとエルナンデスは、今年6勝を挙げた。ロッシとバージェスが達成した80勝という数字まで、彼らはあと何年かけて到達するのだろう。
西村章●取材・文 text by Nishimura Akira