提供:週刊実話

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 丸山氏は、本誌5/24号のインタビューの中で「橋下市長と石原都知事(当時)が一緒になるわけがない」と言っていた。その理由は「橋下は利にさとい男ではあるが、それでも人間を観る眼力が多少なりともあると評価していたからだ」という。

 これで、維新は終わりですよ、はっきり言って。まったくバカなことをやったなあ、というのが私の印象。仮に人気が出たとしても“値打ち”が下がったということです。
 これは単なるウワサ話で真偽はわからないけど、石原さんがスポンサーになったという可能性はあるかな。石原さんは次の一手が出せずに行き詰まっていたし、維新はお金がなくて候補者の擁立もままならないという状況だった。

 前回、橋下のことを経験主義者だと言ったけど、よく考えてみると、この合流も実は不思議ではなかった。橋下は基本的に哲学や思想にあまり興味がなく、自分の経験が全てだから、他から縛られることが少ない。従って重みはないが、良く言えば、身動きが自由。その代わり、一貫性のある行動がとれないんだよ。そして、周りから見て矛盾のある行動でも、本人の中では思想や哲学と無縁なだけに矛盾とは感じないんだね。その場その場で良いと思ったように動く。それが、石原さんと行動を共にするようなところまで来てしまった。でも、それにしても焦りが見えるな。
 橋下氏は、最終的には首相の座を狙っているのかもしれない。石原氏との合流もそのプロセスか。

 橋下はよく「白紙委任」という言葉を使う。大阪府知事のときも大阪市長のときも、選挙に勝ったときに「白紙委任されたんだから」と。だから何をやってもいいんだという理屈だろうけど、そこは勘違いしている。白紙委任というのは独裁につながっていくんだ。選挙で選ばれるということと、何をやっても許されるということは、中身は全然違いますよ。有権者は「橋下さんに何かをやってほしい」という漠然とした期待はあるけども、「何でもやってください」というわけではない。
 それから、橋下も国旗掲揚とか国歌斉唱を強制しているけど、僕の見る限り愛国心とはまったく無縁のところからの欲求です。彼は愛国心などではなくて、人をコントロールすることの必要性を強く意識していると思える。思想的に「君が代」を日本の国歌として、歴史的にどう位置づけるかというような話ではなく、府や市の職員をどう統制するかという観点から、それらを強制しようとしている。

 石原さんから誘われれば、そこにスポっと入ってしまうのも思想、哲学の部屋が空っぽで、何でも入る袋みたいだからだ。
 しかし、本当なら“空”の部屋を石原さんで埋めるのではなく、自分なりの花で飾る努力をしてほしかった。そんなわけで、結果としては、橋下は地雷にくっ付いたようなものです。