元受刑者が古びた護送車で見たものとは…(ホホ/PIXTA)※写真はイメージ

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怪談師・怪談作家として全国を歩き、不気味で不思議な奇談を蒐集してきた正木信太郎氏。

その正木氏が、実際に収監を経験した人々や刑務官を自ら探し出し、対話を重ねて聞き出した“塀の中の実話怪談”をまとめたのが、書籍『刑務所怪談 刑務所で起きた身の毛がよだつ30の怪異』(彩図社)だ。

舞台となる施設や体験者の人物像はプライバシーに配慮してぼかされているが、語られる出来事の根幹は、確かな取材に基づいた紛れもない事実だという。

本連載では、同書に収められた30編の中から、選りすぐりの怪異を紹介していく。

第1回は、最近出所したばかりという、元受刑者の山下さんが語った、拘置所から刑務所へと移送される護送車の中での出来事。狭い車内に乗り合わせた男たちは、次々と自らの犯した罪を語り始めたが――。

※この記事は正木信太郎氏の書籍『刑務所怪談』(彩図社)より一部抜粋・構成。

「人の気配のない車内、突然振り向いた男」

車内にはディーゼルエンジンの低い音だけが響き、その振動が骨の芯まで染み込んでくる。

金属格子の軋(きし)み。カーテンの隙間を抜ける風切り音。だが人の気配を示す音――咳払いも、衣擦れも、呼吸音さえも――何もない。

バスが高速道路に入り、タイヤがアスファルトの継ぎ目を踏む規則的な振動だけが続き始めた頃だ。不意に、斜め前の席の男が身体を捻(ねじ)って振り向いた。

50代後半か、あるいは60代か。頬骨が浮き出るほど痩せこけている。サイズの合わないダボついた作業着を着て、首元からは洗濯を繰り返して黄ばんだシャツが覗く。眼窩(がんか※)は深く落ち窪み、その奥の瞳は井戸の底のように光を吸い込む。

※眼球が入っている頭蓋骨のくぼみ

「……兄ちゃん、どこ行きだ?」

乾いた砂を擦り合わせたような、掠(かす)れた声だった。

同じ車に乗っているのだから、行き先は同じはずだ。それでも山下さんは反射的に前方へ視線を向けた。だが監視窓の向こうの刑務官たちは、石のように動かない。

唇だけを動かし、極力音を立てずに応じた。

「……N刑務所です」

男はヒヒ、と肺から空気が漏れるような音を立てた。

「俺もだ。まあ、俺は2度目だけどな。……兄ちゃん、Nってのは、昔で言うとなんて名前だったかね」

黙っていると、男は気にする様子もなく語り出した。

「腹が減ってたんだよ。配給の列に並んでも、薄い粥(かゆ)しか回ってこねえ。闇市に行っても、芋ひとつ買う金もなくてよ」

配給。闇市。

「農家の蔵に入ったんだ。米がありゃ御の字だと思ってなぁ。でも、運が悪かった。逃げようとしたら、ガチャがサーベル鳴らして追いかけてきやがって、その音で足が竦(すく)んじまったんだ」

「ガチャ?」

「巡査のこったよ。サーベルの音からついた名だ。おまわりなんて呼び方は性に合わねぇ」

男はひとしきり喋ると、肺の底から空気を絞り出すような溜息をついた。それきり、首の力が抜けたようにガクン、と前へ垂れ下がる。顎が胸に打ち付けられ、男は動かなくなった。

「バブルの波に乗らねえ馬鹿は…」

その沈黙を埋めるように、通路を挟んで隣の席の男が口を動かした。

派手な紫色の開襟シャツ、オールバックに固めた髪、40代半ばの男だ。脂ぎった額には玉のような汗が浮き、きついポマードとオーデコロンの匂いが鼻をつく。手首には太い金時計でも嵌めていたような、分厚い日焼けの境目だけが残っている。

「くだらねえ。芋ひとつでムショ行きかよ」

太い指で膝を苛立たしげに打ちながら、続けた。

「俺はそんなショボいヤマじゃねえ。抗争だよ、抗争。シマの地上げの邪魔する店に、ダンプで突っ込んで潰してやったんだ。あの店一軒退けば、億の金が動くって話だったんだ。バブルの波に乗らねえ馬鹿は踏み潰すしかねえだろ?」

男は身を乗り出してくる。整髪料の匂いが鼻に迫り、山下さんは反射的に肩を引いた。

「親分にショルダーフォン(※)で報告しようとしたら、パクられちまった。参ったぜ、赤プリ(※※)で女と約束してたのによ。……なあ、あの女、まだそこにいるかな」

※車載・携帯兼用型の自動車電話。車内で使えるほか、肩から下げて持ち運びできる。1980年代半ばから1990年代初頭にかけ使われた。

※※赤坂プリンスホテル(東京都港区赤坂にかつて存在。2011年廃業)の愛称

男の口が、唐突に止まった。不機嫌そうに正面を向き、背筋を無理に伸ばす。鉄の仮面を被ったような横顔で、固まる。

外では高速道路の継ぎ目を踏む音だけが規則的に続く。だが車内には、生きた人間の息遣いがひとつもない。

「ダイヤルQ2の請求が親にバレて…」

その硬直と同時に、3人目の男が呟き始めた。

前の列の窓際に座る、20代後半の男。黒縁の眼鏡をかけ、神経質そうに指先で自分の皮膚を掻きむしる。色白で線が細く、全体的に薄い印象の風貌だ。

「僕は……そんな野蛮なことじゃない」

ボソボソと独り言のように語り出した。

「死にたかったんです。ひとりじゃ怖いから、ネットで仲間を募って、練炭で……でも、僕だけ生き残って、自殺ほう助だって言われた。中に入ってからも、結局、同じことしちゃったんですけどね」

男は眼鏡の位置を直そうとするが、手錠のせいでうまくいかず、苛立たしげに頭を揺らした。

「ダイヤルQ2(※)の請求が親にバレて、もう居場所がなかったんです。iモード(※※)の掲示板で集まったみんな……ちゃんと成仏できたかな」

※NTTが1989年~2014年に提供していた電話による情報料徴収代行サービス。男女を電話で引き合わせる「ツーショットダイヤル」や伝言ダイヤルといったアダルト・出会い系のサービスが人気を集め、子どもによる無断利用や高額請求が社会問題となった。

※※1999年にNTTドコモが開始した、携帯電話(ガラケー)からインターネットやメールを利用できるようにした世界初のIP接続サービス。2026年3月をもってサービス停止。

男は独り言を終えると、急に窓のカーテンの隙間へ視線を投げた。格子の影が、カーテンの布地に黒い縞模様を落とす。そこから一歩も意識を戻さず、ただひたすら指先で自分の手の甲をなぞり続ける。声をかけても届かない。絶望の底に沈み込んだような、他人を拒絶する背中だった。

“返信を待ち続ける”今風の若者

最後に、真横に座る若い男が、気だるげに口を動かした。

灰色のパーカー、明るく染めた髪。どこか他人事のような虚ろな目をした、今風の若者だ。

「俺は、バイトっすよ。アプリで高額・即日・ホワイトって案件に応募したら、指示役から脅されて、強盗やらされたんす」

山下さんは、ようやく話の通じる相手に、わずかな安堵を覚えた。

「運が悪かったな」

若者は焦点の合わない目でニタニタと口元を歪めた。

「ホントっすよ。でも、まだ次の指示が来てないんすよね」

手錠をかけられた両手を、スマホを操作するように親指でなぞり続けていた。手の中には何もない。

「電波、ここ入らないっすよね。指示役、怒ってるかな。次の案件、どこ行けばいいか、まだ聞いてないんで」

返す言葉が見つからなかった。スマホは収監時に没収される。若者の手の中には、最初から何もない。

若者はそれきり、空の手のひらを親指でなぞりながら、ただ返信を待ち続けていた。呼吸による肩の上下さえ消え、ただの物体としてそこに鎮座する。

車内に、鼓膜を圧迫するような重苦しい沈黙が降りた。

4人の背中は、もはや生物のそれには見えない。最初からそこにあった備品のように、ただ前だけを見つめる。わずかに動く指先でさえ、意思の宿らない機械の部品のようだ。

自分の呼吸音だけが車内に響く。乗り込んだ時に鼻をついたあの臭気が、いつの間にか消えていた。代わりに、湿った土のような、古い布が朽ちるような、言葉にならない臭いが鼻の奥に張り付いている。

カーテンの隙間から差し込む白い光が、格子の影を床に落とす。その縞模様が4人の背中を横切るたび、彼らの輪郭が揺らいだ。

「こいつも、もう限界だろうな」

やがて、バスの振動が変化した。砂利を踏む音が車体の底から響いてくる。窓の外に、刑務所の高いコンクリート塀が現れた。

バスが停車し、エンジンが止まる。仕切りの向こうで刑務官が立ち上がり、野太い声が轟(とどろ)いた。

「到着だ。降りろ」

山下さんは立ち上がり、出口へ足を向けた。背後に4人の視線を感じる。手錠をかけられた両手が、ぶらりと前に垂れる。

ふと、後ろを振り返った。

誰も、いない。

さっきまで4人が座っていたシートは無人で、擦り切れた布地が古ぼけた匂いを放つ。隠れる場所などない。格子付きの窓も、固定されたベンチシートも、すべてが剥き出しだ。

だが車内には、人がぎゅうぎゅうに詰まったような圧迫感だけが、まだ残っている。

「おい、早くしろ」

外から促され、慌(あわ)ててステップを下りた。コンクリートの地面に立つと、年配の刑務官が手錠の点検に近づいてきた。堪えきれず、声を絞り出した。

「あの、他の4人は降りないんですか?」

年配の刑務官は、怪訝(けげん)な顔で山下さんを眺めた。

「4人? 何を寝ぼけてるんだ」

書類に目を落とし、事務的に告げた。

「今日の移送は、お前ひとりだぞ。貸切だ」

言葉を失い、バスを仰いだ。

古びた中型バスは、西日を浴びて黒々とした影を落とす。クリーム地に青いラインの塗装が所々剥がれ、その下からさらに古い塗装――濃紺や、もっと淡い色――が覗く。

何度も塗り替えられ、何十年も使われ続けてきた車体だ。スモークガラスの奥に、人の気配がぎゅうぎゅうに詰まったような圧迫感がある。姿は見えない。だが、確かにそこにいる。

年配の刑務官は、バスのボディを労うようにポンと叩くと、独り言のように漏らした。

「……こいつも、もう限界だろうな。走り過ぎた」

刑務官の手が、剥がれた塗装をなぞる。その下には、もっと古い層が何層にも重なって眠っている。

「……俺は霊感なんてないし、幻覚を見るような薬もやってませんよ」

パチンコ店の裏路地で、山下さんは足元の吸い殻を踏み消した。