賢い社長はあえて60歳開始を選ぶ…年金が“24%減額”でも「繰上げ受給」が合理的といえるワケ【税理士が解説】
年金の受給開始時期は原則65歳ですが、60歳~75歳のあいだで前倒しや後ろ倒しを選択することで受給額が変動します。一般的に「繰り下げて受給額を増やすほうが有利」と考えられがちですが、税金や社会保険料の負担、健康寿命、マクロ経済スライドによる実質価値の目減りなどを考慮すると、必ずしも合理的とはいえません。本記事では、税理士法人グランサーズ共同代表の黒瀧泰介氏が、「繰上げ受給」が有利になる理由と、事前におさえておくべき注意点について解説します。
年金受給は「60歳~75歳」で選べる…増減率の仕組み
日本の公的年金制度は、「国民年金」と「厚生年金」の2階建て構造となっており、会社経営者や会社員はどちらも受給できます。受給開始年齢は原則65歳ですが、60歳~75歳で受給開始時期を自由に選択できる仕組みが設けられています。
このうち、60歳~65歳になるまでのあいだに前倒しで受け取ることを「繰上げ受給」と呼びます。1ヵ月早めるごとに0.4%減額され、最短の60歳から受給した場合は5年間早まるため、本来もらえる額から24%減額された76%の支給となります。
逆に65歳~75歳までのあいだに遅らせて受け取ることを「繰下げ受給」と呼びます。1ヵ月遅らせるごとに0.7%増額され、最大となる75歳まで繰り下げた場合は84%増額されます。
なお、一度受給を開始して決定された増減率は生涯変わりません。したがって、額面だけをみれば繰下げ受給のほうが有利に思えますが、実務上の観点からは必ずしもそうとは言い切れないのです。
受給額が減っても「繰上げ受給」のほうが合理的といえる3つの理由
繰上げ受給が有効な戦略である理由は、下記の3つです。
1.健康寿命と損益分岐点の関係
厚生労働省のデータによれば、日本人の平均寿命は男性が約81歳、女性が約87歳ですが、介護を必要とせず自立して生活できる「健康寿命」は男性が約73歳、女性が約75歳となっています。
年金受給額を増やすために70歳や75歳まで受給を遅らせたとしても、受け取り始めた時点で身体が思うように動かなければ、旅行や趣味に資金を活用できる期間は短くなります。
また、損益分岐点にも注意が必要です。60歳から受給した場合と65歳から受給した場合、受給総額が同じになるタイミングはおよそ80歳です。仮に70歳から受給を開始した場合は81歳以降、75歳から開始した場合は86歳以降になって初めて、65歳開始の受給総額を上回ることになります。
長く生きれば最終的には遅く受け取ったほうが得になりますが、元気に活動できる60代のうちにキャッシュを受け取り、生活の質を高めるために活用することは合理的な判断といえます。
2.インフレとマクロ経済スライドを考慮
現在、日本は著しいインフレ進行で、現金の相対的な価値は目減りし続けています。公的年金には物価や賃金の変動に合わせて支給額が改定される仕組みがあるものの、「マクロ経済スライド」という制度により、少子高齢社会における現役世代の負担を抑えるため、物価の上昇分からスライド調整率が差し引かれます。
つまり、年金の受給開始を遅らせて額面上の金額を増やしたとしても、激しいインフレが進行していれば、実質的な価値は期待ほど増えていない可能性が高いのです。そうであれば、早期に現金として受け取り、自ら株式・投資信託で長期運用に回すことで、減額分を補って余りあるリターンを得るアプローチが有効となります。
3.将来的にさらなる制度変更の可能性
日本の年金制度は、かつては厚生年金の支給開始年齢が55歳でした。そこから、段階的に65歳へと引き上げられ、給付水準も抑制されてきた歴史があります。
将来的に支給開始年齢がさらに引き上げられたり、給付水準が切り下げられたりする可能性も議論されています。制度が変更されてから後悔するよりも、現行のルール下で確実にキャッシュを手にするほうが、リスク管理の観点からは安全です。
長く働く経営者は要注意…繰上げ受給の「減額」リスク
繰上げ受給にはこのようにメリットがある一方、経営者が特に注意すべきデメリットも存在します。
1.「在職老齢年金」による減額措置
60歳以降も、厚生年金を受け取りながら会社員や役員として高い報酬を得る場合、年金の月額と給与をはじめとする総報酬月額相当額の合計が一定の基準額を超えると、年金の一部または全額が強制的に支給停止となります。この基準額は2025年度で51万円、2026年度には65万円に引き上げられました。
全額支給停止となれば繰上げ受給の意味がなくなるため、自身の役員報酬の額と基準額のバランスを綿密にシミュレーションする必要があります。なお、この調整対象となるのは老齢厚生年金のみであり、老齢基礎年金は対象外です。
2.障害年金や遺族年金、寡婦年金が受け取れない可能性
繰上げ受給を開始すると、法律上「65歳に達したもの」とみなされます。これにより、受給開始後に重い障害を負っても「事後重症による障害基礎年金」を請求できなくなります。
また、65歳までは遺族年金と老齢年金の両方を受け取ることができません。さらに、国民年金の加入者である夫が亡くなった場合に妻に支給される「寡婦年金」も、妻が繰上げ受給をしていると受け取ることができません。
3.国民年金の任意加入や未納分の追納ができない
加入期間が不足しており、将来の満額受給を目指して自ら保険料を追加で納付しようと考えている場合、繰上げ受給との両立は認められません。
働き方や健康状態に合わせて、適切な選択を
年金の繰上げ受給は、単に受給額が減るというネガティブな側面だけでなく、健康なうちに資金を活用し、インフレや制度変更のリスクから資産を防衛するための有効な手段となります。
一方で、長生きするリスクに備えて一生涯の保障を最大化したい方には、原則どおりの受給や繰下げ受給が適しています。ただし、繰下げによって額面が増加しても、所得税や住民税・社会保険料の負担増により手取り額は比例して増えない点に注意が必要です。
自身の健康状態、想定される運用リターン、そして役員報酬をはじめとする収入状況を総合的に考え、最適な受給戦略をとることをおすすめします。
黒瀧 泰介
税理士法人グランサーズ共同代表/公認会計士・税理士

