NHK「豊臣兄弟!」では本能寺の変が描かれた。秀吉は対峙する毛利と和睦を結び、京へ駆け戻っていく。この和睦をめぐっては、秀吉と毛利との間に密約があったのではないかとも言われてきた。だが、2026年6月に報じられた最新研究は、“密約を否定する”史実を明らかにした。ルポライターの昼間たかしさんが和睦の実態をひも解く――。
重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■「毛利氏との和睦」で勘繰られる“密約説”

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第28回「急げ!秀吉」(7月19日放送)では、本能寺の変という凶報を聞いた秀吉が、対峙する毛利と講和を結び、東へと急ぐ姿が描かれることになる。本能寺の変から続く、秀吉の物語の名場面である。

秀吉は、既に安国寺恵瓊を通して交渉を行っていたが、凶報に接して条件を緩和、備中・美作・伯耆の割譲と備中高松城主・清水宗治の切腹によって毛利氏と和睦を結んだ。家臣となって日が浅いものの、忠義の士であった宗治の命は惜しまれたが、彼は城兵が助命されるならばと、兄弟と共に小舟を漕ぎ出し切腹した。辞世の「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」は後々も語り継がれ、今も備中高松城本丸跡には首塚が残る……。

と、まあ戦国屈指の名シーンは誰もが知っている。

それでも、やはり感じるのは毛利氏のどうしようもなさである。史料によりさまざまな説があるが、秀吉軍はおおむね3万人。対する毛利氏は、備中高松城に5000人あまり。そして、吉川元春・小早川隆景の援軍が5万人である。

これで戦わずして、和睦。しかも家臣の命も土地まで差し出しているのだから、どんなに言いつくろっても毛利氏がボンクラに見えてしまう。結果、本能寺の変の原因として、秀吉は毛利氏となにがしかの密約を結んでいたのではないかという俗説まで唱えられるほどである。

■吉川元春の書状が明らかにした「密約説の否定」

なぜ、毛利氏は援軍を送り込みながらも、秀吉と和睦を結びやすやすと見逃してしまったのか。近年になり、毛利氏が軍勢は揃えたものの、完全に詰んでいたことが明らかになりつつある。

吉川元春像(早稲田大学図書館蔵)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

中でも最近もっとも注目されたのが、山口県の岩国徴古館に寄贈された吉川元春の書状だ。これは6月に「読売新聞」などでも取り上げられて話題になっている。この書状は、岩国吉川家・家老五家のひとつである今田家から寄贈されたもの。各報道によれば、この書状を精査した東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は、毛利方の戦況の厳しさを認識していたことを示す史料と評価。各社は従来の“密約説”を否定する(矛盾する)内容として報じている。その書状は以下のようなものだ。

読売新聞「秀吉の備中高松城『水攻め』、吉川元春の書状に毛利の苦境克明に…『本能寺の変』当日の出来事記す」2026年6月2日
朝日新聞「秀吉の備中高松城水攻め、相手方の書状初確認 俗説を否定する内容」2026年6月2日
47NEWS 共同通信「本能寺当日も決戦の構え 毛利氏側書状、密約なしか」2026年6月2日

此表之儀者、廿一日至岩崎打上候対陣之趣は具々令申候、
高松之儀、水を仕懸候而下口をつき塞ぎ候て責申候条、
何共自此方之加勢も城内競二不成様候而、
日々無心元計候、
兎角於于今は安否之一戦申付候て不叶趣候条、
其相談も於旨儀者定而中書兵部具可被申候、
さそく自其表可御心元と存計候、何■重々可申候、恐々謹言

六月二日 元春(花押)

「経高 参 申給へ」

(枝元咲「資料紹介:岩国徴古館所蔵『今田家文書』吉川元春書状について」『岩国徴古館調査報告書』第4号)


筆者訳:
こちらの(備中高松での)戦況については、去る5月21日に岩崎山(高松城周辺の山)まで進出して(羽柴秀吉軍と)対陣している様子を、すでに詳しくお伝えしている通りである。

さて、高松城の件だが、敵(秀吉軍)は水攻めを仕掛けてきており、川の下流(排水口)を塞いで攻めてきている。そのため、こちらからいくら援軍(加勢)を送り込もうとしても、城内の士気を高めたり競い合わせたりすることが全くできない状態で、日々不安で(心細くて)たまらない。

とにかく今となっては、城の安否(存亡)を賭けて一か八かの一戦を交えようとしても、それすら叶わない(戦いようがない)状況である。

この件に関する今後の相談や方針(和睦交渉など)については、詳しく中書(小早川隆景)や兵部(福原広俊など)からそちらへお伝えすることになるだろう。

そちら(今田経高が守る東部戦線など)の戦況についても、すぐに様子が知りたいと気にかけている。いずれにせよ、詳細については重ね重ね連絡する。恐々謹言。

6月2日 吉川元春(花押)

今田経高(上野介)殿 へお渡しください

■元春の本音“毎日、気が気でない”

経高は、吉川家14代当主・興経の叔父である経世の次男。元春がもっとも信を置いた重臣のひとりである。その相手に宛てて、元春は本音を漏らしている。「日々無心元計候」つまり、毎日、気が気でない、と。

天下に聞こえた猛将である。厳島で勝利をもぎ取り、山陰の尼子氏を滅ぼした歴戦の将だ。その元春が、援軍を送り込んでも城内の士気ひとつ上げられない、一か八かの決戦すら仕掛けられない、と弱音を吐いている。しかも、それを書いているのが、よりにもよって本能寺の変が起きた、まさにその日なのだ。京の異変を知る由もなく、元春はただ目の前の高松城が沈んでいく音だけを聞いていた。これはもう負け惜しみでも謙遜でもない。手も足も出ない、という以外に言葉がない。

水攻めという奇策は、城を追い込むだけの話ではなかった。心理的に殴りつける効果まであったはずだ。

大矢野栄次「『高松城水攻め』と『羽柴秀吉の経済学』」(『比較文化年報』第21輯)によれば、堤防を築く突貫工事はわずか12日間、動員された人足は5万2920人。ここに秀吉がばらまいた金額が、米7038石36升、銭にして63万5040貫文である。

当時は銀行などない。手にした現金は、その場でさっさと使うしかない。大矢野はそう指摘している。つまり、秀吉の陣の周りには仕事にありつきたい人足や、儲け話を嗅ぎつけた商人がわらわらと集まってくる。屋台が立ち、物売りの声が響き、いつの間にか陣城の周辺には即席の「町」ができあがっていたというわけだ。

■当時は、内陸ではなく“海の域”

片や、沈みゆく城から「安否の一戦すら叶わぬ」と震える声で書状を送る元春。片や、堤の向こうでは景気よく銭が飛び交い、市が立ち、賑わいすら生まれている。同じ戦場に、これほど温度差のある二つの光景が同時に存在していた。心が折れるのも無理はない。

今、Googleマップで備中高松城を検索すると、城の南側にはただの平地が広がっているだけだ。だが、この景色を鵜呑みにしてはいけない。ここは江戸時代以降、干拓によって陸地に変えられた土地である。

戦国時代当時、この一帯はまだ海だった。正確に言えば、すでにかなり浅瀬化が進み、ところどころ陸続きになりかけてはいたものの、今の児島半島はまだ「児島」という名の通り、独立した島だったのだ。

備中高松城址(写真=Reggaeman/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

つまり高松城は、地図の上では内陸の平城に見えて、実際には海と地続きの、水運で外とつながる城だったのだ。西を流れる高梁川の河口から、今は児島湾と呼ばれる一帯まで、船でそのまま抜けられるルートが存在していたということである。備中高松城での戦いとは別に、児島周辺では、制海権をめぐって争いが続いていた。

■“楽観視”していた織田勢の侵攻

光成準治「高松城水攻め前夜の攻防と城郭・港」(『倉敷の歴史』18号、倉敷市、2008年)は、史料を精査し、その状況を追っている。これを読むと、毛利氏の「詰み」は、水攻め以外のところであらわになっていた。

光成準治は、1582年4月上旬の時点では、毛利氏が織田勢の侵攻をむしろ楽観視していたと指摘する。この段階で攻めてきているのは、しょせん羽柴軍だけだったからだ。

その余裕ぶりを物語るのが、4月9日、吉川元春・元長が山田出雲守に宛てた書状だ。「敵警固之事も船行者不相下者候条、珎儀有間敷候」。つまり「敵の水軍もこちらまで南下してきていないので、特に異変は起こらないだろう」という意味である。まるで「まだ大丈夫、様子見でいい」とでも言いたげな、拍子抜けするほど呑気な報告である。

なぜここまで余裕だったのか、理由は単純だ。この時点で、児島の東岸こそ高畠水軍の離反によって織田方に握られていたものの、村上水軍と塩飽水軍はまだ毛利方に踏みとどまっており、岡山より西の制海権は依然として毛利氏の手の中にあった。羽柴軍が陸上を侵攻しても、すぐ南の海の上ではまだこちらが優勢……元春がそう油断してしまうのも無理はない光景が広がっていたのだ。

ところが、この侵攻の数年前から既に織田勢による調略は進行していた。秀吉の侵攻によって、それは一斉に動き出す。

■水軍の裏切り、失った制海権

秀吉の侵攻と共に、まず裏切ったのが、来島村上氏であった。

これは、毛利方にとって完全に想定外の一撃だったはずだ。長年瀬戸内海を仕切ってきた村上水軍の一角が、よりにもよってこのタイミングで寝返るとは考えもしなかっただろう。

もっとも、織田方の調略がすべて計画通りに進んだわけではない。それでも結果は動かなかった。来島村上に続いて、塩飽水軍までもが離反。これで備讃海峡の制海権は、完全に織田方の手に落ちてしまう。

一勇斎国芳画「赤松之城水責之図」、東京都立中央図書館所蔵〔写真=ブレイズマン/PD-Art (PD-Japan)/Wikimedia Commons〕

しかも皮肉なのは、来島以外の村上水軍や河野水軍が、まだ毛利方として残っていたことだ。残っていたからといって、頼りになったわけではない。彼らは寝返った来島村上との戦いに引きずり込まれ、身動きが取れなくなってしまったのである。海の上に味方はいる。だが、その味方は敵と殴り合うのに手いっぱいで、高松城を助ける余力などどこにもなかった。

その影響は、陸にも及んでいた。光成は、5月に松山へ出陣していた毛利輝元自身が物資不足を訴える書状を残していることに注目する。制海権を失ったことで、備中方面への物資輸送にまで支障が出ていたのではないか、というのが光成の見立てである。

海で詰み、陸の兵站まで詰み始める。4月の「異変は起こらないだろう」という余裕は、わずか1カ月ほどで完全に裏切られたことになる。

■「和睦」以外の道がなかった

そして6月。元春は、もはや一か八かの決戦すら仕掛けられない状況に追い込まれていた。海の道は塞がれ、陸路の兵站も怪しくなり、頼みの援軍は同族同士の潰し合いに足を取られている。5万という数字の内実は、とっくに空洞化していたのだ。

そして、光成論文は、誰もが疑問に思う部分も検証をしている。水攻めされた高松城に「さっさと、船で助けにいけよ」と思わないだろうか。これは助けなかったのではない。できなかったのだ。光成が注目する5月23日の秀吉の書状には「明船被引取候由尤御才覚御心懸故、城内可失手と珍重候」とある。これは「空き船を拿捕したのは見事なことである。これで城内は完全に手詰まり」という意味。つまり、5万という軍勢を揃えてはいるが、船もろくに確保することができず、救援もおぼつかなくなっていたのだ。

こうして並べてみると、和睦という選択肢は、毛利氏にとって「選んだ」ものではなかったことがわかる。制海権を失い、輸送路を失い、決戦を仕掛ける力すら失っていた以上、残っていた道は最初から一つしかなかった。

秀吉が信長の死を隠して和睦を急いだ、その裏に何か企みがあったのではないか……そう勘繰りたくなる気持ちはわかる。だが史料が語るのは、もっと身も蓋もない現実だ。毛利氏は、謀略に嵌められたのではない。あがいても、講和以外の道が最初から残されていない窮地に、じわじわと追い込まれていただけなのである。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)