「私の名前だけ、呼ばれません…」入居者の家族で賑わう“老人ホームの日曜日のロビー”で俯く資産3億円・76歳男性。孫を“選別”した高すぎる代償【FPが解説】
多くの人が「相続対策」と聞くと、いかに税金を減らすか、いかに多くの資産を子や孫に遺すかというテクニックに目を奪われがちです。教育資金贈与や遺言書の作成など、制度を活用して完璧な対策を立てたつもりでも、遺された家族の「感情」を置き去りにした遺産分割は、高確率で身内同士の争いを引き起こすことも。本記事では、波多FP事務所の波多勇気氏が、佐伯正孝さん(仮名)の事例から「生前整理の3大原則」について解説します。※紹介する事例は、相談者より許可を得て、プライバシー保護の観点から相談者の個人情報および相談内容を一部変更して記事化しています。
事情ありげな資産3億円・老人ホーム暮らしの76歳男性
平日の午後、筆者の事務所に一本の電話が入りました。声の主は、76歳の佐伯正孝さん。元不動産会社の経営者で、現在は有料老人ホームに入居しているとのことです。
話し方は丁寧でしたが、言葉を選んでいるような重さがありました。
「相続と、今後の生活資金のことで……。いや、家族のこと、といったほうがいいかもしれません」
話しにくいことがありそうだったため、「一度こちらへお越しいただけますか。資料を拝見しながら整理しましょう」と打診すると、佐伯さんは気まずそうにいいました。
「実は、あまり遠くまで外出ができなくて。足も弱っておりますし、家族に頼むのも……少し難しいのです」
その一言で、筆者は事情をおおよそ察し、佐伯さんが入居する老人ホームを訪ねることに。
数日後、ホームのロビーに着くと、日曜日ということもあり、入居者の家族で賑わっていました。小さな花束を持った孫、車いすを押す息子、手土産を抱えた娘。職員が「〇〇様、ご家族がお見えです」「〇〇様、お孫さんですよ」と声をかけています。
その少し離れたソファに、佐伯さんは一人で座っていました。テーブルの上には、預金通帳、不動産の固定資産税通知書、証券会社の残高報告書、そして古い教育資金贈与の資料が置かれています。
「教育資金贈与」が家族に残した傷
佐伯さんの資産は、自宅マンション、賃貸アパート、預貯金、有価証券を合わせておよそ3億円。妻は5年前に亡くなり、子どもは長男と長女の2人。孫は全部で5人いました。そのなかで、佐伯さんが特別に可愛がっていたのが、長男の娘である美咲さん(仮名)です。
「美咲は、小さいころから賢い子でね。私立中学にも受かりましたし、大学もいいところへ行きました。あの子には、惜しまず出してやったんです」
佐伯さんは誇らしげに話しました。美咲さんには、塾代、私立中高の授業料、大学入学金、短期留学費用。さらに、金融機関から勧められた教育資金の一括贈与制度も使い、まとまった資金を渡していました。
この制度は、祖父母などから子や孫へ教育資金を一括で贈与する場合、一定の条件を満たせば1,500万円まで贈与税が非課税になる仕組みです。佐伯さんが利用した当時は、生前贈与と教育支援を兼ねられる制度として、金融機関でもよく案内されていました。利用が活発な制度ですが、佐伯さんの問題は、それが「家族全体の設計」ではなく、「美咲さんだけを特別扱いする仕組み」になっていたことです。
「ほかのお孫さんにも、同じように支援されましたか」
「いや、そこまではしていません。長女のところの孫たちは、地元の学校でしたし、そこまでお金もかからなかった。必要なら出すつもりでしたよ」
「実際に、出された金額はどれくらいでしょう」
確認すると、美咲さんには教育資金の一括贈与を含め、総額で2,000万円を超える支援がありました。一方、ほかの孫たちには、入学祝い、成人祝い、お年玉程度。金額差は明らかです。
「頑張る子にお金を使うのは、当然でしょう。美咲には将来がある。私は、あの子に投資したんです」
そう答える佐伯さんに、筆者は少しだけ言葉を選びました。
「税務上は、教育資金として整理できる部分があります。ただ、ご家族からは、それが“教育支援”ではなく“孫の選別”にみえてしまった可能性があります」
大切な孫を苦しめる遺言
佐伯さんの相談は、ここからが本題でした。
手書きのメモを懐から出しながら、「実は、美咲に多めに残したいんです」といいます。
メモの内容は、自宅マンションを長男へ、賃貸アパートを長女へ、そして金融資産の大部分を美咲さんへ渡すというもの。
「美咲には、昔からいってきました。お前に全部あげるからな、と」
佐伯さんは笑っているものの、その言葉は、家族間では笑い話で済まなくなっているようです。長女は、すでに父との距離を置いているとのこと。理由は明確です。自分の子どもたちは祖父からほとんど支援されなかった。それなのに、兄の娘だけが高額な教育資金を受け取り、さらに相続でも多く受け取る--。
「ほかのご家族には、このお考えを説明されていますか」「家族なんだから、わかるでしょう」
筆者は首を横に振ります。「相続では、その“わかるでしょう”が一番危険です」。
孫は、通常、親が存命であれば法定相続人にはなりません。つまり、美咲さんへ財産を直接渡したいなら、遺言などで意思表示をする必要があります。
「生前の『教育資金贈与』は贈与税の特例でしたが、遺言で亡くなったあとに財産を渡すとなると、今度は『相続税』のルールが適用されます。そして日本の税法では、子どもが健在であるにもかかわらず孫に財産を遺す場合、相続税が2割重くなる『2割加算』というルールがあるのです」
佐伯さんは「税金が重くなる……?」と怪訝な顔をされました。
「そうです。長男や長女が引き継ぐよりも、美咲さんが受け取る分だけ、税金が1.2倍になってしまう。さらに問題なのは、遺言で自由にわけられるといっても、子どもたちには遺留分という最低限の取り分があることです」
もし金融資産の大半を美咲さんに渡す内容にすれば、長女が遺留分を主張するかもしれません。その請求の矛先は、財産を受け取った美咲さんへ向かうでしょう。
「美咲さんは、人より高い税金を払わされたうえに、美咲さんを親族争いの中心に置いてしまうかもしれません」
筆者がそう伝えると、佐伯さんは表情を変えました。
「美咲が、責められるんですか」「可能性はあります。すでに教育資金で大きな差がついています。そのうえ相続でも差をつければ、ほかのご家族の不満は、美咲さんに向かいやすくなります」
佐伯さんはしばらく沈黙したあと、俯きました。
「……確かに、日曜日でも面会の名前が呼ばれないのは私だけ。それが答えなんでしょうね……」
そこで筆者は、すぐに遺言書を作るのではなく、まず3つの整理をすることを提案しました。
1.これまでの贈与の棚卸し
誰に、いつ、いくら、なんの目的で渡したのか。教育資金の一括贈与として金融機関を通したもの、都度支払った塾代や授業料、留学費、家賃補助。税務上の扱いとは別に、家族がみたときに「どれくらい差があったのか」を可視化する必要があります。
2.自身の老後資金を先に確保する
資産3億円といっても、そのすべてを相続対策に回せるわけではありません。有料老人ホームの費用、医療費、将来の介護度上昇に備えた資金、身元保証や死後事務の費用も考えておく必要があります。
「遺産の前に、まず佐伯さんご自身が最後まで困らないお金を別枠で残しましょう」
そう提案したのは、佐伯さんが子や孫に残すことばかりを考えていたからです。
3.ほかの孫たちに“遅れた公平”を作る
美咲さんへの援助とバランスを取るために、ほかの孫にも同じ金額を機械的に渡せばいいというわけではありません。年齢も進路も違えば、必要なお金も違うからです。
「平等ではなく、公平に近づけましょう。たとえば、ほかのお孫さんにも進学、資格取得、結婚、住宅取得、独立開業など、人生の節目に使える支援枠を設ける方法があります。ただし、税務上の扱いは目的や渡し方で変わりますから、税理士にも確認しながら進めるべきです」
教育資金贈与の制度を特定の孫だけに使えば、家族のなかに「選ばれた孫」と「選ばれなかった孫」を作ってしまいます。
「佐伯さんが美咲さんを大切に思うなら、美咲さんの取り分を多くする遺言ではなく、美咲さんが責められない遺言にすべきです」
佐伯さんは納得した様子で頷きました。その日初めて、佐伯さんは「自分の財産をどう渡すか」ではなく、「自分のお金が家族にどうみえていたか」を考えはじめたようです。
家族会議で語られた「選ばれなかった側」の本音
数週間後、佐伯さんは長男と長女をホームに呼びました。最初、長女は来ることを渋った様子。
「どうせまた、美咲ちゃんの話でしょう」。電話口でそういわれたそうです。結局、長男があいだに入り、ホームの面談室で家族会議が行われることに。筆者も同席し、まずは佐伯さんの資産状況と今後の生活資金、過去の贈与の整理表を説明しました。
美咲さんへの援助が2,000万円を超えていること。ほかの孫たちとの差があること。このまま金融資産の大半を美咲さんに遺贈すれば、長男・長女のあいだだけでなく、美咲さんといとこたちの関係まで悪くなる可能性があること。
説明を聞き終えた長女は、「お父さんは、うちの子たちの名前を覚えていないんじゃないかと思っていました」といいました。佐伯さんは、「そんなことはない」と、首を振ります。
「でも、美咲ちゃんの学校や留学や、成績の話は何度もしていた。うちの子が専門学校に入ったときは、『それで食べていけるのか』って」
佐伯さんは躊躇った様子で、「すまなかった。お前たちを軽くみているつもりはなかった」と返したものの、長女は、すぐには頷きませんでした。
当然でしょう。数十年分のわだかまりが、一度の謝罪で消えるわけではありません。ここで、佐伯さんと考え直した案を説明しました。
まず、佐伯さん自身の老後資金を確保する。次に、遺言書では長男と長女の取り分を明確にし、遺留分を巡る争いが起きにくい形にする。さらに、孫5人については、すでに多額の支援を受けた美咲さんを除き、相続税の2割加算に配慮のうえ、ほかの孫たちにも一定の支援枠を設ける。ただし、それは「美咲さんと同額にするための埋め合わせ」ではありません。
「祖父として、遅れてでも全員の人生を応援したい」。その趣旨を、佐伯さん自身の言葉で伝えることが目的でした。
遺言書の付言事項には、佐伯さん自身の言葉を残すことに。
「美咲に多く援助したことは、私の期待と愛情からでした。しかし、そのことでほかの孫たちやその親に寂しい思いをさせたなら、申し訳なく思っています。私の財産が、家族を争わせる原因ではなく、それぞれの人生を支えるものになることを願っています」
資産3億円の使い道を変えたあと
家族会議から2ヵ月ほど経ったころ、筆者は再び佐伯さんの入居する老人ホームを訪ねました。遺言書の内容と、今後の贈与方針を最終確認するためです。公正証書遺言を作成する前に、佐伯さん本人の意思が変わっていないか、家族への説明に無理がないかをもう一度確認する必要がありました。
「長女のところの下の子が、資格を取りたいそうです。『じいちゃん、こういうのを考えている』と、連絡をくれたんです。前の私なら、そんなものに金を出してどうするんだといっていたかもしれません」
佐伯さんは苦笑しました。
「でも、あの子にはあの子の道がありますね」
面談の終わり、ロビーでは今日も別の入居者の家族が面会に訪れていました。職員の声が響きます。「〇〇様、ご家族がお見えです」。以前の佐伯さんなら、その声を聞くと寂しそうに顔を伏せていました。けれど、その日は違いました。
「来週、長女が電話をくれるそうです。孫も横にいるかもしれません。まだ、わかりませんが」と少し照れたようにいいます。
完全に閉じていた扉が、少しだけ開いたようにみえました。
相続対策というと、多くの人は税金を減らすことを考えます。教育資金贈与、暦年贈与、生命保険、遺言書、不動産の活用。どれも大切な選択肢です。しかし、家族へのお金の渡し方を間違えると、節税に成功しても、関係性で大きな損失を抱えることがあります。
大切なのは、誰にいくら渡すかだけではありません。なぜ渡すのか。ほかの家族にはどうみえるのか。受け取った人が、あとで責められない形になっているか。そして、自分自身の老後資金を削ってまで、子や孫に渡そうとしていないか。
佐伯さんの失敗は、愛情を、お金の多寡で示しすぎたことです。しかし救いがあったとすれば、まだ自分の意思を自分の言葉で伝えられるうちに、その渡し方を見直せたことでした。お金の整理は、家族関係を完全に修復する魔法ではありませんが、こじれた感情をこれ以上悪化させないための、最後の手当てにはなります。
資産3億円をどう残すかよりも、最後に誰が面会に来てくれるのか。佐伯さんがようやく向き合ったのは、相続税の数字ではなく、その問いだったのです。
〈参考〉
国税庁「No.4510 直系尊属から教育資金の一括贈与を受けた場合の非課税」
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/zoyo/4510.htm
国税庁「No.4405 贈与税がかからない場合」
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/zoyo/4405.htm
政府広報オンライン「知っておきたい相続の基本」
https://www.gov-online.go.jp/article/202403/entry-5848.html
法務省「相続に関するルールが大きく変わります」
https://www.moj.go.jp/content/001285382.pdf
波多 勇気
波多FP事務所 代表
ファイナンシャルプランナー

