「入居者さんのため」と言って”虐待”を続ける職員…「思いやり」が「憎悪」に変わる、恐ろしき『介護ストレス』とは
2015年に厚生労働省が出した統計によれば、日本人が亡くなった場所は病院、自宅の次に、「介護施設」が多くなっている。治療に特化した病院でもなく、住み慣れた自宅でもない「介護施設」で亡くなるとはどういうことなのか。
介護アドバイザーとして活躍し、介護施設で看・介護部長も務める筆者が、終末期の入居者や家族の実例を交えながら介護施設の舞台裏を語る『生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ』(郄口光子著)より、介護施設の実態に迫っていこう。
『生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ』連載第17回
『身体拘束が入居者の“生命力”を奪っている!なぜ介護施設で“身体拘束”はなくならないのか…背後にあった介護施設の『傲慢な思想』』より続く
介護ストレスは大義名分となって虐待へ
認知症の人をはじめ年をとって理解力が衰えたお年寄りに対して、「(汚いことや危ないことを)いくら説明したってわかりゃしない。だからわからせなければいけない」と考える人がいます。
あるいは、お年寄りに「お風呂に入って気持ちよくなってほしい」「ごはんをおいしく食べてほしい」と思って言葉かけや介護方法を工夫しても、なかなかお風呂に入ってくれない、食べてくれない、ということはよくあります。
それがたび重なれば、「どうして私の気持ちをわかってくれないの」と、介護ストレスが生まれます。
そのことを他人にグチって、「みんなそうなんだから様子を見ようよ」「一緒にもう少し頑張ってみようよ」と共感してくれる人がいれば、再び介護に向き合えます。ところが共感どころか、「あなたのやり方が悪いんじゃないの」「ちゃんと介護しているの」などと言われると、「誰にもわかってもらえない」という絶望的な気持ちになり、ならば「わからせてやろう」と、「より強い言葉でなじる」「たたく、つねる、無理やりさせる」「縛る、閉じ込める、黙らせる」といった虐待行為に転換することがあります。
その最初のきっかけが身体拘束なのです。
「お年寄りのため」という大義名分の下に身体拘束を続けていると、「言うことをきかせる」→「自分の所有物のように扱う」と意識が変わっていき、さらには、「この人さえいなければ」という怒りやストレスなど、自分が抱える負の感情を、お年寄りにぶつけることで発散させることにもつながります。こうなると虐待行為はエスカレートしていきます。
これを施設介護の現場にあてはめると、職員とお年寄りが長い時間をかけて積み上げてきた人間関係を、職員自身の手で壊してしまうことになりかねません。だから、身体拘束はしてはならないのです。
カギは「目的」と「目標」を取り違えないこと
「お年寄りを転ばせない」はひとつの目標であって、目的ではありません。施設介護の本来の目的は、「その人らしい生活を最後まで守り抜く」ということです。その目的の下に、「身体拘束をしない」という目標をもち、その上で「歩き回ることが好きなおばあさんを、転んで痛い目にあわせないためにはどうするか」を話し合うのが本来のあり方です。
「なんで歩きたいんだろう?」「いつ頃の時間帯に歩いているんだろう?」
「どんな言葉かけなら、戻ってくれるかなあ?」「それは無理やり引き戻すことにはならないかなあ?」……。
職員は「お年寄りを縛らない」という具体的な目標を共有することで、前向きに話し合うことができ、そこに工夫や創造が生まれる余地があります。
介護の現場に「絶対」ということはあり得ません。
「どんなに気をつけても、人は転ぶときは転ぶ。死ぬときは死ぬ。それが生きていくことだから。そうであっても、私たちは大切な人を見守り支え合う」
この視点や考え方を、信頼関係の下に家族と共有することができる職員は、生き生きと仕事をすることができます。
『「親御さんが死にかけたとき、治療は必要ですか」…入居前に介護職員が投げかけた、家族の“覚悟”を問う質問』へ続く