『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、武田信玄と甲府市にある躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)です。

「甲斐の虎」 戦いに明け暮れた一生

「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄という人は上杉謙信と対照的で領土的関心が強く、甲斐を本拠地にしながら、信濃や駿河、三河、遠江、美濃にまで進入し、戦いに明け暮れた一生でした。

風林火山の軍旗を用い、騎馬軍団で一気呵成の勝負に出る。そんなイメージがあると思いますが、実は彼は戦わずして勝つことを目標にしていたように思います。

江戸時代にまとめられた『甲陽軍鑑』は武田氏の戦略や戦術をまとめたものです。それを読みますと、「三ツ者」と呼ばれる隠密集団に敵情を調べさせ、敵の弱点を洗い出し、内訌を誘発させるようなことを行っていたことがわかります。戦う前に敵を知ること、情報こそが勝利の近道ということを知っていたのです。

武田神社 Photo by Adobe Stock

「甲州金」と呼ばれる統一通貨

また信玄は、政治と経済を一体とした領国経営を行ったことで、戦国最強といわれる武田軍を作っていきます。父信虎を追放し、家督を継いだ後、彼は信玄堤に代表される治水工事を進めます。戦国の頃は米社会ですから、米の生産量を上げるためには、治水が重要という判断です。農民から感謝されながら、より多くの年貢を取っていくという政治です。

さらに、鉱山開発に積極的でした。よく「信玄の隠し金山」といわれますが、金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちを使って鉱脈を発見し、甲州金と呼ばれる統一通貨も作っています。

経済力があったからこそ、多くの兵を雇い、隣国に攻め入ることができたのです。

武田神社 Photo by Adobe Stock

山本勘助はじめ24人の武将

信玄は甲斐武田氏のボスとはいえ、実際に戦うのは兵士であり、現場指揮官です。武田二十四将図というものが残っています。

信玄と信玄を支えた山本勘助はじめ24人の武将が描かれていますが、どの武将も指揮官としての能力が高かったかがわかります。信玄は有能な指揮官を見つける能力と彼らの意見に耳を傾ける度量があったのだと思います。

武田神社 Photo by Adobe Stock

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」

彼が残した有名な言葉に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」というものがあります。どんなに堅固な城を築いても兵に志気がなければ、城は簡単に落ちてしまいます。逆に城がなくても、兵や民衆に結束した気持ちがあれば、敵に侵略されることはないというものです。

広大な領土を持ちながら、躑躅ヶ崎館が中心であり、城を築くことがなかった武田信玄は、いかに部下や民衆を信じることが重要かを語っているのです。

もうひとつ、彼は「甘柿も渋柿もともに役立てよ」ともいっています。これは、役に立たないと切り捨てるのではなく、何か役に立つように能力を引き出すということです。

躑躅ヶ崎館跡 Photo by Adobe Stock

家康は信玄から多くのことを学んだ

元亀3(1573)年の三方ヶ原の戦いで完膚無きまでに叩きのめされた徳川家康が、その後武田軍の用兵術を学び、武田氏が滅亡した後、家臣団を引き取り、井伊直政に与えています。武具を赤で統一し、武田の赤備えと恐れられた武田軍は井伊の赤備えとなり、家康が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いやその後の関ヶ原の戦いで、大活躍します。

武田信玄から徳川家康は多くのことを学び、天下統一をなしとげたのです。

躑躅ヶ崎館跡 Photo by Adobe Stock

【躑躅ヶ崎館】(別名・武田氏館)
武田信玄の父、信虎が永正16(1519)年に築城。信虎、信玄、勝頼と3代にわたって武田氏の本拠となる。背後に要害山城があり、平時は居館で有事は山城という使い方をしたため館の名前がある。この館と家臣団の屋敷、城下町が一体となり、甲府市の原型となった。甲府城完成後破却され、現在は信玄を祀る武田神社となっている。
住所:山梨県甲府市古府中町2611
電話:055ー252ー2609(武田神社)
※武田神社に無料駐車場有り

武田神社 Photo by Adobe Stock

■武田神社
躑躅ヶ崎館の跡地に建てられ、信玄を祭神とする。金運がよくなるという「三葉の松」や亀に似たさざれ石「亀石」、涼やかな音を響かせる「武田水琴窟」などがあり、散策が楽しい。

【武田信玄】
たけだ・しんげん。1521〜1573年。源氏の血を引く甲斐武田氏の第19代当主。父信虎を追放し、家督を継ぐ。軍馬を育成し、兵を鍛えることに長け、優秀な指揮官の存在もあって、戦国最強といわれた武田軍を作った。甲斐に加えて信濃に攻め入り、上杉謙信との5度にわたる川中島の合戦が起きる。信濃のほか駿河、遠江、三河、美濃などにも侵攻し、織田信長や徳川家康を震え上がらせた。織田軍掃討のため、西上途上で死去。その死を3年、秘匿するよう遺言した

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。