今年9月18日に中国広東省深圳市で発生した日本人学校児童の刺殺事件から約1ヶ月が経った。中国側は相変わらず、容疑者の動機を明らかにしていない。日本政府は通常よりも強く抗議しているように見えるものの、暖簾に腕押しだ。もとより報道が小さかった中国国内はもちろん、日本国内でも他のニュースの洪水のなかで事件への関心は下がっている。

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 日本側が事件の大きな要因だとみていた、ショート動画サイトの日本人学校に関するデマ動画は減ったものの、その他の反日動画は現在も野放しで、再発の懸念は充分にある。ごく一部の人しか対象にならない日本人長期拘束と比べても、一般の駐在員やその家族が巻き込まれる可能性がある点で、中国駐在のリスクのひとつとして認識したほうがいい問題だろう。

 いっぽう、事件翌日に中国外交部報道官が「類似の事件はいかなる国でも起きる」と発言したことは、日本の世論を逆なでした。中国側には事件の外交争点化を避ける意向があったと思われるのだが、彼らはなかば「本気」でそう考えていた可能性もあるように感じる。

 理由は「日本人学校の児童がターゲットになった」という一点を除けば、こうした無差別殺人や通り魔それ自体は、中国では「めずらしくないこと」だからだ。

監視社会でも「止められない」犯罪

 先に断っておけば、近年の中国の治安は大きく改善している。理由はさまざまだが、なにより監視カメラの普及と、金銭の授受や通信履歴・位置情報などのあらゆる個人情報がスマホに紐づけされて追跡可能になったことが大きい。中国の庶民には、治安の向上につながった監視社会化を歓迎する人もかなり多い。

 監視社会化は「罪がバレると困る」人の犯罪抑止に有効である。つまり、犯罪後の日常生活を考え、メンツなり家族なり資産なり失うものがあるタイプの人物は、簡単に身元が割れてしまう状況では悪事を思いとどまるのだ。

 ただ、これは逆に言えば、失うものがない人による無差別殺人や通り魔は、監視社会でも防ぎきれないということである。中国でこの手の犯罪の犯人はしばしば死刑になるが、人生に投げやりになった人に、厳罰は抑止効果を持たない。

 最近の中国で増えているのが、このタイプの犯罪である。以下、今年に入って海外の中華圏で情報が流れた、無差別襲撃・殺人に近い事件を列挙していこう。

大量に発生する無差別事件

 念のために書いておけば、2001年の附属池田小事件、2008年の秋葉原無差別殺傷事件、2019年の登戸通り魔事件など、日本でも似たような事件はある。中国の人口は日本の10倍以上なので、単純な母数の問題として「危険人物」の数や被害人数は多くなる。ただ、今年はうんざりするほど多いのは確かである。

 習近平体制下の中国当局は、報道の「正能量」(≒明るく正しい内容)を重視し、社会不安を煽る情報発信を厳しく規制している。だが、事件が多ければ話は口コミで広がる。なにより、当局が削除態勢に入る前に微博や微信(それぞれXやLINEに似た中国アプリ)にアップされた現場の画像や動画は、やはり人の目に触れていく。

不条理犯罪「献忠」という流行語

 ここで注目すべきは、最近の一連の事件をすべて結びつけた「献忠」といった言葉の流行だ。捨て鉢になっておこなわれる不条理な無差別殺人、くらいの意味のネットスラングで、主に海外の中国系ネットユーザーの間で使われている。

 特定の傾向がある犯罪は、名前が与えられてカテゴリーが作られることで人々の注目が高まる。これは日本において、個人売春が「援助交際」、電話を使用した詐欺が「振り込め詐欺」、代行強盗が「闇バイト」などと名前を与えられたことで世間に認知され、社会現象になった例を考えるとわかりやすいだろう。

 中国においても、以前から存在したはずの無差別殺人に「献忠」の名前がついたことで、それ自体がひとつの意味を持つことになった。「献忠」の別名は「社会報復」(社会に対する報復)である。実生活の不満を、刃物を振り回したり人混みに自動車で突っ込んだりすることで解消し、実質的に自分の人生も終わらせる。一種の社会的自殺行為だ。

 9月に発生した深圳の日本人学校児童襲撃事件の容疑者についても、10月18日付けの讀賣新聞が「職探しがうまくいかず不満を持っていた」「何か大きなことをすれば自分が注目され、日本人を刺せば反響が大きく、自分を支持してくれる人もいるだろうと思った。日本人学校の場所はネットで探した」という動機があったとする関係者の談話を報じている。

 これが事実とすれば、日本人学校児童という標的の選択には政治的事情があるものの、犯行の動機それ自体は「献忠」だったということだ。「類似の事件はいかなる国でも起きる」という中国外交部の発言は、(国家として無責任だという点を除いて)事実認識としてはある意味で正しい。ただし近年、中国では他国に増して「献忠」が増えていると言わざるを得ない。

総加速師・習近平と「献忠」

「献忠」の由来は、前近代の中国の張献忠(1606〜1646)という武将だ。彼は明末の李自成の乱に呼応した反乱軍の指導者の一人で、蜀(四川省)一帯の掌握に成功したが、当時の天下の趨勢は満洲族の清に定まりつつあった。張献忠はジリ貧の状況に捨て鉢になったのか、臣下や蜀の民を大量に虐殺する。彼の名が現代まで残っているのも、この悪行のせいだ。

 虐殺については、戸籍の人口を根拠に300万人以上が殺されたという巷説もあるが、これはおそらく蜀の行政機構が崩壊して個人を把握できなくなったためで、そこまで多くはないだろう。ただ、蜀の人口構成に影響が生じるレベルの被害が出たのは確実である。後世に文豪の魯迅が「殺、殺、殺人、殺」と書いたように、そこそこ歴史に詳しい中国人の間では、張献忠の悪名は不条理な虐殺者の代名詞的存在だ。

 いっぽう、「献忠」がネットスラング化したのは、ゼロコロナ政策のもとで社会の閉塞感が強まりはじめた2021年ごろである。おそらく、テレグラムなどで反体制的な「不謹慎ネタ」をやりとりしている、悪趣味オタク系の若いネットユーザーの間で広まったと思われる(往年のオウム事件の際、日本の中学生がふざけて「ポアする」という言葉を使っていたようなものだ)。四川省綿陽市の七曲山大廟にある張献忠像の写真も、スラングとともに盛んに用いられるようになった。

 張献忠は歴史人物であるためか、彼の名前や画像そのものは検閲に引っかからない。さすがに無差別殺人事件を「献忠」として紹介する投稿は削除されるものの、スラングの象徴である張献忠像に文字を加えた画像や動画は、中国国内でも閲覧できる。いまや中国国内でも、ある程度スラングに詳しい人ならば「献忠」は知っている言葉のようである。

 「献忠」を流行らせた悪趣味クラスタでは、習近平について「総加速師」というあだ名も広がった。往年、臂平が改革開放政策の「総設計師」と呼ばれたのをもじった呼称で、中国を亡国へと加速させる当事者というわけだ。総加速師・習近平のもとで行き詰まった人物が、無辜の人民を殺害する行為が「献忠」である。

多重債務者を追い詰める「デジタル市中引き回し」

 もともと、中国の社会は前近代から現在まで、日本よりも圧倒的に「強者の論理」で支配されてきた。すなわち、一部のエスタブリッシュメントが権力・人脈・カネ・学歴・恋愛・結婚・就職・住宅・健康・情報・法的優遇・社会的発言権などの一切を総取りする仕組みである。

 弱者に対する世間の関心も制度的な保障も、中国では伝統的に脆弱だ。そうした社会で生きることが困難な庶民は、濃厚な親族関係や地縁、場合によっては秘密結社や宗教団体などを通じた相互扶助の仕組みに頼って、長年にわたり生きながらえてきた。ただ、現代の中国では社会構造や価値観の変化にともない、血縁や地縁の保護機能が弱まっている。近年の習近平政権下では、宗教コミュニティやNGOなども弱体化した。

 中国の庶民がそれでも大きな不安を覚えなかったのは、中国の景気がよく、生活水準や暮らしの利便性が目に見えて向上してきたからだ。だが、ゼロコロナ政策とその後の経済停滞で、従来の危ういバランスは動揺している。

 しかも中国の場合、近年のデジタル管理のなかで失信被執行人(失信人)制度というものができた。これは、債務不履行や公共料金の未納などの不誠実行為の当事者に対する懲罰処置だ。失信人は航空機や高速鉄道に乗れない、三つ星クラス以上のホテルに泊まれない、中国からの出国制限などが課され、その名前と身分証番号がネットで公開される。

 場合によっては、地下鉄駅のホームのテレビモニターなどに、顔写真付きで実名・住所・身分証番号が晒され「ダメ人間」として周知される目に遭う。中国は21世紀初頭まで、公開処刑や犯罪者の市中引き回しがおこなわれていた国であり、そうしたカルチャーが現在でも存在するのだ。

コロナ禍と「詰む人」の増加

 気の毒なのは、近年のコロナ禍の影響で経済危機に陥り、債務の不履行を余儀なくされた人たちだ(詳しくはジャーナリストの高口康太氏が『東亜』8月号に寄稿した記事を参照)。失信人は、本人に反省の意思がない、所在が確認できないなどの悪質性がなければ即・処罰とはならないともいうが、当局のミスや本人の悪意なき過失で認定されることはあり得る。

 航空機や高速鉄道での遠距離移動ができず、ネットに「ダメ人間」としてのデータが残った状態で、事業や生活の立て直しは不可能に近い(なお、中国に自己破産制度はない)。だが、たとえ困窮しても公的福祉は貧弱だ。往年であれば、人生に失敗しても他の省に逃げてしまえばなんとかなったが、現代はデジタル監視によって中国国内のどこに行っても逃げられない。

 深圳事件の容疑者が失信人かは不明ながら、事業に失敗して債務を抱えていたことが日本側の報道で明らかになっており、似た状態だったとみていいだろう。ただでさえ巨大な格差が存在するうえ、失敗するとリカバリーが効かない社会だからこそ、「献忠」がしばしば選択される。

「献忠」犯人の襲撃対象に子どもや外国人が選ばれやすいのは、警戒心が薄く狙いやすいからだ。特に子どもの場合、「強者の論理」が貫徹された中国社会の弱者である自分より、さらに小さくて弱いので狙う……。ということだろうか。

「無敵の人」が生まれやすい中国

 近年、中国のネット上では「無敵之人」というスラングも登場している。もともと、日本で2008年の秋葉原無差別殺傷事件が起きた際に、犯人の加藤智大のように社会的信用が低く逮捕リスクがない人物を指して、ひろゆき(西村博之)が使いはじめた「無敵の人」という言葉が、中国に輸入されている形だ。

 中国では報道や言論が統制されているため、日本と比較すると模倣犯が起きにくい環境のはずだが、中国の社会環境は日本以上に「無敵之人」を生み出しやすい。加えて、外国人はそうした人たちの投げやりな行動のターゲットに比較的選ばれやすく、今年に入ってからはオーストラリアやスイスなど海外で「献忠」的な事件が起きた例もある。

 もちろん、こうした事件を起こす人はごくひとにぎりにすぎない。ただ、中国の新たなリスクとして、日本人も認識しておいたほうがいいことは確かだろう。

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(安田 峰俊)