楽天・奥村展征コーチ インタビュー 前編(全2回)


昨年現役を引退し、今季から楽天の二軍コーチを務めている奥村展征

【縁ある東北で新たな野球人生を始動】

 昨年11月、仙台の楽天モバイルパーク宮城に元気な声が響き渡った。

「ヤクルトで"応援団長"をやっていました奥村展征(のぶゆき)です。今日からは楽天の"応援団長"を務めさせていただけるということで、全力で一日一日、みなさんが大切に過ごせるように少しでも背中を押せたらなと思います。よろしくお願いいたします!」

 こんな突飛なあいさつで、奥村展征は東北楽天ゴールデンイーグルスの一員となった。もっとも"応援団長"ではなく、"二軍内野守備走塁コーチ"が新しい肩書きだが。

「あれでも抑えたんです。やっぱり初めての場所なので、ドン引きされるかもしれませんから(笑)。ちょうどいいぐらいを狙ってあいさつしたのですが......」

 奥村はこう話すが、彼の人柄を一発で知ってもらうには、効果は抜群だったに違いない。

 とにかく明るい奥村のキャラクターは、彼が9年間在籍した東京ヤクルトスワローズのファンにはおなじみだった。

 奥村は滋賀県出身だが、高校は日大山形に進んだ。夏の甲子園に主将として出場した2013年に、1学年後輩の中野拓夢(現阪神)らとともに山形県勢初のベスト4の原動力となった。

「東北が好きなので、本当にうれしいです」

 現在29歳。10年ぶりに東北の地に戻り、今度は指導者として新たな野球人生をスタートさせた。

【ムードメーカーの裏側にあった危機感】

 ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け、2014年からプロ野球選手としてのキャリアは始まった。しかし、翌年にFA制度の人的補償でヤクルトへ移籍。プロ2年目での移籍は当時NPB史上最短だった。

 そこから9年間をヤクルトで過ごし、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍した(内野手ながら外野をこなすこともあった)。さらには、ムードメーカーとしてもチームを盛り立ててきた。

 しかしながら、明るい振る舞いとは裏腹に、心の内には常に危機感があったという。

「10年間で一軍に上がれない時期がけっこう多かったので、成績が残らなかったら......(戦力外になるかもしれない)っていうのは毎年、思っていました。そこはもう競争ですから。『一軍に上がらない=使い物にならない』って考えてしまう性格だったので、そういう覚悟を持ちながら、一年一年やらせてもらっていました」

 確かにファームで過ごす時間は長かったが、ヤクルトが連覇を果たした2022年シーズンは43試合に出場し、随所で活躍を見せた。出番がない時でもベンチで誰よりも大きな声を張り上げて、チームを鼓舞し続けた。

「自分が活躍するのもそうですし、仲間の背中を押すって言ったらおかしいですけど、ベンチの士気が下がらないようにするのも自分の仕事かなと思っていました。勝った時にはさらに勢いづける。負けた時には次にどういう戦いができるかが大事だと思うので、そういう役割は自分でもやりたかった。そういうところも含めて、2連覇をしたシーズンはちょっとでもチームの力になれたんじゃないかなって思っていました」

 リーグ優勝の瞬間は、一軍で仲間たちと歓喜を分かち合った。


仙台市の森林どりスタジアム泉にて

【チームに必要とされる選手になりたかった】

 プロ10年目の2023年シーズンは、春季キャンプを一軍で迎えた。

 しかし、プロ野球は厳しい世界。ムードメーカーというだけでずっと一軍にいられるわけがなかった。それは奥村自身が重々理解していたことでもあった。

 課題に上げていたのはバッティングだ。

「バッティングはなかなか方向性が固まりませんでした。ファームで過ごす時間が多かったこともあって、難しかったですね。ファームでは打てても、一軍に上がったら打てない。そこの差を埋める能力がなかなかつけられなかったですし、力の差を感じていました」

 春季キャンプ中、筆者が見に行った沖縄・糸満で行なわれたロッテとの練習試合では、佐々木朗希の160kmの速球にファールで粘る奥村の姿があった。今季はひと味違う活躍をしてくれそうだと期待を抱かせたものだが、奥村は必死にもがいていた。

 苦闘しながらも、昨シーズンの奥村は開幕一軍を勝ち獲った。しかし、チームは開幕5連勝と絶好調だったものの、奥村は一軍の出番がないまま、二軍落ちとなった。

「登録枠の関係もあったと思いますが、自分の実力が完全に不足していました」

 その後、開幕ダッシュに成功したかに見えたチームは、4月中旬からなかなか勝てない時期が続く。4月下旬には7連敗も喫した。

 そんな状況で再び奥村は一軍に呼ばれる。

「一軍に上がったら、勝ち試合に持っていけるようなワンピースになりたいなと思っていました」

 試合では出番がなかったものの、奥村がベンチ入りした4月30日の阪神戦で、チームは連敗を7でストップさせ、久々に白星を手にした。もちろんそこには声や振る舞いでチームを盛り上げる奥村の姿があった。

 その日のSNSでは、奥村のムードメーカーとしての功労を称える声が相次いだ。その声は奥村にも届いていた。

「やっぱり必要とされる選手になりたかったので、うれしかったですね。2回目に一軍に上がった時は、当然チームの勝ちにこだわりながら、自分も結果を出せるようにと意気込んでいました。チームを鼓舞できるような元気がないといけませんが、元気だけではダメ。結果を出さなければまた二軍に行くことになると自分でもわかっていました。それらを両立することを意識していました」


現在はコーチとして持ち前の元気と明るさを発揮している

【戦力外覚悟の土壇場で見せた意地】

 課題としていた打撃のほうは、シーズン初打席でヒットを放ち、同じ日に犠牲フライで打点もあげた。

 しかし、5月17日の巨人戦で空振り三振を喫したのを最後に、奥村が一軍のバッターボックスに立つことはなかった。4打数2安打と少ない出番できっちり仕事をしたように思えたが、5月31日に再びファーム行きを言い渡された。

「それまでにチャンスは何回ももらっていたのに、それを活かせなかった。仕方がなかったのかなと思います」

 ファームでは打率がなかなか2割に届かず、打撃不振に陥った。「ヤンスワ(ヤングスワローズ)」と呼ばれる若手の活躍もあって、その後は結局、一軍に呼ばれることがなかった。

「気持ちの面が難しかったですね。ファームでも当然チームが勝つために力を注ぐんですけど、自分のやるべきことがなかなかうまくできなかった。結果が出ずに苦しいシーズンになりました。プロ10年目、ファームで2割の成績では(戦力外になるのは)仕方ないことだなと感じていました。2022年は一軍にほぼ1年間いさせてもらったのに、去年は二軍生活が長く続いたので特にそう思いました。自分自身が不甲斐なかったです」


10年ぶりに好きだという東北の地に戻ってきた

 しかしながら、戦力外になるのを覚悟したシーズン終盤、土壇場で奥村は意地を見せる。奇しくものちにコーチを務めることになるファームの楽天戦だった。

 1対3の2点ビハインドで迎えた7回裏、ノーアウト一塁・三塁のチャンスで奥村に出番が回ってきた。そして、初球をライトスタンドに叩き込み、逆転スリーランホームランを放った。これが、一軍、二軍通じてのシーズン第1号だった。

「たぶんその時にはもう感じていたんでしょうね。当然毎日の練習の積み重ねがあったからだとは思うんですけど、気持ち的にも、来年は戦力になれないかもしれないって考えた時に吹っ切れたのはあったのかもしれません。結果論ですけどね。でも、結果が残らないよりはよかった」

 その後にも、もう1本ホームランを放つなど、土壇場で見せ場をつくった。

【楽天からの思いもよらぬオファー】

 シーズンが終わると、各球団から来季の契約についてのリリースがある。ヤクルトからは10月2日に、来季の契約を結ばなかった7選手の発表があった。そこに奥村の名前はなかった。

「勝手に山を越えたかなと思って、来年はやり返さないとな、という気持ちになっていたのは事実です」

 しかし、来季に向けて気持ちを切り替えたのも束の間、10月30日に球団事務所に呼ばれ、戦力外を言い渡された。

 できることなら現役を続けたいという気持ちはあった。しかし、シーズン終盤にハムストリングスの肉離れをし、ケガを押して試合に出場していたこともあって、合同トライアウトの参加は見送り、他球団から声がかかるのを待った。

 楽天から電話がかかってきたのは、戦力外が発表された数日後のことだった。

「電話をいただいた時は、当然、選手としてかなと思いました。その時はそれを待っていたので」

 だが、その電話は思いもよらないオファーだった。これが、第二の野球人生の始まりになった。


選手たちの指導に当たる奥村

後編<ヤクルト戦力外のち楽天から想定外のオファーに「まさか...」 20代でコーチ就任の奥村展征「新しい世界を見まくり」>を読む

【プロフィール】
奥村展征 おくむら・のぶゆき 
1995年、滋賀県生まれ。日大山形高3年夏には主将として甲子園に出場し、山形県勢初のベスト4に貢献。ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け、2014年からプロ野球選手生活をスタートすると、翌2015年には東京ヤクルトスワローズへ移籍。ヤクルトのムードメーカーとしてファンに親しまれるも、2023年に戦力外通告を受け、現役引退。2024年から東北楽天ゴールデンイーグルスで、二軍内野守備走塁コーチを務めている。