石毛宏典が「史上最強」と語る1990年の西武は、平野謙という「つなぎ役」の加入によって完成した
石毛宏典が語る黄金時代の西武(11)
平野謙 前編
(連載10::PL学園時代の清原和博から3奪三振 西武・渡辺智男の「真っすぐ」のすごさを石毛宏典が語った>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回の渡辺智男氏に続く11人目は、プロ野球で歴代2位となる451犠打をマークし、黄金時代に不動の2番打者として活躍した平野謙(ひらの・けん)氏。1987年に中日ドラゴンズからトレードで西武に移籍した当時の印象、平野氏のバントのすごさなどを聞いた。
黄金時代の西武の「つなぎ役」として活躍した平野謙 photo by Sankei Visual
【中日から移籍した当初の印象】
――1987年11月、平野さんは小野和幸投手とのトレードで西武に加入しました。最初の印象はいかがでしたか?
石毛宏典(以下:石毛) 中日での実績がある選手で即戦力だったわけですが、新しいチームということもあってか、遠慮がちでした。「どんなチームなのかな?」と雰囲気を観察していたような感じでしたね。ケンちゃん(平野氏の愛称)に限ったことではないでしょうが、やはり"外様"ということで遠慮していた部分が多分にあったと思います。
ただ、性格は明るいですし、話しやすかったです。年齢は私よりひとつ上なのですが、昔も今も「ケンちゃん」と呼ばせてもらっています。チームに慣れてからは、辻発彦や工藤公康にちょっかいを出したりしていましたね。
あと、オシャレでした。身長は自分と同じくらいですが(石毛氏180cm、平野氏179cm)、足が長くてスタイルがよかった。奥さんはタレントをされていたのですが、ファッションセンスが際立っていたのはその影響もあったのかもしれません。
――年齢が近い石毛さんは、打ち解けるのも早かったですか?
石毛 早かったと思いますよ。自分は「ハチ(石毛氏の愛称)」と呼ばれていましたね。数年前に私のYouTubeチャンネルにゲストで出演してもらい、久しぶりに話した時は遠慮なくいろいろな話をしました。「お互いに歳をとったね」と言い合いながらも、まだまだ若々しい部分をそれぞれに感じたりもして。ケンちゃんのぶっきらぼうな物の言い方は、昔から変わらないですね(笑)。
それと、ケンちゃんはライトを守っていたので、守備位置が近いセカンドの辻とはよくコミュニケーションをとっていた印象があります。お酒はあまり飲まないのですが、試合後に辻と食事などに行ったりしていました。
【プロ野球歴代2位、平野のバントの極意】――石毛さんはチームリーダーとして、平野さんにアドバイスなどをしたことは?
石毛 中日時代に打率3割、盗塁王にもなるなど実績も地位も確立していた選手でしたから、私から何かを教えることはありませんでした。走攻守をそつなくこなせるオールラウンドプレーヤーという点で、少し自分と近しい部分を感じていましたしね。中でも、ゴールデングラブ賞が9回、最多捕殺も5回ですから"守備の選手"かもしれませんね。
あとは何といっても、バントがうまかったです。打率はそれほど高くはないのですが、足が速くてスイッチヒッターでしたし、相手バッテリーは嫌だったと思いますよ。ケンちゃんが西武に来てから2年目までは、自分が1番で2番にケンちゃんが入ることが多かったのですが、3年目からは1番に辻、2番にケンちゃんで定着しましたね。
――平野さんの西武3年目となる1990年は、石毛さんが"西武史上最強"とおっしゃっているシーズンですね。1番・辻、2番・平野、3番・秋山幸二、4番・清原和博、5番・オレステス・デストラーデ、6番・石毛(敬称略)......と続く打順は球史に残るオーダーです。
石毛 打順はいろいろな組み方があったと思いますが、ケンちゃんが2番に入ったからこそ打順が固定できたんじゃないかなと。1番の辻と2番のケンちゃんでチャンスを作って、秋山から始まるクリーンナップでランナーを還す。内外野の守備も含めて、1990年は「黄金時代と呼ばれる期間の中でも一番強い」という手ごたえを、私自身は感じていました。
ちなみに、ケンちゃんとのトレードで中日に行った小野も、移籍1年目で最多勝を獲りました。あのトレードは成功だったんじゃないですか。
――1番とクリーンナップをつなぐ2番打者として、森祇晶監督が平野さんを欲しがっていたようですね。
石毛 今は2番に長打を打てるバッターを置くなど、さまざまなタイプのバッターが2番を打っていますが、当時は巨人の川相昌弘もそうでしたが、2番といえば"つなぎ"に徹するというか、自己犠牲をいとわないタイプが主流でしたからね。先ほども話しましたが、ケンちゃんは本当にバントがうまかったです。
――平野さんのバントには、どんな特長がありましたか?
石毛 ボールの勢いを"殺す"ためには、バットの芯ではなく少し先に当てることがポイントなんですが、ケンちゃんはそこに当てる確率が高かった。「芯の少し先で"ボールを捕球するような感覚"で当てると、ボールをうまく殺せる」と話していました。
それと、「足が大事だ」とも言っていましたね。バントをする時は腕を動かしがちなのですが、そうではなく、ヒザを中心とした足の動きでボールの高低やコースに合わせるそうです。そうすると、構えたバットの角度が変わりにくいので成功率も高くなると。ケンちゃんが引退後、セミナーなどでバントをレクチャーしているのを見たこともありますが、「さすがだな」と思わされますよ。
――石毛さんも、バントがうまかった印象があります(通算218犠打)。
石毛 自分で言うのもなんですが、バントはうまかったと思いますよ(笑)。意外と、辻はバントを苦手にしていましたね(笑)。先ほども話しましたが、つなぎに徹することができるケンちゃんの存在が打順の固定につながりましたし、走攻守で隙を見せない西武の野球の質をさらに高めてくれたと思います。
(後編:西武黄金時代の鉄壁の右中間「ライト平野謙・センター秋山幸二」のスゴさとは?>>)
【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)
1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。