連載 怪物・江川卓伝〜アメリカ留学から空白の1日(前編)

 人生は選択の連続であるのは誰でも知っている。その人生の分岐点で何の因果か知らないが、絶対といっていいほどうまくいかない者がいる。学生時代の江川卓は、まさにその筆頭だったといっていいのかもしれない。

 変に抗っているわけではない。ただ、己の能力があまりに大きすぎるためか、自分の意思とは無関係に周りの人たちを巻き込み、その思惑に黙って従っているだけなのに、なぜか悪い方向へと進んでしまう。


南カルフォルニア大学に留学した江川卓 photo by Sankei Visual

【アメリカ留学を選択】

 1977年秋に行なわれたラフト会議で、クラウンからの1位指名を拒否した江川卓には3つの選択肢があった。

 ひとつは、法政の1学年上の先輩である高代延博(元日本ハム)との縁で社会人野球の東芝入り。ふたつ目は、ハワイで1年間練習。3つ目は、アメリカで1年間の野球留学。社会人だとプロ入りまで2年待たなくてはならないし、ハワイだと練習する環境が乏しい......江川はいろいろ熟考した結果、アメリカ留学を選択する。

 毎年定期戦が行なわれていた日米学生野球選手権で、江川は大学2年から大学日本代表になっていた関係上、当時アメリカ代表監督を務めていたラウル・デドー監督に認められ、南カルフォルニア大学に留学することが決まった。

 南カルフォルニア大学は全米屈指の名門校として君臨し、オリンピックの金メダリストや世界一の選手を輩出しており、卒業生には多くの学者やトップアスリートがいる。メジャーでは、311勝投手のトム・シーバー、70〜80年代の強打者フレッド・リンらが卒業生だ。

 留学といっても大学に入るわけではなく、野球部の特別練習生として参加するだけで、公式戦には出場できない。それでも江川は、4月第2週から意欲的に練習に参加した。

 まずは4カ月間ほとんど何もしていなかった体を絞るため、ランニング中心の基礎トレーニングから始める。日本と違って乾燥している気候のせいか、気持ちよく練習が進み、日に日に体が絞れ、遠投で肩をつくっていくなど仕上がりは早かった。ただ、試合に出られないため、ひたすら紅白戦やバッティングピッチャーといった練習の手伝いでしかバッターと対戦できなかった。

 住居は、日米野球時から親しかった南カルフォルニア大学3年生のクリス・スミスと一緒に1DKのアパートメントを借りて住んでいた。江川は朝昼兼用でカップラーメン、夜はクリスがつくってくれるステーキを食べることが多かった。

 高校1年春から脚光を浴び続けていた江川がアメリカで自由闊達にベースボールを楽しんでいるなか、日本ではすっかり江川の話題が上らなくなった。

 そんな梅雨の最中の6月下旬、江川が全米代表の一員として突如来日したのだ。それも"USA"のユニフォームを着ての凱旋だけに驚いた。横浜スタジアムで行なわれる日米大学選手権の交歓エキシビション試合に先発し、3イニングを投げる。1回は、二飛、三振、投ゴロ。2回は捕飛、二ゴロ、遊ゴロ。3回は捕飛、二ゴロ、二ゴロと全24球で仕留め、外野には1本も打たせない完璧な内容だった。

 ただこの日米大学野球選手権は、江川はあくまでも特別ゲストであり主役は別にいた。

【江川卓に一度も負けなかった男】

 デレク・タツノ。ハワイ生まれの日系3世で、スリクォーターのサウスポーである。アエオア高校時代にレッズの6位指名を受けるもハワイ大に進学。77年日米大学野球選手権で1年生ながら全米代表に選出。第1戦で日本は江川、アメリカはタツノが先発し、6回まで石毛宏典や原辰徳らの重量打線を被安打4、奪三振9、自責点ゼロで鮮烈なデビューを果たす。

 第5戦でも先発し、被安打4、奪三振12、失点1で完投勝利。江川に一度も負けなかった男として注目を浴びる。さらに78年の日米大学選手権で"タツノ旋風"を巻き起こす。

 第2戦に先発し、被安打5、奪三振9で完封。スカウトの間では「すぐにでも15勝できる」と評され、野球浪人している江川の価値を下げてしまうほどの超逸材として、日米球界の垂涎の的として大注目された。

 大学3年間で40勝を挙げ、3年連続奪三振王に輝いたタツノは、パドレスに2位指名されるも、メジャーよりも破格な条件提示したプリンスホテルと電撃契約。しかし日本の気候に合わなかったのか、2年間で2勝しか挙げられなかった。

 それでも82年のドラフトで、ブルワーズから1位指名を受け入団。だが、メジャーに上がれないまま86年で引退。一時期は江川よりも逸材をされた日系3世のサウスポーは、MLBでは芽が出ずに消えた......。

 アメリカの大学の公式戦は、3月から6月(プレーオフ)までで、夏休み期間は活動がない。そのため7、8月はアラスカのサマーリーグに参加する選手が多い。リタイアした富裕層が多い地域が点在しているアラスカでは、夏の間は白夜となる。これといった娯楽もないためか、オーナーたちがスポンサーを募って全米の有望な選手を呼んでリーグ戦をやることで地域活性化を図っている。

 全米各地のカレッジの有望な2年生選手から選抜されたメンバーで構成されたアラスカのサマーリーグは、グレイーシャー・パイロッツ、パーレー・グリーン・ジャイアンツ、ゴールド・パーナーズ、キンナイ・オイラーズの4チームで構成され、7、8月の2カ月間で48試合をやる。江川は、アンカレッジを本拠地とするグレイーシャー・パイロッツの先発5本柱のうちのひとり。

 最初は、大学時代のように様子見で投げていると簡単に打たれまくった。あらためてアメリカのバッターのパワーに驚き、1番打者だろうと下位打線だろうと気を抜かずに投げることを心かがけた。

 江川はこのサマーリーグについて「のちにメジャーに行くような選手たちと対戦でき、メジャーのレベルを知れたというか、大変勉強になりました」と語っている。

 2カ月間で48試合は大学1年間の試合数より多く、異動日なしのスケジュールで日本ほどの面積を移動する。プロ野球の予備練習になると思い、江川は実戦で投げられる喜びを存分に噛み締めた。

【ドラフト2日前に突然の帰国命令】

 サマーリーグを終えて江川の身辺はいろいろと騒がしくなった。まず、交渉権を持っていたクラウンが9月12日、電撃的に球団売却を発表し、球界が騒然となった。売却先は西武鉄道グループ。つまり、国土計画社長の堤義明がライオンズ球団を買収し、本拠地も埼玉県所沢市に移転すると正式に合意したのだ。

 当時の西武グループといえば資本力は豊富で、一夜にして球団の環境が激変した。じつは、このサマーリーグ期間中に西武関係者が一度だけ江川と接触を図っている。接触といっても膝を突き合わせての会談ではなく、練習中の移動で記者が取材するように軽く話しかける程度のもの。

 西武関係者はあくまでも社会人チーム「プリンスホテル」を設立するための勧誘の一環だと言っていたが、その数カ月後に西武ライオンズが誕生したものだから、あられもない噂が立った。

 11月に入り、ドラフトを前にした江川はロサンゼルスで会見を開いている。重大発表かと思い、日本からマスコミ数社が特派員を送り込み、30数名が集まった。内容は「もう一度、1位で指名されるように願うだけです」などといった所信表明めいたコメントしかせずに、まったくといっていいほどニュース性がなかった。

 取材攻勢を避けるために開いた会見だと注釈を入れたが、メディアは『江川、西武を拒否』『巨人でスッキリ江川』『消えた巨人一辺倒、西武に揺れる江川』と好き勝手に書き立てた。本来なら「12球団どこに指名されても行く」とメディアを通じて自分の意思をきちんと伝えたかったが、それができない事情があったのだろう。

 とにかく、江川はロスでドラフトの行方を見守るつもりでいた。ところが、ドラフト2日前、江川は帰国命令の連絡を受け、急遽、日本に戻ることになった。「巨人に入れるから帰ってこい」という内容の話を受話器越しに聞いた江川は、曖昧な気持ちのまま飛行機に乗ったのだった......。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している