退路を断ち、23歳で独立リーグへ 最速158キロの速球を武器に廣澤優はドラフト上位指名を目指す
「自分は関東から出たことがなかったので、四国に来たのも人生で初めてでした。思ったより住みやすくて、新しい生活にも慣れてきました」
そう語る廣澤優の横顔が、どことなくたくましく映る。身長193センチ、体重102キロの大きな体は、相変わらずどこにいても目立つ。23歳になった廣澤は、今年から愛媛県での新生活を始めていた。
チームの寮に入ることもできるなか、廣澤はあえてひとり暮らしを選択している。
「高校、社会人と寮でやってきたんですけど、ルールに縛られずに自分のペースでやりたい思いがありました。初めてのひとり暮らしなので自炊できるか不安でしたが、NPBは自分自身がやらないと上がれない場所ですから。自分に対して厳しい環境にしたかったんです」
肉野菜炒め、鍋、オムライス。廣澤は「簡単なものばかりですけど」と苦笑するが、料理のレパートリーも広がりつつある。脂っこいものは避け、たんぱく質と野菜をしっかりとることを意識しているという。
【社会人の4年間でベンチ入りなし】愛媛マンダリンパイレーツ。そこは廣澤が人生を賭けて身を投じた場所だった。
廣澤の名前が知れ渡ったのは、日大三に在学した高校2年の夏だ。当時は同期の井上広輝(現・西武)が、しなやかな腕の振りの本格派右腕として注目されていた。だが、廣澤は3回戦の龍谷大平安戦で先発投手に抜擢されると、5回2失点の好投で勝利に貢献。最速148キロを計測し、上々の甲子園デビューを飾った。
チームは甲子園ベスト4まで進出。金足農との準決勝で敗れはしたものの、廣澤は2度目の先発マウンドを経験している。
スケール抜群の大型右腕は、当然ながらプロスカウトの耳目を引いた。ただし、大きな肉体をコンスタントに制御するのは難しい。投げてみないとわからない不安定さが、廣澤の課題としてつきまとった。
高校3年の夏は西東京大会準々決勝の桜美林戦で先発するも、1回2/3、3失点でノックアウトされてチームも敗退。廣澤は悩んだ末にプロ志望届の提出を見送り、社会人の強豪・JFE東日本に入社する。
ここで廣澤はさらなる壁に直面する。アマチュア最高峰のレベルは想像以上に高かったのだ。
JFE東日本は廣澤が入社する前年に都市対抗野球大会で優勝している。元DeNA投手の須田幸太(引退)のように、ひと回り年上で技術力の高い存在もいた。
「須田さんなんてピッチングのことをすべて知っていて、人に合わせて的確にアドバイスをくださっていました。ここまで年上の方と野球をやる経験もなかったですし、年下の後輩が入ってこなかったので、自分は最後まで最年少でしたね」
入社して2年連続でチームは都市対抗に出場したが、廣澤はベンチにも入れなかった。東京ドームのブルペン裏でモニターを眺めることしかできなかった。
「4年間で都市対抗も日本選手権もベンチに入れませんでした。すべて勉強ととらえて、どうやって周りに追いつくかを考えていました」
大事な試合で使われることは皆無に等しかったが、停滞していたわけではない。フィジカル強化によって、球速は最速158キロを計測している。だが、社会人で公式戦マウンドを託されるには、廣澤には足りなかった部分がある。
「社会人で4年間やってみて感じたのは、野手に信頼されたピッチャーがエースになるんだということです。マウンドで落ち着いて、安心感のある人がエースなんだと知りました」
【監督からも独立リーグ挑戦を提案】4年目の半ばにさしかかる頃、廣澤は独立リーグでのプレーを考え始める。オープン戦で不安定な結果しか残せなかった自分が、公式戦で起用されないのも納得していた。それでも、廣澤がNPBに行くにはマウンドに立ってアピールする必要があった。
そんな折、廣澤はJFE東日本の落合成紀監督から思いがけない提案を受ける。落合監督からも独立リーグへの挑戦を提案されたのだ。「大谷みたいに独立リーグからNPBへ行ってこい」と。
大谷とは、廣澤が入社1年目に一緒にプレーした大谷輝龍(ひかる/現・ロッテ)のことだ。廣澤は大谷がドラフト上位指名を受ける投手になるなど、想像もできなかったという。
「身体能力は誰も寄せつけないくらい高かったんですけど、野球になると周りより落ちる感じはありました」
大谷は年齢的に廣澤の1年上ながら、高卒2年でJFE東日本の野球部から引退勧告を受けている。その後、伏木海陸運送に転籍して2年プレーし、日本海リーグの富山GRNサンダーバーズに入団。西村憲コーチ(現・和歌山ウェイブス監督)との出会いもあって急成長を遂げ、最速159キロをマークする。
富山で開眼した大谷の映像を見て、廣澤は戦慄した。
「自分が知っている大谷さんとはかけ離れていて、すごいボールを投げていました。まさか大谷さんがNPBに行くなんて、全然思っていませんでしたから」
大谷はロッテからドラフト2位指名を受け、NPB行きを果たしている。廣澤は「自分も大谷さんみたいになりたい」という思いを強くした。独立リーグの球団を探す際には、大谷からアドバイスを受けることもあった。
【佐々木朗希を追い越したい】一方で、廣澤はJFE東日本での4年間を回り道とはとらえていない。
「18歳の時よりも体も技術も考える力も身についたのは、社会人野球を経験できたおかげです。すごくいい経験をさせてもらえた4年間でした」
JFE東日本の落合監督にすれば、大谷に続いて廣澤が独立リーグで大成すれば自身が批判される恐れもあるはずだ。それでも、廣澤の身を案じて独立リーグ行きを勧めてくれたことを本人は感謝している。
「落合さんは自分だけではなく、選手一人ひとりのことを考えてくれる監督でした。自分のスタイルもわかってくれていたはずですし、独立リーグで登板機会を得たほうがいいと考えてくださったのだと思います」
社会人としての安定を捨てることにはなったが、家族など多くの人が廣澤の背中を押してくれた。高校時代の恩師である小倉全由さん(現・侍ジャパンU−18代表監督)からは「プロに行く気持ちがあるならオレは応援するし、頑張ってこいよ」と激励を受けている。
選んだ挑戦の地は愛媛だった。廣澤は「トレーニングジムが使い放題で、練習環境が整っています」と胸を張る。
開幕から先発ローテーションに入り、6月9日現在で7試合に登板。2勝2敗、防御率1.93(リーグ2位)。37回1/3を投げて与四球33と、相変わらず制球面に課題を残しつつも上々の滑り出しを見せている。
「先発投手として登板機会が格段に増えて、去年よりもレベルアップできている実感があります。1試合1試合のなかで実力が向上していると感じます」
NPBでの指導経験も長い弓岡敬二郎監督(元・オリックス)は、廣澤についてこう語る。
「高校時代から有名でしたし、持っているものは抜群ですよ。あとはコントロールだけ。コースを狙いすぎてしまう時もあって、試合によってよかったり、悪かったりしてしまう。でも、あれだけのボールがあれば、なんぼでも押していけると思うんですけどね。なんとか愛媛で成長してくれへんかな......と思っています」
廣澤は2001年生まれで、同世代には佐々木朗希(ロッテ)などNPBで活躍する選手も多い。体格的に近い佐々木は、廣澤にとってどんな存在なのか。今や別世界の人間なのか。そう尋ねると、廣澤は神妙にこう答えた。
「同世代で活躍しているので、追いつきたい思いはあります。いずれは追い越したいとも思っています。そのためには、まずその舞台に立つことを目標にしています」
目指すは「ドラフト上位指名」。廣澤優は退路を断ち、大きなストライドで一歩を踏み出した。