センバツ完全試合投手・松本稔 インタビュー 前編(全3回)

【"フロック"は否定しない】

 センバツ高校野球は、1924年の第1回大会から今春で100年を迎えた。1世紀におよぶ歴史のなかで、「完全試合」が達成されたのはたった2度しかない。その偉業が甲子園史上初めて達成されたのが、1978年の第50回大会だった。往年の高校野球ファンならすぐにピンとくるであろう。その主人公は群馬・前橋高(通称・マエタカ)の松本稔投手である。


1978年センバツで史上初の完全試合を達成した前橋の松本稔 photo by Sankei Visual

 前橋はこの時がセンバツ初出場で、松本の下馬評は高かったわけではない。しかし、真っ白なユニフォームに身を包んだ168センチの小柄な投手は、試合が始まると絶妙なコントロールで打たせて取るピッチングを展開。気づけば27個のアウトを積み重ね、わずか1時間35分という試合を制してあっという間に「時の人」となった。

「完全試合男」と呼ばれ、それを今までプレッシャーに感じたことはないというが、あの日の出来事がのちの人生に少なからずの影響を与えたことは否定できないだろう。

 46年前の3月30日、大会4日目の第3試合。相手は、滋賀の比叡山。スタンドで観戦する人々は、やがて世紀の一瞬を目の当たりにすることになった。

 これまで幾度となく報道されてきた完全試合。またかと思うほど取材を受けてきただろうが、「元来、人に喜んでもらいたい、エンターテナーの気質を求めているところがありまして」と、時々の言葉を巧みに選びながら、松本はいつも質問に丁寧に答えてくれる。

「やっぱりあの試合に関しては、『奇跡』『フロック』といった言葉が必ずついて回りますね。悔しいけれど、それを否定するつもりはありません。ただ、偶然や運を呼び込むだけのことはあったんじゃないのかなって思うんです」

【完全試合は誰のおかげ?】

 その「運」を引き寄せたキーワードとなるものを探してみる。まず、完全試合成立には投手の力だけでなく、バックを守る野手の力も必要だ。当時のチーム、じつは鉄壁の守備とはほど遠く、いつも誰かがポロリとやるのが当たり前だった。

「前橋のグラウンドって小さな石ころが混ざっていて、ひざをついたりすると痛いんです。でも甲子園の土は柔らかく、体で止めれば何とかなった。そのおかげで、みんなちゃんと守ることができたんです。ちゃんとというよりは、やっとさばいたというほうが正しいんですけどね。エラーが多かった二塁手の田口(淳彦)が『完全試合は俺のおかげ』なんて言ったけど、本当にそのとおりです」


2022年からは古豪の桐生で監督を務めている photo by Sportiva

 そんなチームならガチガチに緊張していてもおかしくないが、前橋ナインには不思議と緊張とも無縁だった。宿舎ではリラックスして過ごし、試合当日もいつもどおり。

「期待されていないからです。それで余計なストレスが生じなかった。応援してくれる人がたくさんいるからその人たちのためにも1回は勝たなくちゃ......みたいな気負いは申し訳ないけどなかった(笑)」

【奇跡を呼び込んだ「松本の3センチ」】

 ただ、エースで4番を打つチームの大黒柱だった松本は、他の選手とはちょっと違った。自分の出来が間違いなく勝敗を左右する。対策を講じなければと思っていたことがいくつかあり、そのひとつが甲子園球場の形状だった。

 テレビで見ていたアルプススタンドはすり鉢状で、画面を通して伝わってきたのはマウンドに覆いかぶさるような威圧感。これが投球にどう影響するのか、とても気になっていた。でもその心配は、初めて球場に足を踏み入れた甲子園練習であっさりと解消された。

「実際に自分の目で見て、案外そうでもない、大丈夫だなと。これが平常心を保つためにすごく大きかったと思います。そして、それをあと押ししてくれたのが、本番ギリギリでのフォーム修正。サッカーでは『三笘の1ミリ』『山下の1ミリ』って絶賛されていますけど、俺に言わせればまさに『松本の3センチ』です。これがなかったら、完全試合は間違いなくありませんでした」

 試合を目前に控えた一番の不安材料は、こともあろうに自身の絶不調だった。前年秋に関東大会を戦った時のいいイメージはなく、このままでは戦えないと気持ちは切羽詰まっていた。

「試合の3日前くらいにどうにか修正しなくちゃいけないとやってみたのが、右腕の振る位置を少しだけ下げてみることでした。3センチほど下げたら、驚くほどにその瞬間、スピードもコントロールも、カーブの曲がりもすべてよくなったんです。監督から何か言われたわけではない、自分で試したことがピタリとハマりました」

【トトカルチョのオッサンもびっくり】

 試合当日、球場入りを前に、前橋ナインは当時甲子園球場の目の前にあった甲陽学院中・高校のグラウンドを借りて練習していた。フォームを修正したのはいいが、本番でそれをしっかり再生できなければ意味がない。

「調子を取り戻した肘の高さがまたわからなくなったら......という不安はもちろんありました。でも、投げたらボールがビューンと走って、このまま甲子園のマウンドに立てば面白いぞと思いましたね。気持ちもすごくラクになりました。そして、そのあと球場まで歩いて移動したんですが、知らないオッサンがいきなり話しかけてきて『どうや、今日の調子は?』と。その時はなんで俺にそんなこと聞くんだって思ったけど、あとから気づきました。あれは『トトカルチョ』のオッサンだったんだって(笑)」

 イタリアのサッカーくじが語源のトトカルチョ。今は公式なもの以外、金品を賭ける賭博行為はもちろん法律で禁止されているが、当時はダフ屋とともに球場の外に必ずそんな大人がいた。まさに昭和の原風景である。

 でもその男性、試合後に腰を抜かすほど驚いたはずだ。何気なく話しかけた小さな青年が、直後に球史に残る偉業を成し遂げてしまうのだから。男性にとって生涯の自慢話のひとつになったであろうと、勝手ながら想像する。

「投球フォームで昔から言われていたのが、リリースポイントで肘の位置が低くなってはいけないということでした。だから調子が悪くなって肘を上げるようにした人はいっぱいいたと思うんですが、俺はそこで逆に下げた。言い換えれば、それまで肘が高すぎたから調子が悪かったということになります。

 ものを投げたりする時の動きで肩への負担が少なく、もっとも力を出せるとされるゼロポジションを、直前で探し出せたのは大きかったですね。なぜ引き寄せられたのかはわからない。たぶん、小さいころからボールと遊び、いろいろ感じるなかで筋肉の感覚というのが人より少しだけ敏感になり、それがここぞのときのヒントになったのかもしれません」

【試合後の「申し訳ない」発言の真意】

『松本の3センチ』は、本人も驚くほどの威力を発揮した。「もともと指が短いんです」と笑う松本だが、その指は驚くほど柔らかく、今もグニャッと大きく後ろへ曲がる。これはスナップをより効かすことにつながり、ストレートは130キロ半ばだったがボールのキレは抜群だった。

 右ひざが地面に着くほど、重心の低い投球フォームも印象深い。

「重心を下げるのはあまりよくない、高い位置からそのまま平行移動していったほうがスピードが出ると最近はよく言われます。でもこの時は、重心を下げることで股関節の可動域を広げ、下半身をうまく使えた気がしているんです。スピンがかけやすくホップするようなボールも投げられて、ユニフォームのひざをよく破いたけれど、自分にもっとも合った投げ方だったと今でも思っています」

 球数78球、うちボールの判定は11球で、初球ボールとなったのは3度だけ。内野ゴロ17、内野への飛球2、外野への飛球3、三振5。試合前に抱いた「面白くなりそう」との予感は、的中どころか日本中を驚かす快挙へとつながっていった。

 試合を終え、インタビュー通路で大勢の記者やカメラに囲まれた松本。ここでのひと言は、快投とはまた別に世間の関心を高めるものだった。

「(完全試合を達成し)申し訳ない気持ちがあります」

 これまでの度重なる報道で真意のほどは伝えられているが、当時この言葉は「比叡山の選手たちのことを思うと申し訳ない」という意味で多くは受け取られていた。

「たしかにそれもありました。地元に帰ってつらい思いをするかもしれないと、それが容易に想像できましたから。でも本当に言いたかったのは、自分たちは野球をとことん追求し練習してきたわけじゃない。甲子園は非現実的な世界だとずっと思ってきたので、そんな自分が完全試合なんてやっていいのだろうかと。猛練習してきた人がたくさんいるのに何だか申し訳ない......。それがあの時の正直な気持ちでした」

(文中敬称略)

中編<甲子園「完全試合男」松本稔が高校時代から感じていたスパルタ指導の限界「もっと面白く、効率よく」を指導者として実践>を読む

後編<「野球人口が減ってもレベルは絶対落ちない」甲子園完全試合の松本稔(現・桐生監督)が選手に「適性の限界」を伝える理由>を読む

【プロフィール】
松本稔 まつもと・みのる 
1960年、群馬県伊勢崎市生まれ。1978年、前橋高3年の時に春の第50回選抜高等学校野球大会で比叡山(滋賀)を相手に春夏通じて初めて甲子園で完全試合を達成。卒業後は、筑波大でプレーし、筑波大大学院へ進学。1985年より高校教員となり、野球部を指導。1987年には群馬中央を率いて夏の甲子園に、2002年には母校・前橋をセンバツ大会出場に導いた。2004年、第21回AAA世界野球選手権大会の高校日本代表コーチを務め準優勝。2022年に桐生に赴任し、同年夏より監督。