江川卓の作新学院に4戦全敗 「勝つためには何でもする」と銚子商が「打倒・江川」に燃えた雨中決戦
連載 怪物・江川卓伝〜銚子商との雨中の激闘(前編)
作新学院(栃木)のキャプテン・菊池篤が柳川商業(福岡)との激戦から3日後の(1973年/昭和48年)8月12日、2回戦の抽選を行なうため甲子園に向かった。当時は、ひとつ勝つごとに甲子園のバックネット付近で抽選が行なわれていた。
抽選の結果、作新は8月15日の第2試合で銚子商業(千葉)と戦うことになった。その瞬間、甲子園の観客席から「おぉ〜」という静かなどよめきが聞こえてきた。
江川たちの代は、これまで練習試合を含め銚子商とは4回対戦して全勝。そのうち江川は3試合に先発し、残り1試合は控え投手の大橋康延が完封している。勝敗こそ作新が圧倒しているが、銚子商にとっても手の内を知り尽くしたチームだと言えた。
雨の中、銚子商戦で力投する作新学院の江川卓 photo by Sankei Visual
試合前から、甲子園はいつ降り出してもおかしくない雨雲が広がっていた。プレーボール開始の時間が刻々と近づき、江川卓は入念にマウンドで投球練習を行なっていた。それを食い入るように見ていたのは、銚子商のトップバッター、2年生の宮内英雄だった。
1年時からレギュラーを勝ち取るなど野球センスに溢れ、翌年の夏にはキャプテンとして全国制覇を果たすなど、闘志みなぎるプレーでチームを牽引した選手だ。宮内は1学年下ということもあり、「江川ファン」を公言してはばからない。
宮内を取材した際、高校3年夏の柳川商戦での映像を見せると、「違う、こんなんじゃない」と即答した。
前年秋の関東大会で、銚子商は江川から20三振を奪われていた。「こんなの江川さんじゃない」とでも言いたげな感じで、映像をじっと見つめていた。
その宮内が言うように、江川はいつもと違っていた。5回が終わって打たれたヒットは2本のみだったが、奪った三振はわずかひとつ。長期戦になると見越して"省エネ投法"に徹したとしても、江川にしてみれば少なすぎる数である。
7回裏、銚子商は4番・木川博史、5番・青野達也の連続ヒットと犠打で一死二、三塁のチャンスをつくる。
ちなみに、青野は"江川キラー"として全国のその名を轟かせていた。この試合でも5打数3安打と大当たりで、通算でも14打数8安打。青野が江川との対戦を振り返る。
「不思議と相性がよかったですね。なぜ打てたかはわからないです。ただ、気持ちで負けたことはありませんでした。江川はテイクバックが小さいから、余計に速く感じました。バッターってピッチャーのテイクバックでタイミングをとりますから。これまで多くの投手と対戦してきましたが、江川よりも速いピッチャーは見たことがありません」
この絶好の得点機に、打席には7番の磯村政司が入った。
「監督に呼ばれたので、自ら『スクイズですよね?』って聞くと、『バカヤロー! ここは絶対にスクイズじゃない。強気でいくぞ!』って言うんです。なんであの時、スクイズのサインじゃなかったのか聞いてみたかったですね」
結局、磯村はインコースの真っすぐを打って、どん詰まりのサードフライに打ちとられた。
銚子商の斉藤一之は「猛練習は技術の鍛錬と精神的修養をするもの」だと信じてやまないスパルタ監督だった。それでも、ただ闇雲に根性野球を標榜するのではなく、今でいう先乗りスコアラーを2、3人送り込み、対戦相手を分析する緻密さも兼ね備えていた。
試合当日は、対戦相手のデータを書いた黒板ほどの大きさの模造紙をベンチに貼るなど、どこよりも早くデータを取り入れていた。ほかにも、エンドランのサインが出ても「ランナーのスタートがよかったらバッターは振るな」と、高度なプレーも平気で要求した。勝つためには何でもする。これが斉藤の流儀である。
「柳川商はバスター打法で江川を追い詰めたが、あれでは勝てん。結局、小細工は通用せん。力には力だ!」
江川を力で倒す──斉藤にとって、何よりものモチベーションになっていた。
【誰もがサヨナラと思ったが...】一方で、キャッチャーの木川は斉藤から執拗な指示を受けていた。
「江川を打たせるとピッチングも乗ってくるので、『とにかく抑えろ』と言われました。キャッチャー目線で言うと、江川がピッチングよりもバッティングのほうが好きだったんじゃないかと思います。遠くへ飛ばす技術がありましたし。江川は重量のあるルイスビルと、軽いISHIIのバットを2本持っているんです。2本のバットの特性は、練習試合の時にわかりました。大きいのを狙う時はISHIIのバット、ミート中心の時はルイスビル。バットを見ると、その打席の江川の狙いがわかりました。だからISHIIのバットの時は、インコースでカウントを稼いで、体が開いてきたらアウトコースで勝負」
この試合、銚子バッテリーは江川と5度対戦して、ふたつの四球を出したが無安打に抑えている。
試合は0対0のまま延長に入った。10回裏の銚子商の攻撃。雨は止むどころか激しさを増し、グラウンドには水溜りができていた。
この回先頭の7番・磯村が三塁打を放ち、無死三塁とサヨナラのチャンスをつくる。それでも江川は表情を変えることなく、次打者の土屋正勝を三振。9番打者を歩かせ一死一、三塁となり、打席には1番の宮内。ここで銚子商はスクイズを仕掛けるも、作新バッテリーが見破り、三塁ランナーが挟まれアウト。
ピンチを脱したかに見えたが、宮内が四球で歩き、二死一、二塁。ここで2番・長谷川泰之の打球は一、二塁間を破り、ライトの和田幸一がファンブル。二塁走者の多部田英樹がホームに突っ込み、誰もがサヨナラと思った瞬間......キャッチャーの亀岡(旧姓・小倉)偉民の猛ブロックでタッチアウト。
「ランナーが球を見ずに私をめがけて走ってきたから、ベースの手前でボールが来たように擬似捕球の態勢に入ったんです。左ヒザ付近にヘッドスライディングしてきたんですけど、まだこの時ボールは来ていません。主審の方が回り込んだ時にやっとボールが来て、アウトになったんです」(亀岡)
このプレーはのちに問題提起され、翌年から「捕手はボールを持っているか、捕球する時でなければ走路に位置してはいけない」とルール改正された。
ランナーの多部田はアウトのコールを聞いた瞬間、倒れ込むようにして悔しがり起き上がろうとした。だがその瞬間、足もとがふらつく。軽い脳しんとう起こしたため担架で運ばれる。さらにレガースに頭をぶつけた衝撃で、右目の横が切れ出血していた。それでも多部田は一針縫い、すぐに守備位置についた。敵味方も忘れて5万人を超える大観衆は、その闘志に拍手を送った。
降りしきる雨のなか、試合はまだ続いた。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している