年齢を重ねるほど、人は自分の限界を感じるものです。加えて、お金や健康面での不安も。そんななかで「いよいよこれから私の人生。やりたいことがたくさんあって、楽しみなんです」と語るのは、81歳になる多良久美子さん。「100%に近い満足度」と語る、今の生活とこれまでの人生を紹介します。

高校生の頃に父の会社が倒産、そして、事故死。波瀾万丈な人生はここから始まった

現在、多良さんは北九州の郊外で、85歳の夫と55歳の障がいを持つ息子と3人暮らし。自身も夫もいつ介護が始まってもおかしくない年齢ですが、頼れる子どもや孫はいません。

長崎で生まれた多良さんは、2歳の時に被曝しました。翌年は、母を子宮がんで亡くします。8人きょうだいでしたが、長兄は戦死し、女の子ばかり7人残されました。

「父は、シングルファーザーとして子ども7人を育てました。末っ子だった私には、姉たち6人が母親がわりでした」と、多良さん。すぐ上の姉が、8歳違いの多良美智子さん(YouTube「Earthおばあちゃんねる」で活躍中のYouTuber)です。

父は青果物の貿易会社を営んでいましたが、多良さんが高校生の頃、知人の借金の保証倒れとなって、会社が倒産しました。その頃は、姉たちは結婚や仕事で家を出て、父と2人暮らしでしたが、心配した姉の美智子さんが、働いていた大阪から帰ってきてくれたそうです。そして、19歳のとき、父が仕事中の事故で急死してしまいます。

「80年生きていると、人生、色々なことが起こりますね。明治生まれに父は寡黙で、会話をした記憶がほとんどありませんが、中学に入学したときに、『これから、進路のことなど、自分で選択しないといけないことが出てくる。そんなときは、ちょっとだけ難しいほうを選びなさい』と言われたことは、ずっと心に残っています。
人生に選択は、大変なほうを選べば挫折してしまうけれど、簡単なほうでは成長しない。ちょっとだけ難しいほうを選べば、自力で乗り越えて進んでいけます。父の言葉は、今でも私の人生に指針になっています」

息子が病気で最重度の知的障がい者に。人と比べて苦しい日々

多良さんにとって大きな出来事が起こったのは、結婚して息子、娘が生まれて間もない頃でした。4歳の息子が麻疹(はしか)にかかり、容態が急変。そのまま最重度の知的障がい者になってしまったのです。

「命も危険な状態で、意識が戻ったときは医師からも『奇跡だ』と言われました。でも、大変なのはそれからでした。脳の中のバランスが崩れてしまったのか、とにかく息子から24時間目が離せないのです。私が、生活全般を支えることになりました」

そんな中で、辛かったのは、近所の同じくらいの年齢の子どもたちの元気な姿を見ること。ほかの子どもたちと息子を比べて、落ち込む日々でした。

「そこで、思いきって引っ越すことにしました。何事も逃げないことが大事と思っていますが、このときは逃げました。でも、逃げて正解だったと今でも思っています」

最初は、環境が変わっても息子の障がいを気にして、「だれとも会わずにひっそりと暮らそう」と思って、家に閉じこもりがちでした。そんな多良さんが変わったのは、「障がい児・者の親の会」のお母さんたちとの出会いでした。障がいがあっていても「一人の人間として育てたい」というお母さんたちの姿勢に、励まされたのです。

さらに、親代わりだった4番目の姉から「この子は福祉の世界で育てなさい」と言われたことも、ハッとさせられました。なかなか息子の障がいを受け入れられず、悶々としていたので、この言葉に目が覚めたのです。そして、やっと息子のことを受け入れ、「病気の子どもと一緒に生きていこう」と覚悟を決めました。

「そうしたら、不思議と湯水のように元気が湧いてきました。3年もかかってしまいましたが、私には必要な時間だったと思います」

それからは、息子は養護学校、中学、高校、通園施設を経て、今は28歳のときに入所した生活介護事業所にいます。月〜金は施設で暮らし、週末は自宅で過ごす生活をしています。

娘が46歳でがんで早逝。息子のおかげで、悲しみから立ち直る

多良さんには、もう一人、娘がいました。小さい頃から、障がいがある兄を理解し、「仕事をリタイアしたらここに戻ってきて、お兄ちゃんの面倒は私が看るね」と言ってくれていていたのです。でも、43歳のときに子宮がんを発症し、3年闘病の末、亡くなりました。

「最期は辛くて、涙が出ました。でも、そのあとは泣きませんでした。息子のときと同じで、闘病中に病気を受け入れて覚悟をしたら、元気が湧いてきました。これ以上はできないというくらい、娘と一緒にがんばりました。だから、後悔はありません」

今でもそばに、亡くなった娘がいるように感じています。「料理をしているとき、『味はどう?』と無言で問うと、「ちょっと辛いね」とか「おいしいよ」などと私の心へ答えてくれるような気がしています」

大変なことを受け入れて覚悟を決め、その後は自分にとって最大限にできることをする。そんなふうに、乗り越えてきた多良さんは、81歳の今でも若々しく元気です。そんな多良さんを見て、周囲の同年代の友達から「どうしてそんなに元気なの?」と聞かれることがあるそうです。

「そんなときは、『息子がいるからじゃない? 貸しましょうか?』と答えるんです」と、多良さんは笑います。娘が亡くなったとき、こんなことがありました。息子は、状況が理解できないからいつも通りです。その姿を見て、「私がいないとこの子は生きていけない。元気を出さないと」ときり替えることができたのです。息子がいなかったら、きっと娘の死の悲しみに暮れていたはずです。

「息子を支えていると思っていたけど、逆に支えられています。『しっかりしないと!』と思う気持ちが、元気にしてくれます。私の元気は、気持ちが先で、体は後からついてくるのでしょう」

80歳からの新しい選択。自分のやりたいことをマイペースに

80歳を前にして、多良さんは新しい選択をします。地元の社協(社会福祉協議会)から受けていた仕事を引退し、「障がい児・者の親の会」も若い人にゆだね、相談役のような立場になりました。

まだ体は動きますが、余力をもって次に行こうと思ったのです。これからは、マイペースにピアノ、織物、お菓子づくりなど好きなことをしたい。以前からやっていた趣味ですが、仕事や息子の世話、義両親の介護などがあってお休みすることも多かったので、これからはそちらに時間を使いたいと考えました。

家で好きなことをするだけでなく、自分にできる、周りの人たちへのサポートはしていこうと思っています。近くに住む、ひとり暮らしの高齢の女友達が数人いますが、病院や買い物につき添ったり、マイナンバーカードの申請を一緒にするなど、本人が一人では不安だと思っていることをフォローしています。友達なので、あくまでもボランティアです。

「私自身の勉強にもなるし、友達から逆に知恵をもらうこともあります。だから、お互い様ですね。今後、自分が助けてもらう側になるかもしれません。今は、できる範囲で続けていきたいです」

趣味に、ボランティアに、80代からはマイペースに自分のやりたいことをやる。いろいろな経験をしたからこそ、本当にやりたいことが見えてきたのでしょう。

多良久美子さんの著書『80歳。いよいよこれから私の人生』(すばる舎刊)には、「もうこの年だから」ではなく、「この年だからこそ」に変えるためのヒントが詰まっています。