ヨシモト∞ホール(写真:ヨシモト∞ホール公式サイトより引用)

1月下旬、吉本興業に所属する複数の芸人がSNS上に「主催ライブに他事務所の人を呼べなくなった」といった趣旨の内容を投稿。“吉本鎖国”がトレンド入りし、2月に入って劇場を統括する代表取締役副社長の奥谷達夫氏が「他社と一切交流を持たないということではありません」と弁明する事態となった。

1月28日、ニューヨーク・屋敷裕政が自身のYouTubeラジオ番組『ニューヨークのニューラジオ』の中で「俺らんときもあったもんな。(中略)『吉本の無限大(ヨシモト∞ホール)以外で漫才したらあかん』ってなって……」と語っていたように、今回の騒動以前にも各劇場の方針によって所属芸人に何らかの制限がかかることはあったようだ。

吉本以外の芸人が出るライブもヒット

しかし、ここまで事が大きくなったのは、コロナ禍以降YouTubeなどのSNSやライブの動画配信がすっかり定着し、事務所の垣根を超えた交流が盛んになったからだろう。

とくに2021年元日に開催された無観客配信イベント「マヂカルラブリーno寄席」は、配信チケット1万7000枚超えの爆発的な売り上げを見せ、ライブ配信の可能性を感じさせた。

その後、芸人主催の「○○no寄席」は正月恒例のイベントとしてシリーズ化し、「ダイヤモンドno寄席」や「ケビンスno寄席」といったライブは配信期間が延長するほどの人気を博している。いずれも吉本以外の芸人が出演するライブであり、その組み合わせの妙がヒットした側面もあるだろう。

なぜ吉本の劇場にそのほかの事務所の芸人が出演するようになったのか。その経緯や影響について考えてみたい。

昨今、関西の劇場にも吉本以外の芸人は出演しているが、そのほとんどは東京を拠点とする事務所に所属している。そのため、当記事では東京のライブシーンを中心に記述しようと思う。

1994年、吉本興業は「銀座7丁目劇場」をオープンさせた。1980年代の漫才ブーム、ダウンタウンの活躍を経て、久しぶりに都内に構えた常設劇場だった。

開館当初は、アイドル的な人気を博していた関西発のお笑い×ダンスユニット・吉本印天然素材(雨上がり決死隊、バッファロー吾郎、FUJIWARA、チュパチャップス、ナインティナイン、へびいちご)が看板となって出演。東京の生え抜きである極楽とんぼやココリコらは肩身が狭く、同じ吉本でありながらバチバチの関係にあったという。

1995年に「渋谷公園通り劇場」が開場。この劇場から『今田耕司のシブヤ系うらりんご』(フジテレビ・同年9月終了)が生放送されたほか、爆笑問題、フォークダンスDE成子坂、ドランクドラゴンら吉本以外の芸人も舞台に立った。また同年にNSC東京校が開校し、関東で本格的な芸人育成が始まっている。

渋谷公園通り劇場は1998年、銀座7丁目劇場は1999年に閉館。1990年代は吉本興業が再び東京進出を図った試行期間であり、バラエティー番組では先輩相手にも奔放に振る舞う“尖った芸風”が若者から支持される時代でもあった。

同時代、吉本以外の若手は月1回の事務所ライブ、もしくはコント赤信号・渡辺正行が主催する「ラ・ママ新人コント大会」が名前を売る主戦場だった。寄席の観客は年齢層が高いため、そのほかで同世代の若者に向けてネタを披露するには元芸人が主催するライブや「新宿Fu-」「シアターD」(2016年閉館)といった数少ないお笑い専門の小劇場に出演し、お笑いライブと連動した番組『赤坂お笑いD・O・J・O』(TBSラジオ・1994年〜2003年終了)のオーディションに臨むなど、自発的な行動が求められた。

交流が加速化した2000年代

2001年に東京・新宿に「ルミネtheよしもと」、2006年に東京・渋谷に「ヨシモト∞ホール」がオープン。NSC東京校の若手が次々と育つ中で、東京吉本の雰囲気も穏やかになっていったという。この件について、GAG・福井俊太郎は筆者にこう語っている。


ルミネtheよしもと(写真:ルミネtheよしもと公式サイトより引用)

「東京NSC9期のライスさん、しずるさん、ジューシーズさん(2015年12月解散。現在、サルゴリラ、松橋周太呂として活動)、囲碁将棋さんとか、あのあたりの方々から『一旦そういうのはやめようよ』みたいな流れが出て来たと思います。吉本内でもそれくらいから縦の関係が一気に砕けて、『みんな横で手をつないでやろう』って空気になっていったイメージですね」(2021年12月9日、FRIDAY GOLDで公開された「KOC4度決勝進出のGAG福井が語る『コント界の大変化』」より)

一方で、2000年代は芸人主催のインディーズライブが盛況となる中、2004年にK-PRO、2009年にSLUSH-PILE.といったお笑いライブ制作会社が旗揚げされている。また、2007年に芸能事務所SMAの常設劇場「Beach V」がオープンするなど、若手がネタを磨く環境が整った時期だ。

東京のライブシーンは活性化し、事務所の枠にとどまらない交流が加速化していく。こうした中で、バイきんぐ、磁石、流れ星、アルコ&ピース、タイムマシーン3号、かもめんたる、ザ・ギース、三四郎など、後の賞レースやバラエティーで活躍する面々が数多く登場したと考えられる。

他事務所芸人が吉本の劇場に立つように

では、2000年代以降、賞レース関連や「ダイナマイト関西」などのイベントを除いて、吉本興業の劇場に他事務所の芸人が立つようになったのはいつ頃なのか。

筆者の頭には、2010年前後に「よしもと浅草花月」(浅草雷5656会館5階・2015年閉館)やルミネtheよしもとで開催された“プロダクション人力舎×吉本興業の合同ライブ”がもっとも古い記憶として残っている。

当時は「キングオブコメディやラバーガールがルミネに出演する」ということそのものが珍しくインパクトがあったのだと思う。ちょうど「キングオブコント」がスタートして間もなくの時期であり、吉本側は実力派コント師が揃う人力舎から何かしら吸収しようとしていたのかもしれない。

その後、2010年代にデビューした若手は、当たり前のように吉本興業の劇場に出入りするようになった。

そのうちの1組であるかが屋(マセキ芸能社)の加賀翔は、そのきっかけについて2022年8月25日にFRIDAY GOLDで公開された「コント職人・かが屋が明かす『他事務所芸人との交流が生む刺激』」の中で「僕らの場合で言うと、最初の最初はナイチンゲールダンスとかが呼んでくれたりしました。あと、やさしいズさんとか空気階段さんとかもそうです」と語っている。

加賀はNSC大阪校に通っていた時期がある。上京後、賞レースの予選などで吉本の芸人と顔を合わせるようになり、NSCの中退生ということもあって交流を深めやすかったのかもしれない。

この件について、GAG・福井は前述の記事で「僕らぐらいの世代からするとあり得ないというか。昔は他事務所の人たちに場所を貸すってこともなかったし、『その人たちが売れるようなことをすんな』みたいな風潮がちょっとあったと思うんです。今はそれがもう許されてて、みんなで頑張れよってなってる」と若い世代を羨ましがっていた。

また、かが屋・加賀は前述の記事で「(筆者注:吉本の劇場に出演すると)お決まりの流れがあるとか、各コンビのお決まりのネタとか、そういうものの『ここも準備できるよ』みたいなことがたくさん見られる」と語っており、自身のスキルアップにつながったと感謝している。

一方で、吉本の芸人が影響を受けたケースもある。2019年に元ゾフィー・上田航平(グレープカンパニー)が、ハナコ・秋山寛貴(ワタナベエンターテインメント)、かが屋・加賀、ザ・マミィ林田洋平(人力舎)とコントユニット「コント村」を結成。コント番組の立ち上げに至るなど話題となった。

これに触発された空気階段・水川かたまりが、同じ吉本所属の男性ブランコ・平井まさあき、そいつどいつ・松本竹馬、サンシャイン・坂田光、やさしいズ・タイと「コント犬」を立ち上げ、今年2月で6回目となる公演を成功させている。

直近では、昨年の「M-1グランプリ」で優勝・準優勝となった令和ロマンとヤーレンズ(ケイダッシュステージ)の関係性も記憶に新しい。2022年のM-1敗者復活戦で苦汁を舐めた2組は、ヤーレンズ・楢原真樹が声を掛ける形で翌年から新ネタ3本をおろす月1回のツーマンライブを開催。ここで切磋琢磨し、最高の結果を残している。

吉本芸人ファーストの狙い

東京にお笑い養成所が次々と設立され、芸人を目指す絶対数が爆発的に増え、個々で戦うテレビの時代は終焉を迎えた。また大きな賞レースが定着したことでライブシーンも活性化し、いい意味でお互いを刺激し合うようになるのは自然な流れだろう。

今年に入って吉本興業が若手主体の劇場で“吉本芸人ファースト”にシフトしたのは、あくまでも所属芸人へのチャンスを増やすためであり、むしろこれまでが寛容すぎたぐらいだ。状況が変わらずとも新たな動きは生まれるだろうし、またそうなることで再び劇場の方針も変化していくのではないだろうか。

(鈴木 旭 : ライター/お笑い研究家)