累計200万部を突破&アニメ全国放送が決定している、阿部智里さんの「八咫烏シリーズ」は、新刊『望月の烏』でシリーズ12作品目を数えました。

 最新作ではデビュー作『烏に単は似合わない』以来、異世界・山内で〈登殿の儀〉がはじまります。若き金烏の新たな后選びと、宮廷で働く美しすぎる下級官吏の織り成す物語の中で、重要なモチーフとして登場するのが〈綺羅絵(きらえ)〉です。

 綺羅絵とは、中央城下で発達した版画の一形態で、綺羅絵の中でも、貴人を描いたものは特に〈雲人絵〉とよばれます。これらが初めてシリーズに登場した短編「きらをきそう」(単行本未収録)を限定公開! どうぞお愉しみください。


©鈴木雉子

八咫烏外伝
「きらをきそう」
阿部智里

 山内の町人達、俗に里烏と呼ばれる者らの文化の集積地たる中央城下には、地方にはないものが数多く存在している。

 飴や草履、鍵なんかのこまごました専門店から、巨大な入浴場の設けられた湯屋、常に何らかの演目の上演されている芝居小屋。珍味を味わえる小料理屋に、町娘がちょっとお茶出来るような甘味屋、果ては滋養強壮に効く龍の髭だの人魚の鱗だの、嘘か本当か分からない物を売っている土産物屋なんかまである。

 往来には、芸人やら楽人やらが己が技を見せつけ、今朝採ってきたばかりの魚や野菜、まだ露の乾いていないような季節の花をいっぱいに盛った木桶や籠を並べた振り売りが並ぶ。寿司やてんぷら、蕎麦や団子、葛湯などを売る屋台も所狭しとひしめいている。

 お貴族向けに、高級なもの、品のあるものが集められた山の手とは毛色が違う。俗っぽくはあるが活気があって、気取っていないのが中央城下のよいところだ。

 地方から出て来た者は、皆、地元では全く想像もつかないような中央城下のあり様にまずは目を剥く。

 最初は見知らぬ物の多さに圧倒され、しかしそのうち、それぞれが好ましいと思える何かを必ず見つけて、夢中になって楽しむようになる。

 中でも珍しがられるのは、本問屋の存在だ。

 山内において、貴族のものであった本が曲がりなりにも庶民の手に届くようになったのは、中央城下における「印刷」の発展が大きく関わっている。もともと外界にあった手法を貴族が輸入し、お抱えの職人に模倣させていたのだが、改良が進むうちに古い道具が下げ渡され、中央城下においても町人が独自に『版元』を持つようになったのだ。

 最初は貴族相手に商売をしていたが、技法の向上によって作られるものが簡素な教養本から色絵に移り、比較的安価な紙の登場によって大量生産が可能になったことで、大きく潮目が変わった。

 風物絵や役者絵、美人絵などが出始めてすぐ、大店の旦那達がこれに目を付け、自店の宣伝に使うようになったのである。

 絵草紙屋の店先には、ずらりと目にも鮮やかな絵が飾られる。

 今一番人気の若手役者が羽織った着物はあっちの店、美人絵に描かれた煙管はそっちの店で売っている――そう紐づけるだけで、売り上げは跳ね上がる。

 旦那衆の依頼で、より美しく、より人々が欲しがる絵が作られるようになり、『綺羅絵』と呼ばれる形態が作られていったのだった。

 綺羅絵は、多色刷りの技術の極みである。繊細な線と細やかな色の表現が可能となり、絵師の肉筆画を限りなく忠実に再現することが出来るようになった。

 版元は腕の良い彫師、摺師を抱え込み、その養成も同時に行う。職人はやりようによって育てることが出来るが、問題は、綺羅絵の下絵の作者、絵師であった。

 絵に関しては、どうしても生まれ持った才能と本人の向上心が物を言う。良い師匠が丁寧にその技を教えたからと言って、素晴らしい絵師が必ず生まれるというものではないのだ。

 中央城下で一番古く、最も規模の大きい版元である本問屋『宝屋』は、力のある絵師を常に求め、その身分に頓着しなかった。

 腕に覚えのある趣味人から、貴族相手の本流からはじき出された異端児、芝居小屋の看板描きまで、その来歴はさまざまだ。作者が誰であろうが、良い絵を持ち込まれれば高値でそれを買い上げ、何度かの取引で信頼関係が築かれると、お抱えとして個別の依頼を持って行くようになる。

 大きな依頼になると、同じ画題で何人もの絵師を競わせ、一番いいものだけを特別高く買い上げる場合もあったから、絵師同士も切磋琢磨を怠らないというわけだ。

 名君と名高き金烏代、長津彦が統治した時代、里烏の文化はかつてなく安定し、綺羅絵は大いに隆盛した。

 そしてこの時代、綺羅絵の妙手と名高い絵師は二人存在していた。

 一人は光雲亭(こううんてい)。

 この道三十年の熟練者である。

 奇抜な構図と、それを確かな魅力に変えるだけの技量を併せ持ち、天才の名をほしいままにしていた。

 得意とするのは風物画だ。

 舞台に出る支度をする役者、軒先で雨宿りする野良犬や、水浴びをする町娘、祭りの様子など、主に庶民の姿や景色などを描くのを好んだ。

 長く活動を続けているにも拘わらず、その技と新作の鮮やかさは未だ衰え知らず。

 同業者から半ば化け物扱いされていた御仁であったが、その気性は激しく、変人であるというのももっぱらの噂であった。

 もう一人は登鯉亭(とうりてい)。

 ここ三年の間にみるみる頭角を現した若手だった。

 彼が得意としたのは『雲上絵』である。

『雲上絵』とは、庶民が絶対に目にすることのない美姫や貴公子、宗家の近衛である山内衆などの姿を描いた綺羅絵のことだ。

 もともとは、日嗣の御子の正室選び、『登殿の儀』を描いたものが始まりである。

 ひとつところに大貴族四家の姫君が集められる登殿の儀は、庶民にとってはおとぎ話のようなものだ。大いに関心を集めていることに目を付けた版元が、各家の姫の評判をもとにして、美人絵を得意とする絵師達に想像で姫君を描かせたのである。

 これは絶大な人気を博したが、花街の遊女と四家の姫が同じように並べられることを憂いた御上から、規制を受けることになってしまった。

 ただ、はいそうですかと引き下がるほど版元も殊勝ではなく、姫の絵は表向き「架空の美姫」「四季を司る女神の図」として売り出され、一応の了解を得たのである。

 実在する貴族の綺羅絵は人気が出ると分かってから、貴公子や山内衆の綺羅絵も登場するようになった。その場合、本物をもじった別名を使い、あくまで「架空の宮烏」という体で売られるのがお決まりとなったのである。

 そういった由来があるものだから、『雲上絵』はただの美人絵や役者絵に比べると、上品で格式高いのが特徴となっている。

 登鯉亭(とうりてい)の描く姫は雅やかで、貴公子は美々しかったが、山内衆はちゃんと雄々しいと評判だ。

 品を保ったまま、静動描き分ける手腕は見事というほかなく、こちらもまごうことなき若き天才との呼び声が高かった。

「やっぱり光雲亭(こううんてい)は別格だよ。勢いが違う」

「いやいや、登鯉亭(とうりてい)だって光雲亭(こううんてい)にはない瑞々しさがあるぞ」

「光雲亭(こううんてい)の役者絵は味があっていいね。舞台裏の素を見せてもらっている感じがするよ」

「でも光雲亭(こううんてい)の男の絵はちょっと生々しすぎやしないかい。それに比べて、登鯉亭(とうりてい)の山内衆の格好良さったら!」

「光雲亭(こううんてい)の美人絵はすごいぞ。あのなまめかしさは登鯉亭(とうりてい)には表現出来ないね」

「それを言うなら、光雲亭(こううんてい)だって登鯉亭(とうりてい)の気品を欠いているよ」

 収集家が二人以上集まれば、自然と二人のどちらが優れているかを語り合わずにはいられない。

 微妙に、得意とする分野が割れていたのも、その論争に決着のつかない理由となっていた。

 ――この天才二人が、同じ画題で競ったらどうなるか?

 綺羅絵好きならば誰もが一度は考えたことであり、当然、版元の宝屋とてそれは同じであった。

 せっかくなら、とっておきの場面で二人の腕を比べてみたいもんだ。

 虎視眈々と機会を狙う宝屋のもとにその報せがあったのは、まだ桜が散って間もない、初夏のことであった。

* * *

「二人の遊女をいっぺんに?」

「俺らが同時にですか」

 板間にあぐらをかく光雲亭(こううんてい)と、きちんと端座する登鯉亭(とうりてい)を前に、宝屋の旦那、昭吉は重々しく首肯を返した。

「描いて欲しいのは、今を時めく高野太夫(たかのだゆう)と、凌霄太夫(のうぜんだゆう)のお二人だ。おめえさんらが一人の太夫につき一枚、それぞれ二枚描いた四枚を比べて、高野太夫(たかのだゆう)から一枚、凌霄太夫(のうぜんだゆう)から一枚、特に出来の良い二枚を摺ることになる」

 結果、押し負けた残りの二つは、世には出ないということだ。

 へえ、と光雲亭(こううんてい)は楽しそうに笑う。

「いよいよ、あたいらを比べようってんだ。腕が鳴るってもんだね!」

 乗り気な光雲亭(こううんてい)を横目で見て、「旦那ぁ」と登鯉亭(とうりてい)が情けない声を出す。

「それ……“こっちの”光雲亭(こううんてい)にやらせるんで?」

「こっちのってのはなんだ。てめえ、あたいの何が不満だってんだよ」

「何もかも不満しかねえわ、このクソ餓鬼が!」

「仕方ねえだろ、親父が腰痛めちゃったんだから」

 光雲亭(こううんてい)が不満そうに言い、登鯉亭(とうりてい)はさめざめと泣き出した。

「せっかくの直接対決だってえのによ、俺ぁお師匠さんと戦いたかったんであって、こんな小娘とやり合いたかったわけじゃねえんだよ……!」

 男泣きする登鯉亭(とうりてい)は、今年二十になる若者だ。

 もとは芝居小屋の看板描きをしていたが、それで満足出来なくなり、十六にして宝屋に自身を売り込んだ筋金入りである。頭に馬鹿がつくほど真面目な男で、体格もよく、何も言わずに立っていると職人気質な大工のようにも見える。

 一方の光雲亭(こううんてい)と言えば、どこからどう見ても小娘だ。

 手足は棒のようなやせぎすで、立っても登鯉亭(とうりてい)の胸くらいまでしか身長がない。鼻は横につぶれていて、しかも色黒だ。

 けろりとした表情に険がないのが強いて言えば愛嬌と言えるかもしれないが、口の悪さが全てを台無しにしている。

 年の頃は十三。当然、三十年前から第一線を張る光雲亭(こううんてい)本人ではない。

 この少女の名は「しの」、光雲亭(こううんてい)の一人娘である。

「なんか知らんが、見覚えのある女が俺の子だと言って置いてった。本当に俺の娘かは知らん」

 そう言って光雲亭(こううんてい)が赤ん坊を連れて来た時、昭吉は頭を抱えた。この性格が破綻した天才に任せていては、赤ん坊は飢え死にするか女郎として売り飛ばされるだけだと思って必死に口を出し、なんとか面倒を見てきたのである。

 結果、この年まで無事に育ったしのを前に、昭吉はしみじみと思う。

 安心しな、光雲亭(こううんてい)。こいつは間違いなくお前さんの娘だよ。

 まあ、何から何まで光雲亭(こううんてい)にそっくりなのだ。顔から性格から――極めつけに、絵の才能まで。

 光雲亭(こううんてい)は半年前、腰を痛めてろくに動けなくなってしまった。だが、彼の新作は問題なく絵草紙屋の店先に並び続けている。

 ここ最近は父親に代わって、しのが描いているからだ。

 正確に言えば、彼女が写生して持ち帰った手控えを、布団から手を伸ばした父親があれこれ手を加えて作品に仕上げているらしい。

 それを知った時は仰天したが、恥ずかしながら昭吉は、下絵の時点で気付くことが出来なかった。

 線彫りする段になって彫師が「いつもより線がやわらかい」と首を捻ったが、その時点でも別人だとまでは思わなかった。出来上がった綺羅絵を見て、登鯉亭(とうりてい)が「あれは光雲亭(こううんてい)じゃない!」と怒鳴り込んで来たことで、ようやく露見したのだった。

「宝屋の旦那が気付かなかったんなら、いいじゃねえか、絶対お客も気付かないって。第一、俺が良いって言ってんだからよ」

 詰め寄っても光雲亭(こううんてい)自身は全く頓着せず、実際、彫師と登鯉亭(とうりてい)の他に、代筆に気付く者はいなかったのだった。

 なんだかんだ言って、光雲亭(こううんてい)も作品に関しては妥協しない男だ。さらりと娘に自分の名前を担ぐのを許している時点で、きっとそういうことなのだろう。

 腰が治るまで、という条件付きで渋々認めた結果、今や光雲亭(こううんてい)の作品のほとんどを娘が描くようになってしまった。父親は手遊びのような絵を好き勝手描いているようだったが、綺羅絵は注文主の意向通りにしなきゃならないのが体の負担になると言って、一向に描こうとしないのだ。今では区別するために、宝屋内では父親を大光雲、娘を小光雲と呼ぶまでになっている。

 これに、誰よりも激怒したのは他でもない、登鯉亭(とうりてい)であった。

 もともと、登鯉亭(とうりてい)は光雲亭(こううんてい)の熱狂的な崇拝者なのだ。宝屋に自身を売り込む際に、「もし自分の力を認めて下さるなら、どうか光雲亭(こううんてい)先生にご紹介を。弟子にして頂きたいのです」と熱心に請うたほどである。

 親切心から宝屋は止めたが、光雲亭(こううんてい)が登鯉亭(とうりてい)を気に入ったことで、結局は弟子入りが決まった。

 そして、住み込みが始まって三日目、登鯉亭(とうりてい)は泣きながら戻って来たのだった。

 以来、登鯉亭(とうりてい)と小光雲は非常に仲良くやっている。

「もー、仕方ねえだろ。元はと言えば、親父が腰悪くしたのはおめーが逃げたせいじゃねえか。親父の奴、埋もれちまった画材を取り出そうとしてぎっくりやっちまったんだからよ」

 可哀想に、イテーイテー言いながら描いてるよ、と宣う小光雲に、登鯉亭(とうりてい)は泣きながら言い返す。

「人のせいにするな卑怯者め。俺はお師匠さんに技術を学びたかったんであって、“ごみため”の掃除をするために弟子入りしたんじゃねえ。むしろおめえさん、よくあそこで生きていけるな……」

「何事も慣れだよ。尻の穴の小せえ野郎だなお前もよ」

「父親の名前で作品出しているお前に言われたくはねえ。いいかげん、自分の雅号で勝負しろ! てめえがお師匠さんの名前使っているの見るたんびに、俺ぁ虫唾が走ってならねえんだよ」

「勝手にえずいてろや! なんでわざわざあたいがあんたと勝負しなきゃならねえんだ。無名じゃ値がつかねえだろ。こちとら家賃の取り立てが迫ってんだよ。銭が欲しいんだよ、こっちは。あのババア、絵を交換すりゃ銭になるって言ってんのに、じゃあ銭にして寄越せとうるせえったらねえや」

「先生、また滞納してんのか! こないだ新作出したばっかだろ。あの代金はどうした」

「んなもんとっくに食っちまったよ」

「とっくに食っちまったかぁ……」

 登鯉亭(とうりてい)は力なく繰り返した。

 昭吉は仕事柄、腕の拮抗する絵師同士が火花を散らす様を何度も見て来たが、この二人の関係は中々に面白いと思っている。二人とも若き天才であるのは間違いないので、よい好敵手になってくれれば、こちらとしても願ったり叶ったりだ。

 しかし今のところ、登鯉亭(とうりてい)のほうにはその気概があっても、小光雲のほうはまだまだ無邪気だ。相手にされていないということはないのだろうが、光雲亭(こううんてい)父娘が警戒しているのは同じ絵師ではなく、大家であるのがもっぱらの問題である。

 独り相撲をする登鯉亭(とうりてい)の姿は少しばかり憐れではあったが、ごみ屋敷から泣きながら帰って来て一皮むけたのも確かなので、これからに期待している。

「依頼の話に戻るぞ」

 放っておくといつまでもじゃれあっているので、昭吉がさっくりと仕切り直す。

「お前さんらを競わせるということ以外にも、今回の依頼にはいつもと違うことがある」

「違うこと?」

「表向きは楼主からの依頼だが、どうも、裏にいる本当の依頼主はお貴族さまらしい」

 小光雲はきょとんと目を見開き、登鯉亭(とうりてい)は眉を顰めた。

 遊女を題材にした綺羅絵の場合、依頼主は売り込みたい遊女を抱える楼主か、その馴染みである大店の主人の場合がほとんどだ。

 お貴族様は遊女の馴染みになる場合は多くても、それをわざわざ綺羅絵にしようとは思わない。綺羅絵は里烏の文化なのだ。こっそり楽しむ貴族はいるだろうが、表立ってそれに関わるのは“はしたない”という価値観がある。

「宮烏が、なんでまた……」

 不審そうにつぶやく登鯉亭(とうりてい)に、昭吉は声をひそめる。

「これはまだ秘密だが、どうも、さる大貴族の若様の嫁さんに、太夫をあてがおうって魂胆らしい」

「ええっ、そんなことがあり得んの?」

「にわかには信じられん」

 小光雲と登鯉亭(とうりてい)が声を大きくしたので、しいっと口の前に指を立てて見せる。

「詳しいことは知らんが、何でも、許嫁だったお姫さまがご病気で急死して、若様が随分長いこと気落ちしているんだと。家の関係で、他にめぼしいお姫さまもいねえってんで、なんならいっそ天下一品の美女を迎えさせてやろう……とな」

 どこまで本気の話であるかは分からないが、ともかく、その若様にお見せするための特別な綺羅絵を、ということらしい。

 高野太夫(たかのだゆう)と凌霄太夫(のうぜんだゆう)は、共に中央花街で一番を競う傾城である。

 違う妓楼から同時期に全く同じような注文が入り、どうもおかしいと、ほうぼうに問い合わせて見えてきたのがそのような次第であった。

「だから、ひとりの遊女につき、表に出せるのはたった一枚というわけだ。どちらの絵にするのかは、楼主と、太夫本人に決めてもらう」

 版元の立場からすると、一枚を光雲亭(こううんてい)、もう一枚を登鯉亭(とうりてい)にしてもらえると話題性抜群であるのだが、あちらはこちらの事情など知る由もない。お互いに融通するわけでもないので、純粋に「良い」と思うものが選ばれた結果、同じ作者が二枚選ばれるということもあり得るというわけだ。

 それに思い当たったらしい登鯉亭(とうりてい)は顔つきを改めたが、小光雲は「ふうん」と呟き、いまひとつピンとこない様子で首を傾げた。

「直接、太夫さんを見て下絵を描けるよう、それぞれに時間を取ってもらった。しっかり支度をしておけよ」

「支度たってなあ。ただ、良い絵を描けばいいだけだろ」

 小光雲に言い放たれ、登鯉亭(とうりてい)は苦々しそうに口をへの字に曲げ、昭吉は声を上げて笑った。

「ああ、そうだとも! やればいいのは、たったそれだけさ。二人とも、きっちり良い絵を描いてくれよ」

* * *

「なんとまあ、随分と可愛いらしい絵師さんがおいでだ」

 そう言ってしのに向かって笑いかけたのは、まさしく、天女のような美女であった。

 まだ日が高い時分だ。

 格子戸から差し込む縞模様の光の中、昼間には不釣り合いな夜の花衣が、燦然と金糸を光らせている。徒人であれば負けてしまいそうな深紅の着物を、しかし彼女はさらりと着こなしていた。

 白粉を透かすほどに血色がよく、頬は明るい桃色がかって、見るからに水気が多い。まさしく桃のようなやわ肌である。大きくうるんだ瞳をしていて、笑んだ瞬間に綺麗な三日月を描いたのが印象的であった。

 これまで見てきたどのような女とも違う。

 ほがらかでありながら闊達で、それでいてなんとも女らしい。

 最初に描くことになった玉兎楼の高野太夫(たかのだゆう)は、どんな客相手にも分け隔てなく、親しみやすく、思いやり深い接客をすることで有名となった太夫であった。

 気取らず、屈託なくよく笑い、声が良くて歌も上手い。

 気がふさいだ時に会いに行くと、誰よりも親身になって話を聞いてくれるので、どんな人でも帰り道は笑顔になっているという、『微笑み太夫』の別名も持っている。

 ここに来る前、少しばかり評判を聞いた。「太夫の“くせに”茶屋の看板娘のようだ」などと口さがなく言う者もあるようだが、それよりも、「太夫“なのに”気取っていない」と褒めそやす者のほうが圧倒的であった。彼女に慰められた男がいかに多く、慕われているかの証だろう。

 なるほど、このお人は満開の桃の花だ、としのは思う。

 見た者を、無条件でいい気分にさせちまう。可愛いし、綺麗だし、良い匂い。どんな相手でもうっとりさせちまうんだね。

 納得して、笑い返す。

「どうも、高野太夫(たかのだゆう)。こんななりだが、一応光雲亭(こううんてい)って名乗らせてもらってるよ。きっと、綺麗に描いてあげるからね」

 高野太夫(たかのだゆう)は「まあ」と声を上げて、より笑みを深くした。

「物おじしない、良い挨拶をなさることだ。どんな風に描いて頂けるもんだか、いっそう楽しみになったよ」

 親しみのこもった声を聞いた瞬間、しのも大勢の男達と同じように、この女のことが大好きになってしまった。

「自分は登鯉亭(とうりてい)と申します。高野太夫(たかのだゆう)さんにお目にかかれて、非常に光栄です」

 がちがちになって挨拶する登鯉亭(とうりてい)にも、高野太夫(たかのだゆう)は「そんなに怖い顔なさらないで」と笑いかけた。

「噂に名高いお二方にいっぺんに描いてもらえるなんて、光栄なのはあたしのほうだもの! 実物より、きっと美しく描いて下さいましね」

 茶目っ気を見せる高野太夫(たかのだゆう)に、登鯉亭(とうりてい)も思わずと言ったふうに情けなく笑い返す。

 どうみてもでれでれしているその様子に、しのは噴き出すのを必死にこらえた。

 とはいえ、いつまでも情けない兄分を面白がっているわけにもいかない。

「じゃあ、陽が高いうちにさっさと終わらせちまいましょう」

 その言葉に、登鯉亭(とうりてい)がハッとただの男から絵師の顔つきになる。

「そうだな。急ごう」

 今回許されたのは、せいぜい下絵のもとになる手控えを取る時間くらいだ。

 双方、あらかじめ広げておいた道具のもとに移動し、筆をとる。

「あたしはどういう恰好をしていたらよろしいかしら」

「とりあえずはそのままでいいよ」

「視線はこっちに下さい」

「あ、ずるいぞ! いいえ、高野太夫(たかのだゆう)、こっちを見て」

「じゃあ、間をとってそこの文鎮でも見ましょうか」

 高野太夫(たかのだゆう)が楽しそうなので、自然と空気もぐっとくつろいだものになる。

 あれこれ注文も付けやすく、次はあっちを見て、次は少し背筋を伸ばして、と若い絵師二人が好き勝手なことを言っても、「あい、あい」と嫌な顔一つせずに応えてくれたので有難い。

 高野太夫(たかのだゆう)自身、絵師が手を止めて一息をついた瞬間を逃さず、あれこれと声を掛けてくれた。

「それにしても、お二人ともお若いので驚きましたえ。しかも、とっても仲が良くていらっしゃる」

「お、そう見える?」

「仲良くはねえです。ただ、こいつの親父さんが、自分の師匠ってだけで」

「同じ釜の飯を食った仲でしてね、そらもう親友の域ってワケよ!」

「適当言うな。決して仲良くはねえです。あと同じ釜の飯を食ったってのも嘘です。釜に黴が生えてそれどころじゃなかった」

「あれはすごかったね。あんまりいろんな色の黴があるんで、ちょっとした花畑みたいだったよ」

「それを親子して写生しだした時にはこの世の終わりかと思ったぞ……」

「そこで泣き出しちまうのがおめえさんの駄目なところだよ。絵師なんだからさ、一緒になって絵描かなきゃ」

「ありゃ気持ち悪くて泣いたんじゃねえ。咳が止まらなくて俺ぁ身の危険を感じたんだよ」

 苦々しげな登鯉亭(とうりてい)があまりにおかしかったのか、アッハッハ、と高野太夫(たかのだゆう)は大口を開けて笑う。

 白い小さな歯がちらりと見えて、しのはさっと筆を走らせた。

 登鯉亭(とうりてい)は笑う高野太夫(たかのだゆう)に見とれ、はあ、と感嘆の息を吐く。

「いやはや、しかし、高野太夫(たかのだゆう)は本当にお美しい。こいつと同じ女とは思えません。もはや別の生き物だ」

「てめえこそひとのこと言えた面かよ」

「黙れへちゃむくれ。お前も少しは高野太夫(たかのだゆう)を見習えや。いや、見習ってどうこうなるってもんじゃねえだろうが、少しは女らしさってものを勉強しろ。このままじゃ本気で嫁の貰い手がつかなくなるぞ」

「余計なお世話過ぎる。あたいは最初ッからこの筆一本で食ってくつもりだからいいんだよ別に。てめえこそその尻の穴の小ささにゃ呆れられて女なんざ一生出来ねえだろ。顔も性格も難ありとか本当に救いようがねえな。百ぺん死んで出直して来いや」

「そこまで言う……?」

 いつも通りのやりとりを、高野太夫(たかのだゆう)は本当に愉快そうな顔で聞いている。

「そうやって、気兼ねなく言い合える関係はほんに貴重ですよ。得難いお方が隣におられて、羨ましいこと」

 この下劣な会話を聞いて出て来る言葉とは思えない。しのは感嘆した。

「別に困っちゃいないし、見習うつもりもねえけどさ。ねえさん見てると、確かにちょっと憧れるところはあるね」

「おお?」

 登鯉亭(とうりてい)が珍獣でも見つけたような声を出したが、しのは無視して紙の上に筆を走らせる。

「綺麗だし、頭もいい。しかも太夫って、ただの女郎と違って、気が乗らなきゃ体も売らなくていいんだろ? その代わりに売るだけの技があるってこった。いや、大貴族の坊ちゃんからお声かかるのも分かるってもんだよね」

「……本当にそう思われるかい?」

 わずかに沈んだ声に、はたと顔を上げる。

 高野太夫(たかのだゆう)は微笑んでこちらを見ている。

 だが、その微笑みは先ほどまでとはやや趣が異なっているように見えた。

「失礼だが、光雲亭(こううんてい)さんの本当のお名前を伺っても?」

 しのは目を丸くした。

「あたいはしのだよ」

「おしのちゃん」

 噛んで含めるように呟くと、高野太夫(たかのだゆう)は立ち上がって、すっとしのの前にやって来た。

 面食らう登鯉亭(とうりてい)を後目に、しのの手を、筆ごと両手で包み込む。

「おしのちゃん、あんたは美しいよ」

 口を開きかけたしのを押し留め、あんたは美しい、と高野太夫(たかのだゆう)は力強く繰り返す。

「生まれ持った顔のつくりや、着飾った姿のことを言ってるんじゃない。あんたを一目見た時、まっとうに愛されて育ったお子だってのがよく分かったよ」

 健やかで、自由だ、と、夢見るような瞳で高野太夫(たかのだゆう)は言う。

「自由な心のありよう以上に、この世に美しいものなんてないのさ」

 ――ずっと、その美しさを忘れないで。

 高野太夫(たかのだゆう)はそう言って微笑んだ。

 それはどこか寂しげで、どこか儚い笑みであった。

* * *

「よろしくお願いいたします」

 次に訪れた青海楼で引き合わされた凌霄太夫(のうぜんだゆう)は、りんと研ぎ澄まされた美女であった。

 化粧をしていることを差し引いても異様なほどに肌が白く、しみや小さなほくろのひとつも見当たらない。長いまつげを持つ目は垂れて色っぽく、小さな唇は真っ赤。艶やかに結い上げ、重たげな簪を大量に飾った髪は混じりけのない真っ黒だ。

 小柄ではあったが、独特の雰囲気のせいか、強烈な存在感がある。

 その品のある面差しから、没落した貴族の姫様ではないかという噂もあるらしい。

 高野太夫(たかのだゆう)はその親しみやすさで評判を得たが、凌霄太夫(のうぜんだゆう)はその気位の高さで旦那衆に喜ばれていた。

 さながら、高野太夫(たかのだゆう)が桃の花なら、こちらは透明な氷柱のようだ。

 しかも、ただ気位が高いというのではなく、仁義をことさら尊ぶという評判もあった。

 一躍、凌霄太夫(のうぜんだゆう)を有名にした逸話がある。

 ある時、初めて登楼した客を前にして、凌霄太夫(のうぜんだゆう)はこう言ったのだという。

「昔、旦那様をお見掛けしたことがございます。あの頃、あたしはまだ禿でしたが、見世の前で、同行された方が姐さん方を好き勝手品評するのを見て、『ひとを物のように言うのはよくない』と窘めて下さいましたでしょう。なんと細やかなお心をお持ちだろうと、感動したのを覚えております。そのようなお方だからこそ、今の御栄達があるのでしょうね」

 それは確かにその客であり、客は自分を覚えていたことに度肝を抜かれた。

 彼女は、一度登楼した者だけでなく、自分の客でも、その楼閣の客でもない者のことまでもよく覚えていたのだ。

 その記憶力もさることながら、注意深く周囲を見る視野の広さと、それを覚えておこうという心映えに感動し、その客は凌霄太夫(のうぜんだゆう)の馴染みになったのだ。

 事実、彼女は賢く、教養も見事で、貴族相手にも機智に富んだ会話を交わした。囲碁などの相手をさせても強く、客を楽しませる手段には事欠かないという。

「本当に、女神さまのようにお美しいです」

 山内一との呼び声も高い遊女を前にして、またもやのぼせ切った登鯉亭(とうりてい)は声を上ずらせた。

 これに、しのは内心、「馬鹿だなあ」と思った。

 あんな誉め言葉、少なくとも千回は浴びせかけられて、凌霄太夫(のうぜんだゆう)のほうはいいかげん飽き飽きしているだろうに、と。

 だが、そんな登鯉亭(とうりてい)に、凌霄太夫(のうぜんだゆう)はにこりと嬉しそうに微笑みを返したのだった。

 普段はつんと澄ましている分、小さく微笑まれた時は天にも昇る心地がする――という声は耳にしていた。実際、微笑みかけられた登鯉亭(とうりてい)は顔を真っ赤にしていたが、それを冷静に見ていたしのは思った。

 あ、このおひと、本当に嬉しくて笑ったわけじゃないな、と。

 聞き飽きた口上にうんざりしても、それをおくびにも出さずに嬉しそうに出来るのも、遊女の一つの技なのだろうか。

 高野太夫(たかのだゆう)の微笑みには心があったが、凌霄太夫(のうぜんだゆう)の微笑みは形ばかりだ。

 一切心のうちを見せない姿は完璧ではあったが、冷たい壁のようなものを感じる。

 ――なるほど、このおひとは氷柱と思ったが、それよりも白壁に近いのだな。

 傷一つついていない、塗られたばかりの白壁だ。

 それが分かってしまうと後は簡単だった。

 高野太夫(たかのだゆう)の時と違い、体勢を変えて欲しいと頼む時も、交わす言葉は最小限だ。雑談で盛り上がるということもない。登鯉亭(とうりてい)と共に黙々と描き続け、特に大きな問題も起こらぬまま、手控えをまとめ終えたのだった。

「もう結構です」

 静かな時間に気まずさを感じていたのか、登鯉亭(とうりてい)が気を遣ってそう言う。

「終わりましたのかえ?」

「はい。あとはこちらで進めます」

 凌霄太夫(のうぜんだゆう)は姿勢を正すと、こちらに向かって優雅にお辞儀をした。

「お疲れ様でございました。完成を楽しみにしております」

「はい、お疲れ様でした」

「お疲れさまでしたー」

「……お二人は、玉兎楼にもおいでになったんでしょう?」

 そのまま下がると思われた凌霄太夫(のうぜんだゆう)に唐突に話しかけられ、下絵をどのように進めるかを考えながら筆を拭いていたしのは、驚いて肩を跳ねさせた。

「え? あの、はい」

「高野太夫(たかのだゆう)は、あたしのことについて何か、言っておられませなんだか」

 思わずまじまじと見返せば、凌霄太夫(のうぜんだゆう)は黒目がちな目をまっすぐにこちらに向けていた。

 そこから彼女自身の感情は窺えず、何を思って訊ねたのかはよく分からなかった。

「いえ。特には?」

 そもそも、この綺羅絵が貴族との見合いもどきであるということは公になっていないのだ。高野太夫(たかのだゆう)と凌霄太夫(のうぜんだゆう)が、大貴族の妻の座をめぐる好敵手というのもあくまで噂であり、しのや登鯉亭(とうりてい)もあえて深く聞こうとはしなかった。

「そう――」

 凌霄太夫(のうぜんだゆう)は相変わらず感情の窺えない顔で、小さく呟いたのだった。

* * *

「お前の目は節穴だな」

 父親に言われ、「ええー」としのは口を尖らせた。

「一応見せたけど、楼主も宝屋の旦那もいいって言ったぜ!」

「そりゃ、楼主も旦那も目が節穴なんだよ」

 本物の光雲亭(こううんてい)こと大光雲は、ごみに囲まれたせんべい布団に寝っ転がったまま、しのの持ち帰った手控えをばさばさとめくる。

「うん、でもまあ、不愛想な女のほうはいいな、白壁ってのは面白い。でもこっちのはてんで駄目だ。遊女を花にたとえるなんぞ、花を指して花だというのと同じだろうが。面白みがねえ。お前さん自身の感性になってねえ」

「でも、実際にそう思ったんだから仕方ねえだろ! いっぱいに咲いた桃の花みたいだなって思ってさ」

「つまんねえ感想だな。お前がこの女に感じたのは、本当にそれだけだったか?」

 そうだよ、と言い掛けて、はたと口を閉ざす。

 ――あんたは美しいよ。

 そう言ってくれた時の、彼女の悲し気な目。

 あれを、天真爛漫に桃の花、と断じて良かったのかどうか。

 しのの表情から敏感に何かを察し、大光雲はひょいと片方の眉を吊り上げた。

「さてはおめえ、楽しようとしたな?」

「楽って言うか……」

「何か掴みかけたのに『これでいいや』ってなっちまったなら、そりゃ怠慢以外の何物でもねえのよ」

 大光雲は手控えのうち、高野太夫(たかのだゆう)を描いたものを無造作に破き、火鉢の中に放り込んだ。

「やり直しだ。もういっぺん行って来い」

「ええ? あっちは時間ねえから、一回だけでびしって決めて来いって旦那に言われてんのに。第一、相手は天下の太夫さまだぜ。あたい一人で行ったって会ってくれやしねえよ!」

「じゃあ覗き見して来い。怠慢挽回するまで帰ってくんじゃねえぞ」

 ぽい、と道具をひとまとめにした風呂敷包みを投げられて、しのは溜息をついた。

 こうなっては、父は誰の言うことも聞かない。確かに、自分の中に怠慢があったかもと自覚すれば、それは自分でも少々居心地が悪い。

 それを解消するのは、絵師としては吝かではなかった。

「仕方ねえなあ。じゃあ、今日はもう無理だから、明日朝一で行ってくるよ。長くなったとしても、あたいがいない間、ちゃんと飯くらい食いなよ?」

「酒と塩があれば三日は何も食わんでも生きていけるんだよ」

「それ登鯉亭(とうりてい)に言ったら『苔か!』って叫んでたぜ」

「苔は塩なんか舐めねえだろ。あいつは何馬鹿なこと言ってんだ?」

「せめて砂糖くらい舐めとけってことじゃね?」

「酒と合わねえんだよな……」

 翌朝、日が出るのと同時に鳥形へと転身し、しのは中央花街へと向かった。

 中央花街は、中央山の山腹に階段のように広がっているのだ。

 朝靄の中を全力で飛び、着く頃には、顔を隠した客がぞろりと帰途につく刻限となっていた。

 ただでさえ、傍目に自分がこの場にふさわしくない風体であるのは自覚している。

 階段を下りて車場へと向かう人々に逆行するしのを、客たちは不審そうに見つめて来るので何とも居心地が悪い。

 もともと、昨日の今日で真正面から乗り込んで会わせてもらえるとは思っておらず、しのは玉兎楼に着くと、早々にその裏手へと回った。

 窓の𨻶間から、なんとかちょっとでも見えないものか。もしそこから高野太夫(たかのだゆう)と目でも合えば、店の者や宝屋の旦那に知られずに入れてもらえるかもしれない。

 そう思ってあちこちを見て回り、裏口と思しき木戸まで来てぎくりとした。

 ――外から、鍵が掛けられている。

 これでは、中から開けてもらうなんてこと、出来るわけがない。

 そこではたと気付いた。

 よくよく見れば、どの窓にも、全て格子がはまっている。

 近くの木によじ登り、昨日見た室内の位置からして、このあたりが高野太夫(たかのだゆう)の部屋ではないかと思われる二階の窓へと顔を近づける。

 その格子は、持ち上げて開けられるようなつくりになっていなかった。はめ込み式になっているのだ。

「自由な心のありよう以上に、この世に美しいものなんてないのさ」

 呆然と、高野太夫(たかのだゆう)の言葉を思い出す。

 あまたの男に恋焦がれられ、貴人にも妻にと請われ、美味しいものを食べ、本当の御姫さまだって着られないような金綺羅の絹の着物、頭が重くなるような簪を付けていても、彼女にはただ、自由がない。

 カタン、と、窓の向こうで音がした。

 良く見れば、雨戸に𨻶間が出来ている。

 特に深く考えずそこに目を押し当て、しのはヒュッと息を呑んだ。

 室内には、まだ灯が点っていた。

 薄闇に囲われた小さな光に照らされて、白い裸体がぼうっと浮かび上がっている。

 花房髷は形が崩れ、簪は落ちてしまっている。

 その身に何一つまとわぬ姿で、高野太夫(たかのだゆう)はすっくと立ち、こちらを見つめていた。

 こっちの気配に気付いて起き出したのだろうか。

 ちらとも微笑まず、まっすぐにこちらに視線をくれている。その姿は神々しいほどに白く、目と髪、陰毛だけが黒々と闇色をしていた。

 こわい。

 そんで、ああ、なんて綺麗なんだ。

 こちらに声を掛けようともせず、しんとたたずむその姿は、どこか神寺の奥に据えられた神像にも似ていた。

 つと、高野太夫(たかのだゆう)の背後で物音がした。

 豪奢な襖の向こうで、もぞもぞと床が動いている。

 いや、あれは床に延べられた布団だ。

 夕べは、馴染みの客が来ていたのだ。

 しのは自分の口を手でふさいだ。

 でなければ、心臓の音が口から聞こえてきそうだと思ったのだ。

 無理やりに雨戸の𨻶間から目を離し、ずるずると木を滑り降りる。

 その足で、家に帰った。

 手控えなんて取れなかったが、自分が見たいものは既に見たと思った。

 帰路の間中、強い感動に全身が震えていた。

 ――高野太夫(たかのだゆう)、あんた、本当に美しいよ。

 これは、登鯉亭(とうりてい)の言うような世間一般の美しさでも、高野太夫(たかのだゆう)自身の言ってくれたような美しさでもない。自分の感じた高野太夫(たかのだゆう)の「美しさ」をどうしたら表現できるだろうと考えて、自分には、それを表現できる手段があることをこの上なく幸運に思った。

 帰宅してすぐ、しのは高野太夫(たかのだゆう)の下絵に取り掛かった。

 時間を忘れて、夢中になって描き続けた。

 手控えを見せて来ない娘に、しかし父はそれを催促したりしなかった。一心不乱に紙と墨に向き合う姿を見ると、納得したような顔をして、そのまませんべい布団に戻って行ったのだった。

* * *

 いつかの日と同じように、宝屋の板間には、小光雲と登鯉亭(とうりてい)が並んでいる。

 今日は、いよいよ下絵の期日なのである。

 提出された下絵を、ここで昭吉が預かり、依頼主の元へ持って行くことになっている。昭吉自身、この若き天才二人がどんな絵を描いてきたのか、わくわくしながら待っていたのだ。

 ぎりぎりまで案を練っていたのか、小光雲はいつにもまして薄汚れているし、登鯉亭(とうりてい)も目をしょぼしょぼさせていた。

「さぞや力作なんだろうな。さあ、ほら、見せてくれ」

 挨拶を惜しんで促せば、もったいぶる気もないと見えて、二人はさっさと絵を並べた。

 広げられた四枚の絵を前にして、昭吉は息を呑んだ。

 ううん。これは、これは。

「参ったな……」

 思わず声が出たのは、単純な感嘆ではない。

 絶句である。

 同じ人物を描いたものであるのに、まるで別人のようだった。

 まず、登鯉亭(とうりてい)の描く凌霄太夫(のうぜんだゆう)。

 濃い藍色に金の鳳凰の繍刺の入った着物をまとう彼女は、小さく首をかしげてこちらを見つめている。とろけるような垂れ目と、きゅっと口端がつり上がった赤い唇が印象的で、こちらをからかっているようにも見える。

 普段、つんとした印象の美女が、自分にだけ微笑みかけてくれた瞬間を見事に切り取っている。

 一方の高野太夫(たかのだゆう)は、優雅で甘やかだ。

 妓楼の中であるのに、窓からは光が差し込んでおり、座った高野太夫(たかのだゆう)自身が光っているようにも見える。遊女を描いた綺羅絵ではあまり見ない構図で、はっきりと笑顔を見せている。

 頬は桃色に輝き、紅色の衣と一体となって、ぱっと花が咲いたかのような華やかさだ。

 お手本のような、見事な美人絵だ。

 流石、雲上絵を得意とする登鯉亭(とうりてい)だけのことはある。

 二つの綺羅絵は気品にあふれ、二人の太夫の美しさを余すことなく伝えていた。もしこの美女が花房髷をしていなければ、登殿の儀にやって来た四家の姫君だと疑いもなく信じたことだろう。

 ――問題は、小光雲のほうだ。

 彼女の描いた凌霄太夫(のうぜんだゆう)は、顔をやや伏せるようにしながら、ちらりと、冷ややかに流し目をこちらにくれている。

 その高い気位がいかにも全身に現れており、声を失うほどに美しいが、同時に、生まれてこの方、一切笑ったことのないようなすごみも感じさせた。

 確かに美人ではあるのだが、どこか意地悪そうな女だ、という印象を受ける。

 そして、高野太夫(たかのだゆう)。

 これが、なんとも判じかねた。

 画面中央に、どん、と描かれた彼女は、全裸だった。

 乱れ髪も、豊かな乳房も、その先の桜色の頂きも、黒々とした陰毛さえも露わになっている。

 恥じらいは一切ない。高野太夫(たかのだゆう)はどこも隠そうとせず、雄々しくもある姿勢でその場に立ち、超然とこちらを見つめているのだ。

 睨んでいるわけではない。

 ただ、見つめている。

 綺羅絵では見たことのない、真正面からの構図であり、そもそも、描かれているもの自体があまりに異色だった。

 その優しさと愛嬌とによってその位に上り詰めたという高野太夫(たかのだゆう)の前評判と、この絵は全く繋がらない。

 力強く、あまりに直截で、見苦しいようなものも全部露わなのに、しかし強烈に美しかった。

 隠すべきところが表に出ているという点だけを見れば春画のようだが、この絵からは淫靡なものを一切感じない。代わりに、私に隠すべきものなどない、私を見ろ、という、女のはっきりした声が聞こえるかのようだった。

 彼女は、俗なものをひたと見据え、飲み込んだ末にただそこにある。山の頂きに根を下ろしたご神木のような、そういう、ある種の神々しさがある。

 ――これをみだらなものだと断じるほうが恥ずかしい。

 見た瞬間に震えが奔った。

 すごい絵だ、ということは明らかなのに、それをどう評したらよいかが分からない。

 登鯉亭(とうりてい)も、その絵が開かれた瞬間、食い入るように見つめて動かなくなってしまった。

「流石、登鯉亭(とうりてい)だね。いい絵だ」

 とんでもない絵を持って来た小光雲は、のんびりと登鯉亭(とうりてい)の絵を評している。

 登鯉亭(とうりてい)は動かず、難しい顔をして小光雲の描いた高野太夫(たかのだゆう)を睨み続けるばかりだ。

「問題なければ、依頼人に持ってっておくれよ」

 平然とした小光雲と絵とを見比べ、昭吉は、やはり一言言っておく必要があると思った。

 見た瞬間に、どちらが選ばれるのかは分かっていた。

「おしの。これはすごい絵だ。正直、俺も驚いた。これまでの光雲亭(こううんてい)の作品にだって、こんな度肝を抜かれたもんはない」

「ほんと? 旦那にそう言ってもらえるなんて、嬉しいね」

「でもな、すごい絵が、売り物として良いものになるとは限らんのだ」

 間違いなく、先方は登鯉亭(とうりてい)の描いたものを選ぶだろう。それも、二枚ともだ。

「いいよ、別に」

 しかし、それを聞いた小光雲はけろりと言って、何度も頷いた。

「そうだよなぁ。旦那の言ってることも、よく分かるよ。これはお貴族さまの婚礼を見据えた綺羅絵なんだから、これを見たお坊ちゃんが、いいな、会いたいな、こんな女と一緒になれたら素敵だなって、そう思う絵を描かなきゃならなかったんだよな」

 これじゃ男のほうがびびっちまうもんな、とあっけらかんと自分の絵を指先で叩く。

「悪いね、旦那。売り物にならんもの持って来ちゃって。まあ、あたいも薄々そうじゃないかってのは分かってたんだけどさ。でも、どうしても描いてみたくて堪らなかったんだ」

「いや……。持って来てくれて良かったよ。ありがとう。本当にすごいものを見せてもらった」

 少なくとも昭吉は、この絵が見られて良かったと思った。

 それだけの感動がこの作品にはあった。

「――今回は、俺の負けだ」

 腕を組んだまま、唐突に登鯉亭(とうりてい)が言った。

 小光雲は顔をしかめる。

「なんだ、嫌味かてめえ。今の時点で勝敗は明らかだって、旦那が言ってるだろうがよ」

「これを見ちまった上で自分が勝ちだと言えるほど、おいらは落ちぶれちゃいない」

 きっぱり言って、ジロッと小光雲を睨みつける。

「お前、雅号を持て」

「おお……親父と全く同じことを言いやがる……」

「当たり前だ。この絵、どっちもお師匠さんの手が入ってねえだろう。いい加減、覚悟を決めろ」

「うん」

 登鯉亭(とうりてい)の言葉に、珍しく素直に小光雲は頷いた。

「あたいも、なんか、そうしたほうがいいような気がしてきた。なんかこの絵を描いた時、親父に触って欲しくねえって思っちまったんだよな」

 自分の感じた美しさを表現するのに、どれだけ上手かろうが、父に一筆たりとも加えられたくないと思ったのだと言う。

「何も言わなかったのに、親父にはそれが伝わってるみたいでさ。これはこのまま持って行けって。そんで、雅号を決めなって言われたんだ」

 面倒だから、取りあえずは小光雲でいいや、などと適当に言う。

「次は負けん。絶対にだ」

 気が付けば、登鯉亭(とうりてい)が悔し泣きしていた。

 それを小光雲は指を指して笑い、ようやく、この二人は本当の意味で好敵手になったのだと昭吉は思った。

 思った通り、絵は双方とも、登鯉亭(とうりてい)のものが選ばれた。

 しかし、小光雲の作品は双方に大変不評であり、特に玉兎楼、高野太夫(たかのだゆう)の絵を見た貴族は、「これでは春画ではないか!」とたいそうお怒りになったらしい。

 結果として、小光雲としての最初の作品は、闇に葬られることになった。そして、二枚の美しい綺羅絵は、見事、大貴族の坊ちゃんの心を動かしたと見える。

 数か月後、お忍びで貴公子が訪ねたのは、凌霄太夫(のうぜんだゆう)のもとであった。

* * *

 自分の絵を描いて欲しい、と高野太夫(たかのだゆう)から小光雲に個人的な依頼があったのは、あの絵の騒動があってから、約半年が過ぎた頃のことであった。

「小光雲先生。よくおいでなすったね」

 いつかのように出迎えてくれた高野太夫(たかのだゆう)は相変わらず美人で、しかし、以前よりもさっぱりと、楽しそうな空気を纏っていた。

「高野太夫(たかのだゆう)は、あたいのこと怒っているもんだと思ってました」

 以前と同じように、絵を描きながら言葉を交わす。

「勘違いさせたんなら悪かったね。お金を出してくれたお貴族さまが怒っちまったんで憚られたってだけで、本当はね、あたしは小光雲先生の絵を選んでたのさ。あの下絵だって、実はあたしがもらって、部屋に隠してあるんだよ」

 今でも時々取り出しては見ているのだと声を潜めて言われ、しのは目をぱちくりした。

「嘘だあ!」

「嘘なもんかね! 初めてあの絵を見た時は、本当に驚いたんだから」

 ――ああ、なんとまあ。

 あたしはこんなに美しかったかね、と。

 高野太夫(たかのだゆう)はやわらかく微笑む。

「ここだけの話なんだがね、本当は、宮烏の家に生まれたのは、あたしのほうなのさ」

 一拍を置いて、それが凌霄太夫(のうぜんだゆう)との話だと気付き、小光雲は唾を呑んだ。

「それ、あたいが聞いてもいい話なの……?」

「そうそう、本気にしないどくれ。玉の輿を逃した、憐れな遊女の負け惜しみさね。あんたにあることないこと吹き込んでいるのかもしれないよ。そういう、くだらない与太話」

 悪戯っぽく微笑み、しかし高野太夫(たかのだゆう)は語ることをやめなかった。

「もともと、凌霄太夫(のうぜんだゆう)とあたしはね、谷間の同じ置き屋にいたのさ」

 当時、高野太夫(たかのだゆう)は「みはる」で、凌霄太夫(のうぜんだゆう)は「おゆき」だったと言う。

「おゆきちゃんとあたしは同い年で、仲も良かった。一緒に修業してね、おやつを分け合って、毎日同じ布団で寝たもんさ。お互いに得意なことを教え合って、苦手を克服したりしてね。花街で禿として振舞うのに必要なことを仕込まれて、あたしは玉兎楼へ、おゆきちゃんは青海楼へ行かされることになった。その時、あたしの売り飛ばされた経緯を、おゆきちゃんのものってことにしたの。取り違えたんじゃない。そうしたほうが、おゆきちゃんに価値が出ると思われたのさ」

 あの子のほうが、雰囲気がいかにも宮烏らしいだろ、と高野太夫(たかのだゆう)は苦笑する。

「お互い、不本意だったけれど、飲み込むしかなかった。思い通りにいかないことがたくさん出て来るだろうけど、仕方ない。これからは競い合うことになるんだから、もう、これまでみたいに仲良くも出来ないねって。でも、お互い競い合って、磨きあって、きっと山内一番の太夫になろうねって誓いあったのさ」

 その結果、二人は夢を叶え、花街一の太夫と並び称されるまでになった。

「すごいじゃないか。ちゃんと約束を叶えてさ」

「そうだろう? あたしもすごく誇らしいよ。でもね、花街一の太夫になった後、どうするかは何も考えてなかったんだ……」

 馬鹿だろう、と言う高野太夫(たかのだゆう)は寂しそうだ。

「あの頃は、きっとそうなったら幸せになれるだろうって信じていたのにね。実際なってみると、ままならないこと、辛いことばっかりさ。太夫って言ったって、しょせんは女郎だもの。自分の足で、すぐそこにいることが分かっている、大切な親友にも会いにいかれない。どんなに贅沢な暮らしが出来たって、自由がなければ、幸せではないのよ」

 そんな折、降って湧いたのが、今回の話だったのだ。

「正直なところ、迷いがあった」

 高野太夫(たかのだゆう)の声は低い。

「大貴族の奥方なんて、花街の者からしたら確かに大出世さ。でも、貴族には貴族の苦しみがある。それを、無邪気に望んでいいもんだか、ずっと迷っていた」

 だって、と高野太夫(たかのだゆう)は泣きそうな顔で小光雲を見る。

「だって、面目丸つぶれの貴族のおなごが、遊女上がりの正室を黙って見ているわけないんだ! きっと、ここにいる以上の謗りと憎悪を一身に受けるに決まってる」

 しかし、これを逃がしたらもう二度と、こんな話は降って来ない。

 さんざん悩んでいた時、目の当たりにしたのが、小光雲のあの絵だったのだ。

「あんまり美しいんで、びっくりしちゃった」

 つと、照れ臭そうな顔になった高野太夫(たかのだゆう)は、少女のようだった。

「思っていたよりも、女郎であるあたしは綺麗だった。いつの間にか、すっかり自信がなくなっていたことに気が付いたんだよね」

「高野太夫(たかのだゆう)は綺麗だよ」

「ありがとう。あたしも、今はそう思うよ」

 あはは、と声を上げて笑ってから、「だから、肚が決まったの」と言う。

「あたしはあたしらしく、最高の太夫として振舞ってやろうってね。その結果、宮烏の坊ちゃんに見初められたのなら、それはそれで名誉なことだ。間違いなく、山内一の太夫の証じゃないか。その矜持を持って、貴族連中と渡り合ってやろう……」

 結局、選ばれたのは凌霄太夫(のうぜんだゆう)だったが、それは、高野太夫(たかのだゆう)が意図してその座を押し付けようとしたせいではない。高野太夫(たかのだゆう)は高野太夫(たかのだゆう)、凌霄太夫(のうぜんだゆう)は凌霄太夫(のうぜんだゆう)で、最善を尽くした結果なのだと思えた。

「あたしは花街で、あの子は貴族の中で。きっと、山内で一番の太夫として、生き続けるんだ」

 そう言って笑った顔があまりに輝いていたので、小光雲は急いで筆を走らせた。

 出来上がった笑顔の自分の絵をじっと見て、高野太夫(たかのだゆう)は嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、綺麗だ。本当に」

* * *

 凌霄太夫(のうぜんだゆう)が、北本家の若君、しかもその正室に迎えられるという報せは、中央花街どころか、山内中に激震を走らせた。

 貴族が遊女を側室に迎えるということはないわけではないが、正室となれば話は別である。それがただの中下級貴族であったとしても大事なのに、大貴族の本家本流のご正室ともなれば、山内始まって以来の大珍事と言っても過言ではない。

「いやあ、こんなこともあるんだね」

「なんでも、最初は側室にという話だったのに、若君自身が是非正室にと望まれたらしい」

「惚れに惚れてなきゃ、そんなこと言わないよねえ」

「流石凌霄太夫(のうぜんだゆう)だよ!」

「遊女としてはもちろんのこと、女としてもこの上ない幸せだよねえ」

 一方で、この上ない玉の輿を逃した高野太夫(たかのだゆう)は、どれだけ悔しい思いをしていることかと、人々は盛んに囁きあったのだった。

 正式に身請けされることになった日、中央花街において、これまでにない壮大な道中が行われることになった。

 青海楼は、階段街である中央花街において、かなり上方にある妓楼である。そこから、北家の飛車が用意された最下層の車場まで、嫁入り道具と共に練り歩くのだ。

 祭りで見られる道中とは異なり、身請けをされる際の道中は、真昼間に行われる。

 普段は人通りの少ない昼の花街も、今日ばかりは大貴族に身請けされる太夫の姿を一目見ようと、たくさんの人々が押し掛けた。

 黒山の人だかりを割るように、贅を尽くした一行が、日の光を受けて燦然と輝きながらやって来る。

 青貝の螺鈿も眩しい嫁入り道具はもちろんのこと、揃いの衣装の禿から、傘持ちの草履にいたるまで、全て今日のために誂えられた新品だ。

 その中心を歩む凌霄太夫(のうぜんだゆう)は、真っ白い肌を引き立てるように、黒の地にみっしりと吉祥紋のほどこされた衣装をまとっている。

 襟の紅は鮮血のごと。大帯の縫い取りは、全て金銀の糸だ。

 簪の飾りは長くゆらめき、滝のように流れている。

 だが、そんな豪奢な衣装すら、太夫自身の美しさには負けていた。

 初めて陽の光を受けたように、少し眩しそうに遠くを見る凌霄太夫(のうぜんだゆう)のかんばせは、自ら発光するがごときである。

「いよっ、凌霄太夫(のうぜんだゆう)!」

 誰かが声を上げたことで、その美しさに見とれ、呆然と立ち尽くしていた観衆は、一気に我に返った。

「おめでとう」

「おめでとう」

「花街一の太夫!」

 あちこちから祝いの言葉が飛び交い、自然と拍手が起こる。

 それにほのかに笑みを浮かべ、しずしずと、だが着実に凌霄太夫(のうぜんだゆう)の歩みは進んでいく。

 しかし、ある妓楼の前に差し掛かった時、太夫の足が止まった。

 階段も半ば、玉兎楼の門前に、夜の盛装をした高野太夫(たかのだゆう)が待ち構えていた。

 楼主のはからいによって、好敵手の見送りに、店先まで出ることを許されたのだ。

 中央花街を二分する人気だった太夫が出揃ったことに、周囲の者は大いに盛り上がった。

 下世話な者は、大貴族への嫁入りを逃がした高野太夫(たかのだゆう)がどんな顔をするか見ものだと興味津々だ。

 しかし、高野太夫(たかのだゆう)は嫉妬心などちらとも見せず、悠然と凌霄太夫(のうぜんだゆう)に歩み寄った。

「凌霄太夫(のうぜんだゆう)さん。お嫁入り、本当におめでとう」

「あら、高野太夫(たかのだゆう)さん。わざわざお見送り下さるなんて、ありがとう」

 高野太夫(たかのだゆう)に応える凌霄太夫(のうぜんだゆう)の声は、そっけなくとりすましている風だ。

 それに構わず高野太夫(たかのだゆう)は、餞別の品に、とにこやかに蒔絵の施された文箱を差し出した。

 その中には、高野太夫(たかのだゆう)と凌霄太夫(のうぜんだゆう)が仲良く並び、笑い合う絵が入っているのだが、それを知っているのは高野太夫(たかのだゆう)本人と、その斜め後ろで素晴らしい道中の様子を写生するのに必死な、小光雲のみであった。

 文箱を渡す瞬間、つと、高野太夫(たかのだゆう)は真顔になった。

「貴女の進む道は、他人から見れば極楽のようで、それでも地獄の道でしょう。くれぐれも、お気を付けて」

 高野太夫(たかのだゆう)の言葉が聞こえた者は、これを彼女の負け惜しみだと思った。そして、それを受けた凌霄太夫(のうぜんだゆう)がくすりと笑い、こう返したのを流石だと思った。

「――それは、ここも同じではないですの?」

 この時、高野太夫(たかのだゆう)の肩越しに凌霄太夫(のうぜんだゆう)の顔を見た小光雲は、初めて分厚い白壁が剥がれ、彼女の素がほんの少しだけ見えたと思った。

「そうね」

 おっしゃる通り、と高野太夫(たかのだゆう)は我が意を得たりとでも言うように頷いた。それからすいと姿勢を正し、この上なく優美に、深々とお辞儀をしたのだった。

「どうか、体を大切にお過ごしあれ。何よりも、貴女の幸せを祈っております」

「あい、高野太夫(たかのだゆう)さんも。こちらでもどうか体に気を付けて、お過ごしあれ。長いこと、どうもお世話になりました」

「お達者で」

「お達者で」

 礼を交わした凌霄太夫(のうぜんだゆう)は、文箱を伴の者に預けると、再び道中へと戻る。

 高野太夫(たかのだゆう)も玉兎楼の前へと下がり、そのまま動き出した道中を静かに見送った。

 それから、高野太夫(たかのだゆう)は凌霄太夫(のうぜんだゆう)の背中がゆっくりと遠ざかり、道中の最後の一人が見えなくなるまで、ずっとそこに立ち続けたのだった。

 日輪に梅の紋の施された飛車に乗り込んで行った凌霄太夫(のうぜんだゆう)が、その後、貴族の間でどのような思いをして暮らしたのか。

 下々の者が、知る由もない。

(了)