荒木雅博「もうどうにでもなれと送球した」日本シリーズ初の継投完全試合のラストプレーで「じつはボールをうまく握れていなかった」
荒木雅博インタビュー(後編)
前編:外れ外れ1位指名に「ウソだろ? 勘弁してくれよ」はこちら>>
中編:「意外だった」落合博満監督の野球はこちら>>
井端弘和氏との「アライバ」と呼ばれた1・2番&二遊間コンビで、中日黄金期を支えた荒木雅博氏。2007年の日本シリーズでは"継投・完全試合"の最後の打球を処理するなど、印象深いエピソードは多い。荒木氏にあらためて23年間のプロ野球人生を振り返ってもらい、今でも記憶に残る出来事、対戦した投手について語ってもらった。
井端弘和氏(写真左)との「アライバ」コンビで中日黄金期を支えた荒木雅博氏(写真中央) photo by Sankei Visual
── 井端弘和さんと一世を風靡した「アライバ」コンビ。そう呼ばれることについて、当事者としてどう思っていましたか。
荒木 打順では1、2番の切り込み役として、守備でも二遊間を守るコンビとして、たまたま同じチームで、同じ時代にプレーできました。素敵なネーミングをいただいたなと思って、うれしく思っていました。
── 打順、守備ともに「イバアラ」になった時期もありました。
荒木 語弊があるかもしれませんが、私自身はどちらでもよかったです。ただ打順に関しては、イケイケの自分を細かな制約がある2番打者の仕事を、2歳上の井端さんにフォローしていただきました。
── 2007年、日本ハムとの日本シリーズ第5戦。山井大介投手、岩瀬仁紀投手の継投での完全試合は今も語り草です。最後、二塁ベース寄りの難しいゴロを荒木さんが捕球し、ジャンピングスローでゲームセット。あの瞬間の心境は?
荒木 1対0の9回二死、あとひとりで大記録達成、そして球団53年ぶりの日本一。打者は小谷野(栄一)くん。あの時は「こういう時って、自分のところに打球が飛んでくるんだろうな......きたらいいな」と思っていたら、そのとおりになりました。
── 「飛んでくるな」ではなく、そういう気持ちだったのですね。
荒木 じつはあの時、ボールをうまく握れていなかったんです。握り損ねたまま「もうどうにでもなれ」と思って送球しました。それでも、ああいう重要な局面でうまく投げられるようにたくさん練習してきました。それまでどれだけ練習をやったかやらないかが、ああいう大事な場面で結果として出てくるんだなと、ものすごく自信になりました。練習はウソをつきません。これは次代を担う選手に伝えていきたいです。
── 以前、あるNPB審判員に「荒木選手はいつも息を切らしている印象がある」と聞いたことがあります。なぜなら、一塁手のタイロン・ウッズ選手(2005〜08年)をカバーするために走り回っていたからだと。2005年は913守備機会の二塁手の日本記録を樹立されました。
荒木 結果的にそういう記録ができたことは知っています。タイロンは打ってくれればよかったので、そこは割り切って、縦横無尽に駆け回りました(笑)。
── 現役23年間プレーし、通算2220試合に出場して2045安打、打率.268、34本塁打、468打点、378盗塁。
荒木 「ドラフト4位かもしれない」という評価からプロ入りして、ここまでの数字を残せて満足です。逆に、できすぎくらいの感じです。あの1995年のドラフトで、1位指名だった福留孝介とのちに一緒にプレーできたのも縁なのでしょうね。
【現役最後の打席で打撃のコツがつかめた】── 現役生活のなかで、思い出に残るプレーや記録はありますか。
荒木 ゴールデングラブ賞を6度受賞したり、盗塁王のタイトルを獲ったり、オールスターにも5回出場させていただきました。ただそれよりも、通算2045安打というまさかのヒット数です。なかでも、2018年に能見(篤史)くんから右中間に打った2045安打目が、いま思えば一番印象深いです。「あっ、こうやって打てばいいんだ」と思ったのが、結果的に現役最後のヒットになりました。「あるある」ですよね(笑)。
── 失礼ながら、荒木さんは"固め打ち"が多い(2004年に1試合4安打9度の日本記録)一方で、連続47打席無安打という記録もありました。
荒木 とにかく「ヒットを1本打つと安心したらまた打てる」という気持ち的なものが大きいと思います。年間出場試合数より安打数が多いのが8シーズン続きました。逆に打てない時は「打たなきゃと思いすぎて打てない」という負の連鎖にハマってしまいました。
── 多くの投手と対戦してきたと思いますが、ベスト3を挙げるとすると?
荒木 まずダルビッシュ(有)投手は、ストレート、スライダーをはじめ多彩な変化球があり、どの球種もカウント球、勝負球に使えるのがすごかったです。あの"継投・完全試合"になった2007年の日本シリーズ第5戦、日本ハムの先発がダルビッシュ投手でした。快挙で印象は薄れていますが、7回を11奪三振、1失点の快投。私も3打数ノーヒットでした。
── ふたり目はどの投手ですか。
荒木 黒田(博樹)さんは150キロのストレートとスライダーが武器で、真ん中に投げ込んだ球がいい具合に散る。ストライクゾーンで勝負できる投手で、無駄な四球を与えない。ボールに力があり、攻略するのが難しい投手でした。日本球界復帰後も対戦しましたが、"バックドア""フロントドア"と呼ばれる変化球を駆使し、力強さにうまさが加わりました。
── 最後はどなたですか。
荒木 館山(昌平)投手です。右のサイドハンドから威力のあるストレートとシュートは強烈でした。なかなか踏み込ませてもらえない投手でしたね。3人の投手に共通するのは、150キロ台のストレートと球のキレですね。とらえたと思っても前に飛ばない。打つのが大変な投手でしたね。
── 現役時代を振り返って、うれしかったこと、逆につらかったことは何ですか。
荒木 一番うれしかったのは、2007年の日本シリーズで最後の打球を処理し、53年ぶりの日本一を達成したことです。4度リーグ優勝を経験させていただきましたが、日本一の美酒の味は別格でした。逆につらかったのは、プロ入りして4年目、5年目あたりですね。自分がプロでどうなるかわからない、暗中模索の時期でした。今となってはいい思い出ですが、当時はキツかったですね。
── 将来はどんな指導者になりたいですか。
荒木 強制しない、選手それぞれに合った指導ができるようになりたいですね。その考えは誰かに影響されたというわけではなく、これまで野球をやってきたなかで培ってきた感覚です。今後、自分のなかで目指すべき野球の方向性が固まっていくと思います。そのために外から野球を勉強したいと考えています。
荒木雅博(あらき・まさひろ)/1977年9月13日、熊本県生まれ。熊本工高から95年ドラフト1位で中日に入団。02年からレギュラーに定着し、落合博満監督となった04年から6年連続ゴールデングラブ賞を受賞するなど、チームの中心選手として活躍。とくに井端弘和との「アラ・イバ」コンビは中日黄金期の象徴となった。17年にプロ通算2000安打を達成し、翌18年に現役を引退した。引退後は中日のコーチとして23年まで指導し、24年から解説者として新たなスタートを切った