石毛宏典が語る黄金時代の西武(10)

渡辺智男 後編

(前編:PL学園時代の清原和博から3奪三振 西武・渡辺智男の「真っすぐ」のすごさ>>)

 ルーキーイヤーから3年連続で2桁勝利を挙げるなど、西武黄金時代の後期に先発投手として活躍した渡辺智男(わたなべ・とみお)氏。石毛宏典氏がエピソードを語る後編では、渡辺氏の投球フォームに関する2人のやりとりなどを聞いた。


1990年の巨人との日本シリーズ第3戦で完封勝利を挙げた渡辺智男 Photo by Sankei Visual

【日本シリーズに初先発で初完封】

――渡辺さんはルーキーイヤーの1989年に10勝(7敗)、翌90年は13勝(7敗)、さらに翌91年には11勝(6敗)を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得しました。特に1990年は、石毛さんが「西武・黄金時代の中でも最強の年」と言うチームの一翼を担う存在だったと思います。

石毛宏典(以下:石毛) 1990年の智男は、近鉄やオリックスといった優勝争いのライバルチームとの試合でよく投げていましたし、森祇晶監督から信頼されていることが伝わってきました。あと、同年の日本シリーズ(西武が巨人に4連勝して日本一)ですごくいいピッチングをして、日本一に貢献してくれましたね。

――日本シリーズ第3戦で先発登板し、シリーズ初登板・初完封勝利を挙げていますね。この時の相手が、春のセンバツ(1985年)の準決勝(伊野商vsPL学園)でも投げ合った桑田真澄さんでした。

石毛 初めての日本シリーズで普通は緊張すると思うのですが、自信を持って堂々と投げていましたね。先ほど(前編で)も話しましたが、さっぱりしていて、いい意味で細かいことを気にするタイプではなく、マウンドでは飄々(ひょうひょう)としていました。

 その試合でどんなピッチングをしたかまでは覚えていないのですが、このシリーズの第1戦に投げたナベちゃん(渡辺久信氏の愛称)や、第2戦で投げた工藤(公康)、第4戦で投げた(郭)泰源らほかの先発に引けを取らないピッチャーだったと思います。

【投げ方について、石毛に語った決意】

――プロ3年目まで目覚ましい活躍を見せた一方、その後は肘や腰などの故障に泣かされました。

石毛 私はピッチャーではないので感覚的な印象になってしまうのですが、智男が入団した時から投げ方が気になっていたんです。腕に力を入れて担ぎ上げるようにして投げるので、「肩や肘に負担がかかってしまうんじゃないか」と見ていました。

 一度、本人に「投げ方を変えてみたらどうだ」と提案してみたことがあるんです。ピッチャーの場合はわかりませんが、野手の場合は、打てなくなったらバッティングフォームを変えることがよくあるので。

――渡辺さんの反応はいかがでしたか?

石毛 「僕はこの投げ方でいいんです。短命で終わってもいいんです」って言っていましたね。智男の投げる真っすぐの伸びはものすごかったですが、"諸刃の剣"というか、
あの投げ方だから投げられていたのかもしれません。いずれにせよ、本人はそんな覚悟で投げていたということですね。

――諸刃の剣というと、伊藤智仁さん(元ヤクルト)の曲がりの大きい高速スライダーを思い出します。伊藤さんはルーキーイヤー(1993年)前半の活躍が衝撃的でしたが、肘の故障で7月に戦線を離脱。シーズン中は復帰しませんでしたが、同年の西武との日本シリーズに「ひょっとしたら出てくるんじゃないか?」と石毛さんは警戒していたとのことですね。

石毛 自分がそう言ったのは、おそらく日本ハムとのプレーオフの件(※)があったからだと思います。骨折して「登板はないだろう」と思っていた工藤幹夫が、プレーオフ第1戦で先発してきたんです。試合には勝ったのですが、シーズン中と同じように完ぺきに抑えられてしまいました。

 結局、伊藤は日本シリーズに出てくることはありませんでしたが、ヤクルトは野村克也監督でしたし、「奇襲を仕掛けてくるんじゃないか」という警戒心は持っていました。伊藤のスライダーは「ベースの端から端まで曲がる」と言われていましたからね。

(※)1982年、前期優勝の西武と後期優勝の日本ハムがプレーオフで対戦(1973年から1982年まで、パ・リーグはシーズンを65試合ずつの前期・後期に分け、それぞれの優勝チームがプレーオフで年度優勝を争った)。同年にリーグ最多の20勝を挙げた日本ハムのエース・工藤は、9月8日に右手小指の付け根を骨折。プレーオフでの登板はないと見られていたが、10月9日のプレーオフで先発登板した。

――投球フォームといえば、石毛さんは渡辺久信さんに対して、「左足を踏み込んでいく時に、セカンド側に右腕をポーンと下ろしてからピュッと上げるような感じ。完成されたフォームという印象を入団時から持っていた」と話されていました。渡辺久信さんは大きな故障をせずに長年投げていましたし、石毛さんの投球フォーム評は鋭いですね。

石毛 投球フォームに対して科学的な見識があるわけではないですし、たまたまですよ。でも、バッター目線の意見みたいなものが、ピッチャーにとっていいヒントになることもあるのかもしれません。

――渡辺智男さんの話に戻しますが、現役生活は通算8年。1994年にはダイエーに移籍し、再起をかけてサイドスローへ転向するなど試行錯誤していましたが、結果にはつながりませんでした。

石毛 もう少し長く投げていた印象があるのですが、振り返ってみると、西武で合計6年しかやっていないんですね(1989年〜1993年まで西武、1994年〜1997年までダイエーに在籍。1997年オフに金銭トレードで西武に復帰するも1998年限りで現役引退)。でも、一軍で先発ローテーションに入る時期があったわけですから、ある面では成功者じゃないですか。

 プロになれても、一軍に1度も上がれずに辞めていく選手も多くいる中で、短命であろうが一軍で活躍できた、世に自分をお披露目して知らしめることができたというのは、よかったんじゃないかなと。

 投球フォームを変えてしまっていたら、バッター目線でのボールの見え方が違ったりして、打ちやすくなっていた可能性もある。あの投球フォームだからこそ、審判員が「西武のピッチャーの中で一番すごい」と言うほど伸びのある球が投げられたのかもしれません。全盛期のピッチングは見事でしたし、記憶に残るピッチャーだったと思いますよ。

(連載11:「史上最強」1990年の西武は、平野謙という「つなぎ役」の加入によって完成した>>)

【プロフィール】

石毛宏典(いしげ・ひろみち)

1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。