連載 怪物・江川卓伝〜衝撃の高校2年生(後編)

 3年生が引退し、先輩たちに変な気を遣っていた江川卓もとうとう最上級生になり、新チームが結成された。高校2年夏の勢いのまま、栃木県秋季大会を危なげなく勝ち進み、翌春のセンバツ大会出場が決まる関東大会に進んだ。


2年秋の栃木大会を制し、優勝旗を持って場内一周する江川卓(写真左から2人目) Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Images

【1安打、20奪三振の快投】

 1972年11月2日、秋季関東大会が千葉県銚子市で開幕。開会式直後の1回戦、作新学院は群馬県代表・東京農大二高との試合に臨んだ。江川が東京農大二高打線を6回まで毎回の13奪三振、1安打に抑え、打っても5打数4安打3打点。7回からアンダースローの大橋康延に継投して、8回コールドの10対0で快勝。江川が入学して以来、県外のチームをコールドで破ったのはこれが初めてだった。この勝利で作新は完全に勢いにのった。

 11月4日、準決勝の相手は千葉県代表の銚子商業。この試合に勝てばセンバツ当確という大事な試合。江川が異次元の力を見せつける。この試合にスタメン出場した銚子商の9人に、江川のボールについて聞いた。

1番・ライト/多部田英樹/4打数0安打1三振
「怖いくらいの威圧感があった。軸足を上げてから(ヒールアップ)2メートルくらい近づいてくる感じがした」

2番・サード/宮内英雄/3打数0安打2三振
「オレの打席では4〜5割の力で投げていたんでしょうが、なんじゃこれっていう球でした」

3番・ショート/磯村政司/3打数0安打2三振
「バッターボックスに入ったら、異様なオーラを感じました。カーブなんて2階からズドーンとくる感じで。真っすぐもすごいですから。今まで対戦したなかで最高のピッチャーですね。そのままプロに入っていたら、20勝ですよ」

4番・センター/飯野哲也/3打数0安打3三振
「ストレートとカーブの見極めが全然できない。とくに低めの球は、ボールだと思ったのがホップしてすべてストライクになる。初めて見た球でした」

5番・キャッチャー/木川博史/3打数0安打2三振
「フォームがゆったりしているのに球が速いから、とにかくバットを短く持って、バッターボックスの一番ベース寄りに立ち、右方向へと思ったのですが、細工が通じない。スケールの違うボールでした」

6番・ファースト/岩井美樹/2打数0安打2三振1四球
「高校生のなかにひとりだけメジャーリーガーがいるって感じですよ。当時のプロ野球界の誰よりも速かったんじゃないですか」

7番・レフト/青野達也/3打数1安打2三振
「真っすぐを狙って1、2、3で打ったという感じですね。とにかく江川以上のピッチャーに会ったことがありません」

8番・セカンド/宮内清/2打数0安打2三振
「2打席だったんですけど、配球は同じなんです。ストレート、ストレート、1球外してカーブ。配球がわかっていても打てないんですから。もうすごいというしかありません」

9番・ピッチャー/飯田三夫/2打数0安打2三振
「真っすぐとカーブしかないけど、今まで見たことのないドーンという球がきました。あれだけのボールを投げるヤツって、もう出てこないでしょう」

 この日の江川の投球内容は、打者29人に対し被安打1、四球1、内野ゴロ3、内野フライ2、外野フライ2、三振20。試合は4対0で作新学院が快勝した。江川卓伝説が神話になった試合だった。

【名将も認めた江川卓のすごさ】

 11月5日、関東大会決勝の横浜高校戦。銚子商に勝ってセンバツ出場をほぼ手中にした作新の勢いは、止まるどころかますます加速していく。結果は6対0で作新が勝利して優勝。江川は4安打16奪三振の快投で、楽々完封勝利。もはや16奪三振では誰も驚かなくなっていた。

 この試合、1年生で1番・ショートでスタメン出場した上野貴士はこう述べている。

「江川さんが2年夏に3試合連続ノーヒット・ノーランを達成するなど、新聞紙上を賑わせていたので名前は知っていましたが、開会式直後の試合(対東京農大二高)を見てぶったまげました。真っすぐは速いし、カーブはすごいし、とてもじゃないけど勝てないと思いました。2年の先輩たちも『あんなピッチャーいねぇだろう』と言っていましたね。初回、先頭バッターで江川さんのボールを見た時、『こりゃ無理だ』と思いました。真っすぐを待とうと思ってもカーブが来たら腰が引けるし、最初の1打席で当てるのが精一杯でした。『オレは1年生だよ、少しはナメてくれよ』と思いましたね」

 高校卒業後、ヤクルトに4位指名(入団はせず東芝に入社)されるほど俊足巧打で鳴らした上野でさえお手上げ状態だった。

 江川が高校時代、もっとも印象深いバッターとして真っ先に名前を挙げたのが、静岡高の植松精一(元阪神)と横浜高の長崎誠(元リッカー)だ。長崎は江川の出場したセンバツ大会で2本の本塁打を放ったほどの強打者。求道者のような佇まいを醸し出す長崎は、微笑みながら静かに答えてくれた。

「高校2年春の関東大会で成東の鈴木孝政(元中日)と対戦して3打席3三振で9回バット振って1回も当たらなかったんですけど、それでも怖さもなく打てる気がしたんです。でも江川は違います。打てるとかじゃなくて、当たる気がしないんです。軽くヒョイっと投げているのがバットの上を通り、カーブはぶつかりそうなくらいドライブが鋭いし、やっている次元が全然違う感じがして、カルチャーショックを受けました」

 横浜高ナインは、自分の打順が来て前のバッターとすれ違うたびに「どうだった?」と聞くが、みんな青ざめた顔で「球が見えねぇよ」とうつむいて答えるしかなかった。

 高校野球史に残る名将として名高い元横浜高の渡辺元智監督は、この時はまだ血気盛んな26歳の青年監督であった。

「松坂(大輔)は高校2年の明治神宮大会でちょっと名が知れた感じでしたが、江川は1年から特別で、そのすごさは耳に入っていました。たしかに松坂のボールのキレもすごかったですが、江川は低めからグィーンとホップしてくる。バットにかすらない。試合中に対策なんてできなかったです。今だったらバッティングマシンを150キロにセットしてガンガン打たせればいいですけど、あの当時はなかったですから。それに野球知識も豊富じゃありませんでしたし、走らせようと思ってもランナーが出ないですから。ただ関東大会の決勝で江川と戦ったことで、選手たちの目標が高くなったのは間違いないです。センバツで優勝するには"打倒・江川"しかないと」

 渡辺監督にあえて質問してみた。「江川卓と松坂大輔、どっちがすごかったか」と。渡辺監督は即答した。

「江川ですね。リズムとかバランスを考えると江川はちょっとぎこちなく、松坂のほうがバランス、リズム、タイミング、フィールディングなど、総合的には上かもしれませんが、球そのものの速さ、変化球のキレは江川が上でしょうね。時代は違いますが、投げ方など、松坂は尾崎(行雄)に似ているなって感じがしました。江川はちょっと異質でした。高校生でも近寄りがたい風格のある選手っていますよね。そういう意味で、江川は松阪よりも独特のオーラを持った選手でした」

 渡辺監督と二人三脚で常勝・横浜を築き上げた小倉清一郎氏にも同じ質問をぶつけてみた。

「松坂とは問題にならないですね。まず、あれほど伸びる高めの真っすぐを投げる投手はいない。今のスピードガンで計ったら、158キロから159キロくらい出ていたと思います。対策といっても、やりようがない。ヘルメットを深く被らせて高めを振るなといっても、ストライクですからね。コントロールもいいし、攻略などできない。ただ、江川の高校時代の練習量は松坂の半分もやってないでしょう。私の全盛期に江川を教えたら、もっとすごくなっていたでしょうね。松坂を鍛えたような練習をやらせれば......。まあ、江川は練習しなくてもあれだけのボールを投げられるんですから、天才なんでしょうね。モノが違います。いま投げても、三振の数はあまり変わらないと思いますよ。歴代ナンバーワンです」

 小倉にしてみれば、高校時代の江川を育てみたいというのは本心だろう。もしそれが実現していれば、高校野球のみならず、日本のプロ野球界の歴史も変わっていたかもしれない。

 江川の野球人生でもっとも"怪物"らしかった時期でもある高校2年秋の関東大会。たった3試合ではあったが、そのインパクトは強烈な輝きを放っていた。

前編<江川卓に対し「裏切り者のチームに負けるな」9回まで無安打投球も小山高の執念に屈し作新学院は甲子園出場を逃した>を読む


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している