連載 怪物・江川卓伝〜衝撃の高校2年生(前編)

 甲子園大会が開催されてから108年、地方大会を見ても3試合連続ノーヒット・ノーラン(うち完全試合1)の大記録を達成しているのは、江川卓ただひとりである。1972年夏の栃木県ブロック大会決勝は、「前人未到の4試合連続ノーヒット・ノーランなるか?」に注目が集まっていた。

「江川と小山(高)でバッテリーを組んでいたら、夏の甲子園は優勝でしたよ」

 かつて栃木県ナンバーワン捕手として県下にその名を轟かせ、のちに法政大で江川とチームメイトとなる小山高のキャッチャー・金久保孝治。彼に当時のことを聞くと、第一声がこの言葉だった。


圧倒的な投球を見せた高校2年夏の江川卓 Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Images

 金久保は中学時代に江川と対戦し、一瞬にしてその才能に惚れ込んだ。江川が小山高の願書を出したと聞き、金久保も迷わず志望。高校で江川とバッテリーが組めると心躍らせていた矢先、試験前日に江川の父・二美夫から電話があった。

「ウチの息子は小山高校には行かない」

 衝撃的だった。たしかに、江川から「小山に行くから一緒にやろう」とは言われていない。だが、「江川が小山に行くならオレも!」という気持ちで進学を決めたのは、金久保だけではなかった。のちに小山の主力メンバーとなるほとんどの選手が、同じ思いでいた。

「作新と試合をしたのは公式戦のみで、高校2年の夏が初めての対戦でした。作新は小山とやりたくなかったんじゃないですか。いろいろありましたし......」

 そう語る金久保だが、江川に対して恨むとかといった感情は一切ない。それよりも江川とバッテリーを組みたかった。その一心に尽きる。空前絶後の才能を持った江川は、自分の意思とは関係なく、常に多くの人を巻き込んだ。

【小山高との因縁の対決】

 そして運命の対決が、いよいよ始まった。

 作新と小山の一戦は、試合前から観客のボルテージは最高潮に達した。内野スタンドは満員、外野スタンドも立ち見で超満員。球場の石塀に登って観戦する人、球場のネットを張る鉄柱に足をかけて見る人たちなどで溢れ、「これ以上入場するのは危険」と入場券の発売を中止した。

 江川にとって小山は地元であり、小山高校に進学予定だったという話をスタンドの応援団は知っていた。この時の作新のメンバーに、小山出身の選手は江川を含め3人いた。試合前から「裏切り者のチームに負けるな」と、小山高の応援団はヒートアップしていた。まさに"因縁の対決"である。

 12時50分、プレーボール。江川の豪速球がうなりを上げて小山打線に襲いかかる。3回が終わって6奪三振。江川にとっては、もはや普通の滑り出しだ。

 4回裏、小山の攻撃。先頭打者がフォアボールで出塁すると、すかさず二盗に成功し、無死二塁と絶好のチャンスをつくる。だが、次の打者が送りバントを空振りし、二塁走者が飛び出しタッチアウト。一瞬にしてチャンスは潰えた。

 ベンチではバント失敗の打者を責めるというより、バットに当てさせなかった江川のスピードに呆れ返っていた。

「横から見ていても、球が浮き上がっているのはわかりました」

 だが金久保は、9回までノーヒット・ノーランに抑え込まれていても負ける気はしなかったと語る。強気の発言かと思い何度も聞き返したが、答えはひとつだった。

「向こうも点はとれないから。負ける気はしなかったですね。ただ『試合は長くなるだろうなぁ』と思っていました」

 県内の選手たちは「江川の実力は認めるけど、作新だけには負けねぇ」と、その強い信念で野球をやっていた。他県のチームは初めて見る"怪物"に衝撃を受け、呆気にとられている間に試合が終わってしまう。しかし県内のチームは「江川は攻略できないが、作新も点がとれない」といった心理が働き、最後まで粘りがあった。

 作新もチャンスがなかったわけではない。3回、5回は得点圏にランナーを進め、8回には一死二、三塁という絶好のチャンスを迎えたが、後続が倒れ無得点。のちに江川は少し感情をあらわにしながら、この試合を説明した。

「8回に作新が一死二、三塁にしたんですよ。次のバッターがピッチャー強襲のライナーを放ち、小山高のピッチャーが捕ったと思ったら、そのままグラブを落としたんですよ。拾ってファーストへ投げてツーアウト。それでセカンドに投げたのかな。相手は(併殺と勘違いしてベンチに)帰っちゃった。(ノーバンでの)捕球じゃないから、僕は『回れ、回れ』って大きな声で言ったんですよ。でも、サードランナーはそのままベンチに帰ってきちゃった。その時、サードランナーがホームを踏んでいたら、ヒット1本も打たれずに甲子園に出られたんですから。漫画みたいなシーンでしたよ」

 9回が終わり、実質4試合連続ノーヒット・ノーランを達成するも、0対0のまま延長戦へ。これ自体も漫画的展開だ。

【37イニングぶりの安打】

 だが10回裏、二死から3番打者にセンター前にふらふらっと落ちるテキサスヒットを打たれる。じつに37イニングぶりの安打だった。このヒットにより小山ベンチ内は大いに盛り上がった。

「よーし、打てる、打てるぞ!」

 この勢いは、次の回につながる。11回裏、小山の攻撃。この回先頭の4番・金久保は初球のストレートを力で持っていきセンター前ヒット。

「絶対江川に勝ってやる!」

 積年の恨みではないが、勝利への飽くなき執念が金久保を駆りたてた。

 この回が勝負とみた小山の小林松三郎監督は、5番・和田幸一に送りバントのサインを出す。だが、和田は2球続けてカーブをバント空振り。これでツーナッシング。

「やべぇ、バットに当たらねえ」

 焦燥感に満ちた和田に、監督の小林は「打て!」のサインに変更した。

「なんとかしなきゃ」

 必死の思いで、和田はベースに思い切りかぶさった。すると、外角アウトコースに来たストレートにポンッとバットを出した打球はライト前に転がった。これで無死一、二塁。次の打者がバントで送り、一死二、三塁。ここで作新バッテリーはスクイズを警戒しつつも、ストレートでワンストライク。

 この時、作新ベンチ内はスクイズを警戒して「外せ」のサインを出す。ところが、作新のキャッチャーはカーブのサインと勘違いしてしまった。江川はサインに頷き、セットポジションから投球モーションに入る。

「スクイズだ、外せ!」

 作新の部長・山本理はベンチから大声で叫んだが、遅かった。江川が投げた渾身のカーブをバッターはスクイズ。投手前に絶妙な形で転がし、江川はマウンドから脱兎のごとく駆け下りボールを処理しようとしたその時、足を滑らせ尻もちをついてしまった。江川は、このシーンを今でも鮮明に覚えている。

「ベンチは『外せ』っていうサインだったらしいんですけど、キャッチャーがカーブと間違えたみたいで......それでカーブを投げたんです。タテに曲がるカーブだったのですが、バッターがバットをタテにしたんです。ウソみたいでしょ(笑)。で、尻もちをついたんじゃなく、捕って投げようとしたんですけど、右ヒジが地面について投げられなかったんです。次の日の新聞に"江川、尻もちついた"と出たんですけど、横になりながら投げようとしたんです。それができなかった。練習していなかったんで(笑)」

 三塁走者の金久保は悠々とホームインし、泥だらけになりながら飛び上がって大粒の涙を流した。

 0対1、作新のサヨナラ負け。江川がこの日投じた105球目は、まさに両者の明暗を分ける1球となった。小山高の小林監督は試合後、「(試合が)長引けば勝てると思いました」とコメントしているが、実際はどうだったのだろう。後年、小林監督はこう語ったという。

「高校生じゃ、江川の球を打てるわけがねぇ。ありゃ打てねえ」

 勝負は時の運と言うが、作新を応援するファンはこの試合の結果を黙って見すごすわけにはいかなかった。作新ファンにとっては予想もしないサヨナラ負けに、堪忍袋の尾が切れたのか、痛烈なヤジが球場にこだました。

「バカヤロー、江川を見殺しにするのか。打てねぇで勝てるか!」

 ヤジだけでなく、石や空き缶を投げつける始末。球場は騒然とし、作新ナインはなかなかベンチから出ることができなかった。

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江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している