田中順也インタビュー(2)

(1)非エリートだった田中順也が振り返る自らのターニングポイント「ガラッと変わった」>>


自らの現役生活を振り返る田中順也。photo by Sano Miki

 韓国でのキャンプをきり上げ、「スパイクとレガースだけを持って、ほとんど体ひとつで」ポルトガルへと飛び立った田中順也。初めての海外移籍、しかも、まったく準備をする暇がない突然の渡欧とあっては、苦労がなかったはずはない。

「身体能力の違いもありますし、文化とか、言葉の違いもありますし、当時トップフォームだったものがちょっとずつこう......、やっぱり感覚的に落ちるというか、日本ではあまりなかったボールロストが増えて、それでちょっと自信がなくなったりとか、そういう難しさはありました」

 しかし、幸いにも、彼の地で巡り合った指揮官との相性は悪くなかった。

 当時スポルティングCPを率いていたマルコ・シルバは、田中曰く、「次世代のモウリーニョと期待されるくらい、評価の高い監督でした」。実際、当時まだ30代だった若き知将は、その後、イングランド・プレミアリーグで監督を歴任し、現在もロンドンの古豪、フラムFCを指揮している。

「僕も、いい監督だなと思っていました。練習メニューとか、1週間のモチベーションの持っていき方とかが、ネルシーニョにすごく近かったので、僕にとっては、こんなに運がいいことがあるのかっていう感じでした」

 1年目の2014−2015シーズンにしても、「(日本にいた時より)ちょっと調子が落ちたとはいえ、リーグ戦では5点取れたし、カップ戦も合わせると7点取れました」。

 決して満足いくものではないとしても、それほど悪くはない数字である。

「マルコ・シルバからは、チャンピオンズリーグの試合にも(帯同メンバーとして)連れていってもらって、『この場に慣れて、来季は出るんだぞ』という愛情を感じました。だから、選手のマネジメントもうまくやる監督なんだなと感じて、すごく信頼できたし、それに応えて自分も早く(チャンピオンズリーグに)出たいと思いました」

 よし、来シーズンはもっとチームにフィットして10点取ろう。弱気になっちゃダメだ――。田中は1年目のシーズンを終え、そんな思いを強くしていた。

 ところが、である。

 信頼していたマルコ・シルバは、オフに監督を退任。2年目のシーズンを前にリスボンのライバルクラブ、ベンフィカからジョルジュ・ジェズスが新監督としてやってきたことで、田中を取り巻く環境は「ガラッと変わってしまいました」。

 レギュラーポジションをつかむどころか、紅白戦にすら出させてもらえない。「下手したら、(下部リーグに所属する)チームBに回されるくらいの、もうお荷物みたいな感じで扱われていました」。

 それでも、指揮官の目をこちらに向けさせるべく、田中は必死で食らいついた。

 たまに巡ってくる出場機会で優れたパフォーマンスを発揮しても、次の試合では何事もなかったように再びメンバー外。「謎の外され方をするので、その労力はすごく大変だった(苦笑)」が、田中は少しずつ上り坂を這い上がっていく。少なくとも、そのための努力だけは怠らなかった。

 すると、ジョルジュ・ジェズスはミーティングでこう言い放ったという。

 タナカはこんなに成長しているんだぞ。おまえらももっとやれるだろ!――。

「『じゃあ、オレを使えよ』と思いますよね。そういうことがあって、もうこの監督の下にいる限りダメだろうなって思いました」

 振り返れば、ポルトガルへ渡ると決めた1年前、自分が韓国でキャンプを行なっている間にも、地球の裏側ではワールドカップの激闘が繰り広げられようとしていた。その場にいられない自分に、「当時は悔しさがありました」。

「自分はゴールもアシストもできるっていうのが武器で、運動量もあった。それに、自分のなかでは"勝ちグセ"みたいなものがあったので、自分がいたほうがチームを勝たせられるっていう自信がすごくあって、だから、(日本)代表にも入りたかったんですけど......」

 だがその一方で、「調子のいい選手が本当にたくさんいて、(大久保)嘉人さん、柿谷(曜一朗)、大迫(勇也)と、(ワールドカップメンバーに選ばれたFWは)みんな僕よりもゴール数が多かった」ことも理解していた。

 ちょうど2013年〜2014年は自身のキャリアにおいて最も調子がよかったが、「何年も前からずっと活躍している人たちがたくさんいたので、そういう人たちが代表に入るほうがいいのかなとも思っていた。自分はアピールが足りなかった」とは、田中の述懐である。

「だから、(2018年ワールドカップへ向けて)本当はスポルティングでもっと試合に出て、チャンピオンズリーグにも出て、代表に定着するのが最大目標でしたけど、そこは難しかったですね」

 スポルティングと結んだ5年契約は、まだ1年半を終えたばかり。この監督の下で耐え忍ぶのか。それとも、移籍するのか――。田中は否応なしに決断を迫られていた。

「ポルトガル国内の別のチームの(移籍の)話もあったし、他にもドイツ2部とかの話もありました。でも、どこへ行っても環境的には結構過酷で......。やっぱりJリーグって世界的に見ても環境面は整っているので、そういう条件の悪いところに家族を連れていってプレーするのは難しいなっていう気持ちはありました」

 田中にとっても、妻にとっても、リスボンでの生活は快適そのものだった。夫妻には「ちょうど(スポルティングへの)移籍手続きが完了した頃に生まれた」小さな娘もいたが、日々の暮らしには何の問題もなかった。

「だから、リスボン以外の都市に行くっていうのはちょっと考えにくかったんです。もしも独身だったら、いろんなところへ行っていたかもしれないですけどね。今は(日本人選手が)みんな海外で家庭を持って生活して、サッカーでも活躍している。すごいなって思います」

 できることならスポルティングで続けたいけれど、このままでは蚊帳の外。はたして田中が出した結論は、「日本に帰ろう」だった。「まだ28歳だし、もうひと花咲かせたい」と、Jリーグ復帰を決めた。

「あの時考えていたのは、日本でもう一回活躍しようということだけでした。(期限付き移籍での日本復帰ではあったが)またスポルティングに戻ってくるっていう選択肢は、もうあの時点でなかったですね」

 これまでの現役生活を振り返り、「あそこはすごく難しい判断で、かなり迷いました」と田中。複雑な表情を浮かべて、こう続ける。

「だからあの時、夢をひとつ諦めたんです。チャンピオンズリーグに出たいという夢を」

 その言葉を裏づけるように、現役生活でやり残したことはないのか? と田中に尋ねた時、間髪入れずに返ってきた答えもまた「チャンピオンズリーグ出場」だった。

「1年目の時にチャンピオンズリーグの試合にも帯同していて、でも、いつもベンチ外なんですよ。20人くらい連れていってくれて、2人だけベンチ外になるんですけど、僕は常にベンチ外。どこかで出たいと思ってやっていたけど、結局、出られなかった。(スタンドで)アンセムだけ聞いて帰ってきました(苦笑)」

 2014年10月にはチャンピオンズリーグのグループステージで、同学年の内田篤人を擁するシャルケ(ドイツ)との対戦も経験した。

「その試合にも僕は帯同していて、ウッチーは試合に出て、シャルケが勝って、『すごいな』って思うと同時に、『自分も出たかったな』『日本人対決したかったな』って。ウッチーとユニフォーム交換もしたんですけど、その時はいろんな感情がありました」

 帯同メンバーから、まずはベンチ入り。そして、いずれはピッチに立つ――。そんな願いは、ついに最後までかなえられることがなかった。

「(同じグループステージで)チェルシーともやりましたけど、(チャンピオンズリーグ出場という夢の実現が)もう目の前にあるのに届かない。僕は帯同メンバーに入っていて、残すはベンチ、ピッチと、"あと2歩"のところまで来ていたのに......、あの悔しさはこれから先もずっと忘れないですね」

 とはいえ、田中曰く、「欲深いことを言いだせばキリがない。悔いはあるけど、(チャンピオンズリーグに)出られずに(日本に)帰るっていうのは自分で決断したことなので」。

 実際、Jリーグ復帰に際しての決心がどれだけ強固なものだったかは、その後の歩みが証明している。

 2016年、田中はスポルティングから期限付き移籍で古巣・柏レイソルに復帰すると、翌2017年には、ヴィッセル神戸がスポルティングから田中の保有権を買い取り、完全移籍。神戸とは3年の契約を結んでいる。

 それまで無冠だった神戸に、自分が初タイトルをもたらす――。田中は次なる目標に向け、腰を据えて取り組む覚悟ができていた。

「僕は『3年の間にタイトルを獲ります』と言って、ヴィッセルに入った。ギリギリ3年目でしたけど、(2019年シーズンに)天皇杯を獲れたのでよかったです」

 キャリアにおける重要な判断を下す時、当然、得るものもあれば、失うものもある。

 だが、そのどちらについて語る時も、田中の表情が曇ることはない。

「よかったことも、悔いが残ったことも、一つひとつ挙げれば、他にもいっぱいありますからね。

(2015年ポルトガルリーグ第16節の)ブラガ戦での(決勝点となる)FKを決めたのも、(2019年J1第24節のサガン鳥栖戦で)イニエスタとのワンツーから、最後に(古橋)亨梧からパスをもらって取れたゴールも、僕にとっては本当にすごい財産。タイトルもたくさん獲れたし、幸せな現役生活でした」

(文中敬称略/つづく)◆田中順也が「娘から辞めないで」と言われながら現役引退を決断したわけ>>

田中順也(たなか・じゅんや)
1987年7月15日生まれ。東京都出身。順天堂大4年時に特別指定選手として柏レイソルでプレー。翌2010年、柏入り。同年のJ2優勝、翌年のJ1優勝に貢献した。2011年には日本代表にも選出され、2012年2月のアイスランド戦で代表デビューを飾る(国際Aマッチ出場4試合)。2014年夏、ポルトガルのスポルティングCPに移籍。2016年、期限付き移籍で古巣の柏に復帰し、2017年にヴィッセル神戸に完全移籍。2022年からはJ3のFC岐阜でプレー。2023年シーズンを最後に現役引退。2024年、FC岐阜のクラブアンバサダーに就任し、同クラブのアカデミーコーチとしても活動する。