「なんだ、この世界は?」非エリートだった田中順也が振り返る自らのターニングポイント J2優勝→即J1優勝で「ガラッと変わった」
田中順也インタビュー(1)
昨季限りで現役を引退した田中順也。photo by Sano Miki
強烈な左足のキックを武器に、ダイナミックなプレーでサッカーファンを魅了した田中順也が、2023年シーズンを最後に現役生活の幕を下ろした。
順天堂大学卒業後、柏レイソル入りした田中は、ルーキーシーズンの2010年にJ2優勝、翌2011年にはJ1昇格1年目での優勝というJリーグ史に残る偉業達成に貢献。その後、ヴィッセル神戸、FC岐阜の他、スポルティングCP(ポルトガル)にも所属し、ポルトガルリーグはもちろん、UEFAヨーロッパリーグでもプレーした。
その間には、J1、J2だけでなく、天皇杯、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)と、国内タイトルを次々に獲得。スポルティング時代も、リーグ優勝こそならなかったが、カップタイトルを手にしている。
いわば、田中順也の行くところに優勝あり。多くの栄光に彩られたキャリアは、実に華やかなものだ。
「本当に限界まで努力して、自分のポテンシャル、可能性は全部出しきったなって。だから、やりきったなっていう思いはあります」
そう話す田中のすがすがしい表情が、いかに彼の現役生活が充実したものだったかを物語る。
とはいえ、若かりし日の田中は、「年代別の(日本)代表にも入ったことがないし、それこそ中学時代はベンチ外だったりして、全然エリートじゃなかった」。
そんな"非エリート"が、なぜこれほどの栄誉に浴することができたのか。
そこに至るには、ターニングポイントとも言うべきいくつかの重大事があったのだが、田中は「そのほとんどすべてが(柏での)最初の5年に詰まっている。最初の5年で自分の実力を証明できて、それで海外が見えてきたんです」と振り返る。
「まずひとつ目は、僕が強化指定(特別指定選手)でレイソルに来た時に、ネルシーニョが来てくれたこと。それはもう絶対です」
2009年夏、当時順大4年だった田中は、Jリーグが定める特別指定選手制度によって柏に加わり、J1で9試合に出場(うち先発出場6試合)しているのだが、時をほぼ同じくして柏にやってきたのが、チームの低迷脱出を託された新監督、ネルシーニョだったのである。
「その時、レイソルの調子が悪かった(J2降格危機にあった)んですけど、チームを立て直すために大学生を抜擢するなんて日本人の監督なら絶対にしないのに、ネルシーニョにはその固定観念みたいなものがなく、(特別指定の大学生でも)ピッチでよければ使うって感じでした。結局、レイソルはその年、(J2へ)降格しちゃうんですけど、僕にとってはあそこが完全にターニングポイントです」
当時の田中は目立った実績もなく、大きな注目を集めていたわけでもなかったが、「大学生の時、自分は『すごい選手になる! 海外に行く! 世界のタナカになる!』って、友だちにふざけて言ってました(笑)。よくそんな大それたことを言ってたなと思うんですけど、でも、自分では自信があったんです」。
正式なプロ入りを前にJ1のピッチに立ったことで、漠とした自信が確たるものへと変化していったことは想像に難くない。
「(ターニングポイントの)ふたつ目は、(プロ)1年目をJ2からやれたってことですね。その時にレアンドロ(・ドミンゲス)がいて、J2で圧倒的に優勝できたことです」
すでに前年、特別指定選手としては十分すぎるほどの出場機会を得ていたとはいえ、もしも柏がJ1に残留していれば、新人の田中にそれほど多くの出番が回ってくることはなかった、あるいは、出場できてもJ1の高いレベルに苦しんでいたかもしれない。
だが、ネルシーニョはJ2でのシーズンを通じて、J1で戦うためのチームのベースを構築。その過程において、大卒ルーキーも着々と自身の地位を確立し、そのうえで晴れてJ1挑戦と、段階的にステップアップすることができたのである。
「そして3つ目は、J1優勝。その後もポルトガルへ移籍したり、いろんなことがありましたけど、とにかくレイソルで最初に強化指定で出られたことと、J2で優勝してJ1でも優勝したことで、僕の人生はもう完全にガラッと変わりました」
「世界のタナカになる!」と豪語していた大学生も、その実、「育成年代で全国優勝したこともないし、大学リーグも下位(大学4年時は関東2部)だったし、勝ったことがないので勝ち方がわからなかった」。
ところが、「とりあえず、監督と先輩の言うことに必死に応えてプレーしていたら、チーム(柏)が優勝しちゃった」のである。
「僕にしてみれば、『なんだ、この世界は?』ですよ(笑)。たまたま僕がレイソルに入った時に、勝てる監督が来て、勝てるメンバーがそろって、そのなかのひとつのピースとして、僕は本当にうまくハマったんです」
田中にとりわけ大きな影響を与えたのが、「こうやったらサッカーは勝てるのか、っていうひとつの基準を強烈に示してくれた」ネルシーニョであったことは間違いない。
日々のトレーニングを通じて、「サッカーってすごくシンプルなんだよ、ってことを教えてくれた」恩人の指導に、田中はみるみる引き込まれていった。
「ネルシーニョのサッカーは、相手のラインの裏でボールを受けてターンして、また前にいる人が相手のラインの裏をとって、そこにパスを通して......って崩していくんですけど、それを究極まで突き詰めると、縦パス、縦パス、縦パスでゴールまでいけるんです」
実際、2011年にJ1を制した当時の柏のサッカーには、すさまじいスピード感があった。田中の表現を借りれば、「究極に効率がいいサッカー」である。
ただし、それを実現するためにネルシーニョが定めた基準は極めて厳しく、「大前提として、ラインの裏でボールを受けたら、できる限りスムーズにターンしなきゃいけなくて、絶対にボールロストはしちゃいけなかった」。
こんなに狭いところでパスを受けられるのか。受けたとして、すぐにターンできるのか――。大学を卒業したばかりの田中にとって、百戦錬磨の指揮官から要求されるプレーは「怖い、しかなかった」。
「でも、僕がミスをしても、ネルシーニョは『おまえならターンできるのに、なんでやらないの?』って、怒られてるんだか、ほめられてるんだか、みたいな感じなので、結構マジックにかかって伸びるんですよね(笑)」
田中は厳しい要求の下でチャレンジを続けるうち、気がつけば自らの成長を実感できるまでになっていた。
「すごく難しい状況でもターンしてアシストできたりするようになるので、自分でも『オレ、こんなことできるんだ!』みたいな(笑)」
と同時に、ピッチ内にもまた、田中の成長を促してくれる頼もしい存在がいたことも大きかった。
2011年、シーズンMVPに選出されたレアンドロ・ドミンゲスである。
「レアンドロは本当に狭いところでターンして、ドリブルで限界まで運んでから僕らにアシストしてくれる。カウンターの時はレアンドロがとてつもなく速いんで、それをみんなで遅れないように追尾するのに必死でした(苦笑)」
当時を思い出すのか、そう語る田中の表情が自然とほころぶ。
「もう、なんかね、ワクワクするんですよ。ボールを奪った瞬間に、みんなのスイッチが入るので。本当にすごいスピード感でサッカーをしていたなと思います」
J1を制した柏は同年、日本で開催されたFIFAクラブワールドカップにも出場し、ネイマールを擁するサントス(ブラジル)と対戦。田中のステップアップは、さらに速度を上げていた。
「2011年に(J1で)13点取って、2012年はちょっとフッと(気が抜けたように)なっちゃったんですけど、また2013年に奮起して11ゴール10アシストで、初めて(ゴールとアシストを)ふた桁、ふた桁に乗せることができた。(ふた桁のアシストは)ほぼほぼ工藤(壮人)が取ってくれたので、彼のおかげなんですけど、点を取れてアシストもできるのが僕のなかでの究極だったので、J1でそれを達成できたのは僕の財産です」
翌2014年に入っても、田中の成長は続く。
この年のシーズンは途中、ブラジルでワールドカップが開催されたため、その間、J1はリーグ戦を中断しているのだが、田中は中断前までに早くも5ゴールを決めていた。
「めちゃくちゃ調子がよかったので、また(最終的に)ふた桁はいけそうだなと思っていました」
そんな田中に突然のオファーが届いたのは、同年6月。J1の中断期間に、柏が韓国でキャンプを行なっている最中のことだった。
「最初に(オファーが)舞い込んできた時は、ポルトか、スポルティングか、みたいな話でした。その後、(スポルティングに絞られて)1週間くらいで決断しなきゃいけなくなって、(柏に)残ったほうがいいのかなっていう気持ちもあったんですけど......」
だが、最後の決め手はシンプルだった。
「それはもう、『世界のタナカになる!』と言ってたんで(苦笑)」
夢だった海外移籍が、それもポルトガルを代表する名門クラブへの加入が、瞬く間に決まった瞬間だった。
(文中敬称略/つづく)◆田中順也のポルトガル時代「お荷物みたいに扱われ」→悩んだ末に「夢を諦めた」>>
田中順也(たなか・じゅんや)
1987年7月15日生まれ。東京都出身。順天堂大4年時に特別指定選手として柏レイソルでプレー。翌2010年、柏入り。同年のJ2優勝、翌年のJ1優勝に貢献した。2011年には日本代表にも選出され、2012年2月のアイスランド戦で代表デビューを飾る(国際Aマッチ出場4試合)。2014年夏、ポルトガルのスポルティングCPに移籍。2016年、期限付き移籍で古巣の柏に復帰し、2017年にヴィッセル神戸に完全移籍。2022年からはJ3のFC岐阜でプレー。2023年シーズンを最後に現役引退。2024年、FC岐阜のクラブアンバサダーに就任し、同クラブのアカデミーコーチとしても活動する。