松坂大輔と黄金バッテリーを組んだ細川亨 目からウロコだった「西武の捕手の座り方」
細川亨インタビュー(前編)
青森北高から青森大に進み、2001年のドラフトでは自由獲得枠で西武に入団した細川亨氏。入団後はメキメキと頭角を現し、西武不動の正捕手へと成長。チームを何度も優勝へと導いた。2011年にはソフトバンクに移籍し、秋山幸二監督、工藤公康監督のもとで日本一を経験。さらに現役晩年は楽天、ロッテでプレー。19年間のプロ野球人生を振り返った。
西武時代、松坂大輔氏(写真左)と黄金バッテリーを組んだ細川亨氏 photo by Sankei Visual
── 細川さんは青森出身で、県内には青森山田、光星学院(現・八戸学院光星)、八戸工大一、弘前実業といった甲子園常連校があります。そのなかで青森北に進まれた理由は?
細川 父が青森北のOBで、甲子園にも3度出場(62年夏、78年夏、83年春)しています。それに私が中学3年の時は東北大会に出場するなど、県内ではまずまず強いチームでしたので青森北を選びました。
── 青森北は、ラグビー部が花園出場20度を誇る名門でもあります。
細川 体が大きかったので、ラグビー部の監督が野球部の部室の前で待っていて、「こっちのほうが活躍できるから来い」と毎日のように誘われました(笑)。
── 高校時代はどんな選手でしたか。
細川 ずっと三塁を守っていたのですが、3年生を送る会で試合をした時に、たまたまキャッチャーをやって、座ったまま二塁に送球してランナーを刺したのが転向のきっかけです。肩だけは自信がありました。
── 高校卒業後は青森大に進まれました。
細川 ある大学のセレクションを受けたのですが縁がなく、その後、青森大の甲子園出場組のセレクションに混ぜてもらい、進学が決まりました。監督、コーチに恵まれて、結果的に青森大に行って本当によかったと思います。とくに鈴木則久コーチは「考える野球」の楽しさを教えてくれました。
── プロに行ける自信みたいなものが出てきたのはいつ頃ですか。
細川 大学2年の時に全日本大学選手権でベスト4、3年時はベスト8に進出しました。全国大会に出て、ほかのキャッチャーに肩だけは負けていないと。その時にプロを意識し始めました。しかし、自由枠で指名という高評価をいただいたのには、自分でも驚きました。
【投手陣に怒られながら配球を勉強】── 当時の西武のキャッチャー陣は、レギュラーの伊東勤さん、和田一浩さん、野田浩輔さんという布陣でした。どんな捕手を目指していたのですか。
細川 それ以前の話でした。捕手歴は高校3年からだったので浅かったですし、二塁送球の際のステップもろくにわからず、肩の強さだけで投げていました。それに配球なんて言わずもがなです。投手陣に怒られながら教えていただき、覚えていきました。
── 2002年、プロ初出場の試合で石井貴さん、三井浩二さんをリードして完封リレーに導きました。2003年は松坂大輔さんの専任捕手的な存在となり、2004年に116試合に出場して、チームも優勝。2006年には12球団トップの盗塁阻止率をマークしました。
細川 プロでやっていけると自信めいたものが生まれたのは、プロ7年目(2008年)に133試合に出場して、16本塁打を放った年です。その一昨年前のオフに監督だった伊東勤さんから誕生日プレゼントとして「27」の背番号をいただきました。最高にうれしくて、それなりの覚悟を持って2007年のシーズンに臨んだのですが、チームは26年ぶりBクラスに沈み、伊東さんはその年限りで監督を退任しました。翌年、渡辺久信さんが新監督となり、リーグ優勝、日本一を達成し、少しは恩返しできたかなと。
── 森祇晶さん、伊東勤さんと連なる「名捕手の系譜」「技術論」は興味深いです。
細川 まず"西武の捕手の座り方"から教えてもらいました。もともとブロッキングには自信があったのですが、座り方、足の構え方を教わると「ワンバウンドを止めるのは、こんなにも簡単なのか」と、まさに目からウロコでした。
── 西武の捕手の座り方というのは、具体的にどのようなものなのですか。
細川 まず背後に壁があるとイメージして、まっすぐ座ります。すると、両足の裏にねじれができて、反発しあうことで前後左右に動きやすくなります。内野手がゴロを捕る時にフットワークを使いますが、捕手は座った姿勢でその状態をつくるのです。「言うは易く、行なうは難し」でしたが、2006年は捕逸0。そんなことが実践できたのだと思います。またスローイングに関しては「おまえは強肩なんだから、ヒジから先だけで投げろ。送球の強さよりコントロールだ」とアドバイスされました。
── リードに関してはいかがですか?
細川 伊東さんの捕手論のひとつとして「野球には100%はない。正解はない。打たれる確率を低くするための目配り気配りに注力しなさい」と教わりました。たとえば、投球の見極め、投手の好不調の状態、野手のポジショニングなどです。"エサをまく"リードもありました。
── 具体的な例を挙げていただけますか。
細川 2004年の西武とダイエー(現・ソフトバンク)のプレーオフですね。その年に導入されるプレーオフを見越して、伊東監督の指示で三冠王の松中信彦さんをマークしました。ペナントレース終盤から全打席全球、内角のストレート攻めです。プレーオフ第1戦で松中さんに1本だけホームランを打たれましたが、インコースを意識させたことが功を奏し、それ以降はしっかり抑え、シーズン2位の西武が1位のダイエーを3勝2敗で下して、日本シリーズに進出しました。結局、その年は中日にも勝って日本一になるのですが、「こういう配球もあるのだな」と驚かされました。あらためて伊東さんの偉大さを思い知らされました。
── 2008年の頃に「メモから感性のリードにシフトした」と聞いたことがあります。
細川 メモをとるのも伊東さんの教えです。ただ、メモをとってデータを貯めないと、感性まで行き着けません。打者がその投球にどういう反応をしたのか。たとえば、打者の体が開いたのか、ファウルを打ったのか、逆方向に打ってきたのか......そういうことをメモして蓄えていました。
【田村龍弘は生意気でした(笑)】── ソフトバンクにFA移籍した2011年、秋山幸二監督のもと日本一を達成し、2015年には工藤公康監督就任1年目にまたも日本一。
細川 11年は、交流戦も含め11球団に勝ち越して完全優勝を果たしました。2005年にダイエーからソフトバンクに親会社が変わってから初めての日本一。王貞治会長は「世界一」を旗印に掲げ、常勝を目指していました。だから、「絶対日本一にならなくてはいけない」というプレッシャーが知らぬ間にかかっていたんでしょうね。勝って初めて泣きました。
── 2017年に楽天へ移籍しました。思い出に残っていることは何ですか。
細川 楽天は2013年にチームを日本一へと導いた嶋基宏捕手がいましたが、彼がいろいろと聞いてきてくれたり、ミーティングでの私の発言を汲みとってくれたり......うれしかったですね。また、6月に生まれ故郷である青森で楽天初の公式戦が開催され、スタメンマスクを被ったことも印象深いです。
── そして2019年から2年間ロッテでプレーし、2020年シーズンを最後に現役引退。
細川 ロッテは福浦和也さんの印象が強いです。福浦さんは「ミスター・ロッテ」と呼ばれていただけあって、人として、野球人としてすばらしい方でした。あと捕手では、当時25歳の田村龍弘がレギュラー格でした。青森の光星学院(出身は大阪)ということもあって、慕ってくれましたが、生意気でしたね(笑)。
細川亨(ほそかわ・とおる)/1980年1月4日、青森県生まれ。青森北高から青森大に進み、2001年自由獲得枠で西武に入団。08年にベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。10年オフにFAでソフトバンクに移籍。13年から2年連続100試合以上に出場するなど、常勝チームの正捕手として活躍。16年オフにコーチ就任を断り自由契約となるも、楽天に移籍。18年オフに戦力外となったが、ロッテと契約。2年間プレーし、20年限りで現役を引退。引退後は21年から発足する熊本の独立リーグ「火の国サラマンダーズ」の監督に就任。22年からは社会人野球「ロキテクノ富山」のバッテリーコーチ兼ディフェンス担当として活躍中