岩隈久志が語る近鉄消滅後に楽天を選んだ理由「人として育ててもらった」仙台での思い出
岩隈久志インタビュー 前編
冬の穏やかな日差しが降り注ぐ河川敷のグラウンドで、プロ野球やメジャーリーグで活躍した岩隈久志は黙々とノックバットを振っていた。子供たちのはつらつとした声に反応して時折見せる笑顔、軽やかな動きは現役時代と変わらない。
2020年シーズン終了後に現役を引退した岩隈は、マリナーズの特任コーチを務める傍ら、2022年3月に青山東京ボーイズのオーナーに就任。現役時代は西武などで活躍し、西武や楽天などで指導者も務めた義父・広橋公寿氏と共に中学生の指導にあたっている。
日米で輝かしい実績を残したエースは、なぜ少年たちと汗を流す道を選んだのか。その根底にある思いを聞いた。
現役時代のプレー、引退後のキャリアなどについて語った岩隈氏 photo by 若林秀樹(スタジオディーバ)
青山東京ボーイズは、岩隈が「野球の基礎作りに一番適している」と話す中学生の男女を対象にしたチームで、現在約40名が在籍している。
「プロの選手であれば自分で考えられるようなことを、イチから丁寧に教えないといけない部分はありますが、選手たちは伸び盛りで教えたことをすぐに吸収してくれます。みんなが上手になっていく様子を見ていると、プロ野球とは違った楽しさも感じますね。まだ集中力が続かない時期だからこそ、楽しさと厳しさを織り交ぜながら、メリハリをつけて指導することを心がけています」
昨今のスポーツの現場では、"行きすぎた指導"を行なった指導者が社会的な制裁を受ける場面も見られる。そんな中で岩隈が最も気をつけているのは、「かつて自分がやっていた練習を、そのまま現代に取り入れてしまわないようにすること」だという。
「僕の学生時代を冷静に振り返ってみると、正直、あまり意味のない練習もありました。楽しいはずの野球が、だんだん"やらされる野球"に変わり、『本当にこれでいいのだろうか?』と考えたこともありましたね。
確かに、キツくて苦しい練習の思い出の中には、最後までやりきった達成感や仲間の大切さを知ったという学びもありました。ただ、指導者としては、子どもたちに野球の楽しさや正しい技術を伝えながら、『上手になりたい』という気持ちを後押しできたらと思っています」
野球の"正しい技術"を身につけるために必要な要素として岩隈が子どもたちに伝えているのは、「しっかり自分自身の考えを持つ大切さ」だ。
「野球に限ったことではありませんが、まずは自分のことを知り、しっかりとした考えを持つことが大切だと思っていて、『それができない限りはどこに行っても通用しない』と日頃から伝えています。子どもたちが直面するさまざまな課題を克服するためには自分で考えることが大切ですし、さらに上のレベルでプレーすることになった時も、きっと役に立つと思うんです」
【プロの世界での試行錯誤の日々】実際にプロ入り後の岩隈は、さまざまなことを考えながらマウンドに上がっていたという。
1999年のドラフト5位で近鉄に入団。「『最初の3年間は"陸上部"だ』とも言われていましたが、まずは身体を作りながらプロの技術をしっかり学ぼうと思っていた」という岩隈は、プロ入り2年目に初勝利を挙げると、シーズン終盤に先発ローテーションの一角に定着。4勝(2敗)を挙げて、近鉄のパ・リーグ優勝に貢献した。
「プロの世界に入ってから、それまで自分が技術面で教わってきたことが少ないことに気づきまして......。学生時代は『常に正々堂々と逃げずに勝負する』といった精神的な部分が強調される一方で、速いボールの投げ方や、試合状況に応じた判断力などを十分に培うことはできませんでした。プロ入り後、コーチたちに教えを受けることで、より成長することができました」
リーグを制した翌年の2002年に8勝、2003年に15勝を挙げた岩隈は近鉄のエースに成長。チーム内で存在感を高めていったが、それまでには多くの"トライ&エラー"があったという。
「僕がプロに入った時に感じた一軍選手のレベルや技術は、入団前に想定していたよりもはるかに高いものだったので、自分が持っているものをすべてぶつけながら勝負して、試行錯誤を繰り返す日々でした。
西武の松井稼頭央さん(現・西武監督)などには『何を投げても打たれてしまう......』と思っていましたが、結果が出ない時も『次の対戦ではどうすれば抑えられるだろうか?』など、さまざまなことを考えながら試合に臨んでいました。若いうちに1軍で投げた経験や学んだことは、子どもたちを指導する上でも役に立っていると思います」
2004年に初めて開幕戦のマウンドを任された岩隈は、順調に白星を積み重ねて開幕から12連勝。当時の「開幕投手の連勝の日本記録」に迫る活躍を見せていたが、同年6月に近鉄とオリックスとの球団合併構想が明らかになり、突如として暗雲が垂れ込める。
【新球団・楽天での苦しい時期に得たもの】球界再編に関するニュースは連日大きく報じられ、さらなる球団合併や1リーグ制移行に向けた議論、選手会によるストライキが実施されるなど、グラウンド内外で不安に苛まれる日々を過ごすことになった。
「僕も最初の頃はメンタル面で追い詰められて、食事がのどを通らない時もありましたね。でも、結局はプレーで頑張ることしかできないことに気がついて、徐々に気持ちは落ち着いていきました」
騒動の荒波に巻き込まれながら、覚悟を持ってマウンドに上がり続けた岩隈は、この年に15勝を挙げる活躍。最多勝と最優秀投手のタイトルを獲得したが、球団が置かれた状況は好転せず、近鉄はオリックスとの合併という形で55年の歴史に幕を下ろすことになった。
その後、岩隈は「新しい気持ちでやりたい」という意向もあり、翌2005年からNPBへの新規参入が認められた楽天に入団。ロッテとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)で先発登板し、球団初となる公式戦での白星を掴んだ。
「最初は『100敗するんじゃないか』と言われていた"寄せ集め"のチームで、施設面なども整わない中でスタートを切りましたが、みんなで力を合わせて、公式戦の1試合目で勝てたことはすごくうれしかったです」
新天地で幸先のいいスタートを切った岩隈だが、チームは最下位に低迷。岩隈は規定投球回にこそ到達したものの、シーズン途中に右肩を故障した影響もあって9勝15敗の成績にとどまった。
翌年は右肩の故障に加えて、2段モーションの禁止に伴う投球フォームの見直しを強いられたこともあり、わずか1勝。さらに2007年は、度重なる戦線離脱で前半戦を棒に振る(5勝5敗)など、納得のいかないシーズンを過ごした。
「自分自身と向き合いながらトレーニングを続けていくしかなかった日々は、大変なこともたくさんありました。でも、僕が思うように投げられない時にも、家族やたくさんのファンのみなさんが、変わらずに僕のことを応援してくれて......。『感謝の気持ちを持ってプレーしないといけない』と思うようになりましたし、野球に対する考え方を深めるきっかけにもなりました。今となっては、すべてを含めていい経験になったと思います」
そのシーズンオフに右肘の軟骨を除去して臨んだ翌2008シーズン。チームを指揮する野村克也監督(当時)に「言葉で言われることは少なかったですが、『信頼される選手になるにはどうしたらいいか?』を問われ続けた1年だった」という岩隈は、21勝を挙げて4つのタイトルを獲得(最多勝、最優秀防御率、MVP、沢村賞)し、見事な復活を果たした。
「『自分自身が変わらなければ、野球人生が終わってしまうかもしれない』という思いで臨んだシーズンでした。そして、苦しい時に応援してくれたファンのみなさんに恩返しをするために『マウンドで戦う姿を見せよう』と。楽天では2012年まで7年間戦わせてもらいましたが、仙台の地で『人として育ててもらった』思い出は、今でも忘れることができません。楽天時代に培った野球観があったからこそ、39歳まで現役を続けられたのかなと今でも思っています」
(後編:メジャーで感じた「文化の違い」と少年野球の指導者として大切にしていること>>)
【プロフィール】
岩隈久志(いわくま・ひさし)
1981年4月12日生まれ。1999年にドラフト5位で近鉄に入団。2年目に初勝利、2003年に15勝を挙げるなどエースとして台頭。2005年には楽天に移籍して初代開幕投手を務めた。日本球界で通算107勝、沢村賞1度、最多勝2度など多くのタイトルを獲得。2012年にメジャーリーグのマリナーズに移籍し、7年間で63勝をマーク。2015年にはノーヒットノーランを達成した。2018年オフに巨人に移籍して日本球界に復帰し、2020年シーズンをもって現役を引退。2021年にマリナーズの特任コーチに就任。同時に、中学硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」のオーナーを務めながら指導を行なっている。
【取材協力】(株)PACE Tokyo、秋山高志