デッドボールで怒った清原和博に「お前が悪いんだから一塁に行け!」 松永浩美が挑発的な言葉を放った理由【2023年人気記事】
2023年の日本はWBC優勝に始まり、バスケのW杯では48年ぶりに自力での五輪出場権を獲得、ラグビーのW杯でも奮闘を見せた。様々な世界大会が行なわれ、スポーツ界は大いなる盛り上がりを見せた。そんななか、スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2023年4月20日配信)。
※記事内容は配信日当時のものになります。
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松永浩美が語る清原和博の素顔 前編
1986年、甲子園のスーパースターとして鳴り物入りで西武に入団した清原和博氏は、黄金時代を築いたチームの4番として君臨し続けた。
かつて"史上最高のスイッチヒッター"と称され、長らく阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)の主力として活躍した松永浩美氏は、グラウンド上で清原氏とよく話をしていたという。
そんな松永氏が、デッドボールで怒りを露にした清原氏をたしなめた場面や、日本シリーズに出る清原氏にグラブを貸したエピソードなどを語った。
1989年、ロッテの平沼定晴(手前)から死球を受け、ヒップアタックを見舞う清原
――松永さんが清原さんと話すようになったきっかけを教えてください。
松永浩美(以下:松永) 私は現役時代、自分のチームはもちろん、対戦するチームの1軍の選手全員に声をかけていたんです(笑)。先輩から声をかけたほうが、それ以降も話しやすいと思っていたので、後輩の選手に対しては積極的に声をかけるようにしていました。
ヒットなどで塁に出た時に話しかけることが多かったのですが、キヨの時も一塁上で「おはよう」と話しかけたのが最初だったかと。彼がプロ1年目の時だったと思います。
――清原さんはPL高校時代に甲子園で活躍し、鳴り物入りでプロの世界へ入りました。松永さんも注目していたと思いますが、どう見ていましたか?
松永 基本的に1軍レベルの選手の実力は認めざるを得ないですが、キヨも1年目から活躍していてすごいと思っていました。キヨのほうから挨拶をしてきたり、話しかけてきたりした時に感じたのは、「真面目で素直な子だな」ということです。
――清原さんは松永さんより7歳下ですが、清原さんから話しかけてくることもあったんですね。
松永 7つ離れていると、なかなか年下からは話しかけづらいものですよね。特にキヨの場合は、ある程度年が近い人間とはコミュニケーションが取れても、かなり年上となると話をするのが苦手な感じがしました。それでも私には気軽に声をかけてきたので、話しかけやすかったのかもしれません。
私のほうでも話しかけやすい雰囲気を作って、意見を言わせるようにしないといけないとは思っていました。キヨの場合は他人に頼るというか、甘えることを知らなかったんです。私にも似ている部分がありますが、周囲から見ると"親分肌"に見えるじゃないですか。そういう人は、人に頼りきることがなかなかできないものなんです。
――清原さんにとって、松永さんは「兄貴的な存在」でもあったのかもしれませんね。他に印象に残っていることはありますか?
松永 キヨが西武球場(現ベルーナドーム)での阪急戦で、デッドボールを当てられたことに怒ってバーッとマウンドに走っていったことがあったんです。私はすぐにピッチャーとキヨの間に入って、「当たったお前が悪いんだから一塁に行け!文句を言うな」と一塁に行かせたことがありました。それでもキヨはピッチャーを睨んでいて、怒りが収まらない様子でしたけどね。
――その時、清原さんは松永さんに対して何も言ってこなかったんですか?
松永 後日、空港でばったり会ったんですよ。そうしたらキヨが私のところに来て、「僕の何が悪いんですか!僕は当てられたんですよ!」と言ってきたので、「そうじゃなくて、俺も長くプロ野球の世界にいるけど、頭にボールが当たって野球生命を絶たれた選手を何人も見ている」と返しました。
続けて、「お前はパ・リーグだけじゃなく、球界のスターなんだから。デッドボールで野球人生が終わってしまったら、悲しむファンがいっぱい出てくるだろう。だから、ボールの避け方がうまくならないと、自分が痛い思いをする。この前は、お前の避け方が下手だった。俺だったら当たってないよ」と言ったら、納得してました。
そりゃそうですよ。「君はスターだから」って言ってあげたんですから(笑)。でも、後日にそうやって聞いてくるのもかわいいじゃないですか。
――それほど、制止した時の松永さんの言葉が気になっていたんでしょうね。
松永 でしょうね。私は自分のチームのピッチャーがデッドボールを当てたら、いつも「こっちが悪かった」と言うタイプでした。西武との乱闘も何回かありましたけど、私は感情的に怒ることはほとんどなくて、だいたい止める側にいました。
それなのに、あの時は「お前が悪い」と言ったもんだから、キヨも「あれっ」て思ったんじゃないですか。挑発するような言葉を言われてびっくりしたんでしょう。
――ちなみに、清原さんが中日との日本シリーズ(1988年)に出場する際、松永さんにグラブを借りたことがあったと聞いたことがあります。どんなやりとりがあったんですか?
松永 1988年のシーズンの終盤に、キヨが私のところに来たんです。西武球場だったか西宮球場だったかは覚えていませんが、阪急と西武の試合の時でした。「すいません、今度日本シリーズに出るんですけど......」って言ってきたので、まず「嫌みか!?」と返して(笑)。そうしたらキヨは、「セ・リーグの球場に行ったらDHがないので、たぶん他の選手がファーストを守ることになって、僕はサードを守らなきゃいけないんです。サードのグラブをお借りしてもいいですか?」と。
――チームメイトから借りることはしなかったんですね。
松永 そうみたいです。私も「西武はうまい内野手がいっぱいいるじゃん。何で俺に借りに来たの?」と聞いたんですが、「松永さんのグラブは(ボールが)入りそうな気がして仕方がないんです。飛んできたボールが吸いついていくような気がして」と言われました。
それって、いい表現なんです。私も野球教室で子どもに教える時、「ボールは"捕る"んじゃないよ。黙ってても"入ってくる"から」と伝えるんです。捕球体勢や、守備に対してしっかりした考え方がないと守備はうまくならない。「"ボールを捕ってる"と考えているうちは絶対に野球を理解できないよ」と話すこともあります。だから、キヨが言ったこともわからなくはなかったですね。
それでグローブを貸した時には、「親指と小指に力を入れて使ってくれ」と教えました。ただ、テレビで日本シリーズを見ていたら、キヨは違う使い方をしていたんです。
――それは伝えたんですか?
松永 日本シリーズが終わったあと、オフで会った時に話しましたね。「なんだ、あのグローブの使い方は」と。「お前の指が入って形が変わって俺の指に合わないから、もういらない。誰かにあげるなり、捨てるなり焼くなり好きにしてくれ(笑)」と言ったら、「えへへ......すいません」って。かわいいやっちゃな、と思いましたよ。
――微笑ましいやりとりですね。敵チームでありながら、清原さんはそこまで松永さんを慕っていたんですね。
松永 私は高校2年時に中退し、ドラフト外、練習生として阪急に入団しました。底から這い上がっていった選手なので、たとえば「ドラフト下位やドラフト外の選手が、ドラフト1位など華にある選手に対してどんな感情を抱いているか」という話もできるんです。
ドラフト上位の選手に対して「絶対に負けたくない」という気持ちを持っている一方で、「すごいな」という憧れや尊敬の気持ちもあるんだと。華のある選手ばかりが集まってくると、そんな話はできないじゃないですか。同じような環境から、プロの世界に入ってくるわけですから。
だからキヨも、ふだんはできないような話を聞くだけでもメンタルにゆとりができたのかな、という感じはしますね。
(中編:高校1年の清原和博の内野フライを見て「間違いなくプロにくる」 西武と巨人時代のバッティングの違いも語った>>)