連載 怪物・江川卓伝〜伝説の始まり(前編)

 プロ野球が誕生しておよそ1世紀、幾多の戦歴を重ね、数々の名投手が誕生した。沢村栄治、スタルヒン、金田正一、稲尾和久、江夏豊......昭和のレジェンドに至っては、スピードガンがなく、映像もほとんど残っていないため、誰が一番速かったのかはもはや永遠のテーマである。

 実際160キロ以上投げていたレジェンドもいたかもしれない。ただ、プロも驚くほどのすごい球を投げていたピッチャーといえば、ひとりしかいないのではないか。とにかくボールが速いのもさることながら「バットに当たらない」と、プロの一流のバッターたちが口々に言うのだ。あの三冠王を3度獲得した落合博満でさえも、悠然とストレートを待っていたがかすりともしなかった。


作新学院1年から数々の記録を打ち立てた江川卓 photo by Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Images

【竹バットで柵越え連発】

 そのピッチャーとは、江川卓である。"昭和の怪物"と言われた男。プロ野球通算135勝72敗。最多勝2回、最優秀防御率1回、プロではノーヒット・ノーランも完全試合もやっていない。数字的には特出したものはない。

 ただ、高校時代の戦績にはすさまじいものがある。ノーヒット・ノーラン12回(うち完全試合2回)、145イニング無失点、平均奪三振15と目を疑うような記録が残されている。これらはすべて50年以上前の記録だ。金属バットが導入される前で木製バットだし、現代野球に比べてレベルが低い時代での地方大会の記録だからどれだけすごいのか当てにならないという声も聞く。

 しかし、だ。2000年以降、高校野球の投手能力が格段に上がったが、江川のような記録を出す投手はいまだひとりも出ていない。おまけにこの時代の高校野球の基本スタイルはバットを短く持ってのミート打法にもかかわらず、平均奪三振15というのはどういうことか。いくら半世紀前だろうが、桁違いの投球を披露していたことには間違いない。

 70年代から80年代にかけて、江川卓が残してきた痕跡は数十年経ってもいまだ色あせることはなく、大谷翔平と比べても遜色ない衝撃を与え続けてきたことだけはたしかだ。

 今から50年ほど前の1973年、耳の大きなひとりの少年が日本中を席巻していた。甲子園では、バットに当たるだけでスタンドが揺れ、三振の山をバッタバッタと築き、夏の甲子園ではテレビ中継の消費電力がパンクして停電になる恐れがあるため、関西電力が各企業に節電を呼びかけたという伝説を持つ。

"江川伝説"は、高校3年春のセンバツ甲子園から始まったと思われがちだが、作新学院に入学したばかりの1年夏からすでに伝説は始まっていた。当時3年生でサードを守っていた大橋弘幸は、江川の入部当時の様子を語ってくれた。

「中学から"小山の怪童"として鳴らし、入部したての頃は身長180センチ以上のヒョロヒョロ体型でしたが、ケツだけはでかかった。作新のグラウンドは当時の神宮球場をまねてつくったので、両翼100メートル、センターは122メートルもあったんです。4月上旬、監督の命令で江川がフリーバッティングに参加したんです。そしたら、我々がいくら打ってもフェンスを越えないのに、あいつだけが越えちゃう。しかも竹バットで、ですよ」

 金属バットがまだない時代、竹バットは材質的に安価なため練習用バットとして使用されていた。反発力が少ないため芯を外すと、ものすごい衝撃が手に伝わる。とくに冬場の衝撃度といったら、手がちぎれるほどの激痛が襲う。

「中学を出たての1年生があそこまで飛ばせるのは人並み外れた背筋力だと、今となっては思いますね。その背筋力が投手として、あの速球を生み出したんでしょう」

 大橋は呆れ顔で呟く。江川は、最初は投手ではなく打者として周りに衝撃を与えたのだった。バッターボックスの江川の眼は爛々と輝きが増し、フリーバッティングでポンポン柵越えを放った。まだ怪物として覚醒する前のことである。

【栃木県史上初の完全試合】

 公式戦デビューはすぐに訪れた。

 第53回全国高校野球大会栃木県予選大会5日目の昭和46年7月18日、2回戦の足尾戦で作新が3回までに9対0と大量リードし、4回から江川が満を持して登板。8回までの打者15人をパーフェクト、奪三振7という圧巻のデビューを飾る。

 つづく23日のブロック準々決勝の足利工大付戦は先発し、8回まで散発3安打、奪三振6、四死球1で無得点に抑える。背番号は17だが、もはや作新のエースだった。

 そして翌日の7月24日は栃木県高校野球界にとって記念すべき日とでもいうのだろうか、ここから怪物伝説の幕開けとなった日でもあった。

 ブロック準決勝の烏山戦。内野ゴロ11、同フライ1、同ファウルフライ1、外野フライ4、同ファウルフライ1、キャッチャーフライ1、三振8、ストレート96球、カーブ7球、計103球の完全試合達成。栃木県高校野球では史上初の快挙は、中学を卒業してまだ4カ月の1年生ピッチャーだった。

 3対0で作新リードの6回あたりから球場がざわつき始めた。

 烏山ベンチ内では監督、部長がなにやら騒ぎ出す。「おい完全試合だぞ......」。一気に不穏な空気が淀み、「完全試合をやられるのでは」というマイナス思考が監督以下選手全員にも伝播し、もはや勝利するという目的を度外視し、いかに完全試合を阻止するかだけに絞られた。烏山は中盤から代打を送ったり、果敢にセーフティーバントを試みるが、回を押すごとに威力を増すストレートに凡打の山を築く。

 7回一死、2番打者が初球三塁前の絶妙なセーフティーバントをするが、間一髪アウト。フェアプレーをモットーとする高校野球において、珍しくセーフのアピールを3回やるほど烏山選手たちは崖っぷちに立たされていた。不名誉な記録だけはつくられたくない。烏山は必死の思いで立ち向かうしかなかった。

 9回二死、作新のサード大橋がマウンドに行った。

「おい、今日の晩ご飯はなんだろうな」

 緊張を解きほぐそうと声をかけた。カラカラの喉を抑え最上級生としての余裕と威厳を見せようとしたものの、誰よりも緊張しているのがわかった。そんな大橋の胸中を知ってか知らぬか、江川は何食わぬ顔で、「なんでしょうね」マウンド上で軽く微笑む。

「あいつ、まったく落ち着いてやがる。なんて1年だよ」

 大橋は確信した。「これは完全試合だな」と。

 そして27人目の打者は、第103球目真ん中高め、明らかにボール気味だが球威に圧され空振り三振。江川は申し訳ない程度に笑みを浮かべ、うつむきながらマウンドを降りた。

 作新ナインは栃木県史上初の完全試合達成の歓喜を味わうのではなく、球場の異様な雰囲気からすぐにでも逃げ出したかった。ただ1年生ピッチャーだけは、何事もなかったように報道陣に囲まれインタビューに答えていた。

 3年生でライトを守っていた烏山高の神長富志夫によると、県内版だけでなく全国版にまでこの完全試合の報道が掲載され、言い知れぬショックを受けたという。

「今でもショックですね。3年の夏といったら、たいてい終わるとある種の満足感や安堵感があるものだけど、僕たちは完全試合という不名誉な記録で終わってしまったんです。応援してくれた人たちに悪くて、球場からバスじゃなく歩いて帰らなければいけないとさえ思いました」

 この年の烏山ナインに満足感などない。あるのは敗北感、挫折感だけ。作新対烏山戦の試合がまるで大罪を犯したかのような生き恥に感じ、50年経っても一生悔やんでも悔やみきれないでいる。

【1回二死から10連続三振】

 そして江川伝説で必ず語られるのが、1年秋の関東大会1回戦の前橋工業戦での10連続三振だ。

 初回から見事な投球を披露した試合で、1回二死から4回終了まで10連続三振を奪う。これだけでも驚くべきことなのに、その内容がまた圧巻である。空振りとスリーバント失敗が1個ずつで、あとの8個は全部見逃し三振。江川も10連続三振のうち8個が見逃し三振に驚いた様子だった。

「見送り三振が多いというのはどういうことでしょうね。自分の記憶のなかでは、低めのボールが浮き上がったという印象があった試合でした。前橋工業は低めの球をボールだと思って振らなかったんでしょうね」

 2番ショートの狩野学は思い返しても"すごい"の一言しか出ないほど、この試合の江川のピッングには驚嘆した。

「初回、1番打者がピッチャーの動きを探るためにバントの構えをしたら、偶然当たってピッチャーゴロ。セフティーバントでもなんでもないですよ。どれだけ球が伸びてるんだって話ですよ。そして私がフォアボールで、その次から10連続三振です。2打席目は私も三振ですから。ベンチでみんな、球が見えない、当たらないって言っていました」

 狩野はのちに前橋工業の監督を務め、渡辺久信(現・西武GM)を育てるなど、数多くのピッチャーを見ているが、やはり江川の球の伸び、キレはダントツで一番だと断言する。「見えない」「当たらない」。そんな途方もない球を見て、監督以下選手たちもノーヒット・ノーランをやられると、正直思っていた。

 だが試合は、5回の作新の攻撃で江川が頭部に死球を喰らって退場し、前橋工業が2対1で勝利。江川は1年夏につづき、またしても甲子園に届かなかった。しかし高校2年になると、江川伝説は今まで見たこともないような記録とともに、さらに加速していくのだった。

後編につづく>>

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している