2024年1月18日、谷繁元信氏が競技者表彰(プレーヤー表彰)において「野球殿堂入り」を果たした。所属した横浜(現・DeNA)、中日で日本一を経験し、捕手という過酷なポジションでありながら日本プロ野球史上最多の3021試合出場を果たした。中日時代にバッテリーを組み、黄金期を支えた吉見一起氏が不世出の名捕手・谷繁元信について語った。


2011年に最優秀バッテリー賞を受賞した吉見一起氏(写真左)と谷繁元信氏 photo by Sankei Visual

【エサをまくリード】

── 吉見さんは2005年に大学生・社会人ドラフト1位(希望枠)で入団しました。プロ3年目の08年から5年連続2ケタ勝利。09年、11年は最多勝を挙げ、10年、11年のリーグ優勝の原動力となりました。正捕手だった谷繁さんのリードをどう感じていましたか。

吉見 僕の入団時、谷繁さんはすでに押しも押されもせぬ名捕手でした。僕の印象は「エサをまくリード」が巧みだったということです。すべての場面で勝負にいくのではなく、勝敗に影響しない「打たれてもいい」場面では、わざとヒットを打たせておく。言わば、ふだんは60〜80%のリードをしておいて、ここぞという大事な場面では90〜100%の確率で仕留めるリードをする。レギュラーになるかならないかの捕手は失敗しない配球をしようとするので、そういう"遊び"はなかなかできないと思います。

── 吉見さんは抜群の制球力を誇り、またフォーク、スライダー、シュートなど多彩な変化球を駆使しました。そんな吉見さんを谷繁さんは具体的にどんな配球をしたのですか。

吉見 僕はフォークを勝負球としていました。千賀滉大投手(メッツ)のような落差の大きなフォークではなく、打者の手元で落ちる「ミートの接点の少ないフォーク」でしたが、落とし方を自在に変えることができました。ただ、僕のストレートの球速(140キロ代前半)だと、ホームランを打たれたくないのでボール球で勝負しようとしていたのですが、谷繁さんはストライクを要求してきました。もちろん大事な局面では勝負球のフォークや別の球種、または相手打者の苦手なゾーンに投げるのが谷繁さんの配球ですが、ランナーのいない場面とかではストライクゾーンにストレートを投げ込み、その残像を残すのです。

── つまり、それが「エサをまく」リードなのですね。

吉見 こういうリードが同じ試合の終盤の打席や、次の試合の対戦で生かされます。そんな勝負の仕方を谷繁さんから教わりました。僕がたくさん勝てたのは、谷繁さんのリードのおかげです。

── 吉見さんは常に"貯金"を稼げる投手として、中日黄金期を支えました。

吉見 当時はチェン・ウェインという150キロを超すストレートが武器の左腕がいました。当然、僕とチェンのリードは違ったはずです。僕は「フライアウト、フライヒットはダメ。ゴロアウト、ゴロヒットならOK」と谷繁さんに言われていました。なぜOKなのだろうと思っていましたが、そう言われると精神的な余裕が生まれ、いい意味で割り切って投げることができました。

── 谷繁さんにリードされ、吉見さん自身も考えながら投げるようになりましたか。

吉見 谷繁さんの厳しいリードに応えるため、どうすればいいのかを考えていましたね。スライダーやフォークをそれぞれ2、3種類ずつ、スピード差や曲がり幅を変えるなど、投げ分けていました。引退してから、谷繁さんに「吉見って、スライダーやフォークを状況によって投げ分けていたよな」って言われて......谷繁さんが出したリードの"問い"に対して答え合わせができた。うれしかったですね。

【試合後は全身アイシング】

── 谷繁さんはミットを動かさないキャッチングが有名でした。

吉見 僕自身、ミットを動かされるのはあまり好きではありませんでした。最近は"汚い回転"のボールが流行っていますが、僕は「きれいな回転」のボールを投げたかったし、こだわっていました。ミットを左右に動かされると「あれ、球が曲がっているのかな」と思ってしまう。

 あと、投げる瞬間にミットを一度落とす捕手もいますが、ミットを上げたまま構えてそのまま捕球して止めてくれる捕手のほうが僕は好きでした。投げる時に目印になりますから。だから、僕は谷繁さんのキャッチングがすごく合っていました。

── スローイングについては、谷繁さんは捕ってから素早かったですね。

吉見 僕が初めて2ケタ勝利を挙げた2008年、谷繁さんはすでに38歳でした。全盛期は過ぎていたと思いますし、谷繁さんより肩の強い捕手は何人もいました。でも、盗塁阻止率は谷繁さんのほうが高かった。捕球してからのスピードで補っていたんでしょうね。動きに無駄がなかった。2009年、11年、12年とゴールデングラブ賞に輝いていますし、11年は「最優秀バッテリー賞」をいただきました。

── 40歳を超えてもまったく衰え知らずでした。

吉見 捕手として史上4人目の2000安打を達成し、日本プロ野球史上最多の3021試合出場......これだけの試合数に出るのですから体が強いことは間違いないのですが、試合後は全身にアイシングを巻くなど、ケアもしっかりやっていました。あのアイシング姿を見て、キャッチャーは大変なポジションなんだなと再認識しました。

── 谷繁さんとバッテリーを組んで、一番印象に残っていることは何ですか?

吉見 14歳年上で、実績も豊富で、恐れ多くてなかなか話ができない大先輩でした。印象に残っているのは、マウンドに来て「真剣に投げろよ!」「気合いを入れて投げろ!」と叱咤激励してもらったことですね。僕は気合いを入れて投げているつもりでも、ミット越しに受ける左手の感触は違うということなのでしょうね。どうすれば谷繁さんのイメージしているボールを投げられるのか。そんなことばかりを考えていたような気がします。

── あらためて、谷繁さんはどんな選手でしたか。

吉見 負けると誰よりも悔しがっていました。その反面、たとえば僕がピンチを切り抜けたり、大事な試合で完封勝利したりすると「ナイスピッチング!」と、まるで子どものように喜んでハイタッチしてくれました。とにかく野球が好きで、勝つことが大好きなのでしょうね。だから日本プロ野球史上最多の3021試合も出場できたのだと思います。野球殿堂入り、心よりおめでとうございます!


吉見一起(よしみ・かずき)/1984年9月19日、京都府生まれ。金光大阪高3年時に春の甲子園に出場。卒業後はトヨタ自動車に進み、2005年ドラフト1位(希望枠)で中日に入団。08年に10勝を挙げると、翌年は16勝で最多勝に輝いた。11年には18勝、防御率1.65で最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。08年から5年連続2ケタ勝利を挙げるなど、中日のエースとして黄金期を支えた。20年に現役を引退。引退後は解説者、トヨタ自動車硬式野球部のテクニカルアドバイザーとして活躍。23年に侍ジャパンの投手コーチに就任した