藤井秀悟インタビュー(後編)

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 現役引退を決断した藤井秀悟氏が、次に就いた仕事はバッティングピッチャー、球団広報だった。なぜ最多勝のタイトルを獲得したほどの選手が、裏方へと回ったのか。そして現在は独立リーグの監督兼GM補佐として、夢を追う若者たちをサポートしている。


現在、関西独立リーグ・大阪ゼロロクブルズの監督兼GM補佐を務める藤井秀悟氏 photo by Sankei Visual

【バッティングピッチャーは天職】

── 最多勝のタイトルを獲得した実績ある投手が、なぜトライアウトまで受けたのですか。

藤井 まだ投げられるのに「2013年の故障リタイヤのまま選手生命を終えた」と周囲に思われるのが嫌で、トライアウトを決意しました。

── トライアウトはロッカーでも重苦しさが漂う独特の雰囲気だそうですね。

藤井 僕は早々と3番目に呼ばれたのですが......肩の準備が間に合いませんでした。カウント1−1からのスタートだったのですが、まったくストライクが入らずにいきなり四球。準備不足や雰囲気に呑まれてしまい、全然ダメでした。思えばプロ15年間で心が折れることはなかったのですが、トライアウトのあと静岡の草薙球場から東京まで車で帰っている時は、さすがに落ち込みましたね。もちろん、契約の声はかかりませんでした。

── その後、どういう経緯でバッティングピッチャーになられたのですか。

藤井 そんな中途半端な状態で現役引退するのは悔いが残ると思い、2回目のトライアウトをジャイアンツ球場で受けました。今回はしっかり肩をつくって準備万端で臨みましたが、契約の声はかかりませんでした。第二の人生に何をするかを考えていたところ「バッティングピッチャーで契約しませんか」と、巨人から声をかけていただきました。

── バッティングピッチャーに、実績ある好投手の球が必要だったということですかね。

藤井 いえ、プロ野球の投手とバッティングピッチャーは別物です。だから念のため、バッティングピッチャーのテストも受けました。打撃練習でふつうに投げるとボールにキレがあるので、打者は差し込まれてしまいます。だから前側の肩を早く開いて、意図的に打ちやすい球を投げます。その投げ方に適応できず、ストライクが入らずにイップスになって辞めていく投手もいるようです。

── 裏方に回ることへの抵抗はなかったですか?

藤井 4球団を渡り歩くなど苦労してきたので、変なプライドはありませんでした。若手の打撃練習に投げたり、ティー打撃でボールを上げたり、球拾いすることも苦ではありませんでした。高校と大学でそれぞれ1回、プロでも2回と、4回もヒジの故障を経験しているので、むしろ投げる仕事ができることはうれしかった。

 高橋由伸さん、井端弘和さん、阿部慎之助、坂本勇人ら一流打者にティー打撃の球を上げていると、打撃コーチのアドバイスの言葉が聞けます。打者側の視点を聞けるのは新鮮でした。またキャンプの個人練習を手伝っていると、技を磨こうとする「一流選手の一流選手たるゆえん」が見えてきます。打者から「今日の自分はどうでしたか」と尋ねられることもありました。だから、バッティングピッチャーが"天職"だと思ったほどです。

【10年間ブログを更新し続けたワケ】

── 2020年からDeNAのバッティングピッチャーになられますが、巨人から移籍した理由は何だったのですか?

藤井 当時の巨人は裏方の年齢制限があり、今後のことも考えて移籍しました。

── DeNAでは広報を兼務されていたのですね。球団の顔であり、取材対応として選手全員の動向を把握し、調整しなくてはならないので大変だったのではないですか。

藤井 多くの裏方さんは何かしら仕事を兼務すると思いますが、球団外部の方と接することで自分の世界が広がると思って広報を希望しました。ただ当時はコロナだったこともあり、メディアとのソーシャルディスタンスを考えての取材セッティングに苦心しました。ホームラン談話、イニング間の投手コーチのコメントやプレー動画などを編集してツイッター(現・X)に上げるのが僕の担当でした。また現役時代からブログを15年以上やっていたこともあり文章に接する機会が多かったので、選手の取材記事の校閲もやっていました。選手の練習が始まる前に球場入りして、試合後の取材対応まで、拘束時間は長かったですね。

── 藤井さんのブログは有名でしたが、そもそも始めたきっかけは何ですか。

藤井 野球の出来事は真面目な文体で、プライベートなことは軽めの文体と書き分けていたのですが、読者に「別の人間が書いているのではないか」「藤井は登板日に遊んでいるんじゃないか」という誤解が生じました。というのは、ホームページだと事務所のマネージャーさんに文章を送ってアップするまで2、3日のタイムラグが生じるからです。でもブログならタイムリーにアップできます。自分の気持ちを発信するモノがほしかった。2006年に始めて、16年まで丸10年間、日記代わりに毎日更新していました。

【監督兼GM補佐として活躍】

── 関西独立リーグ「大阪ゼロロクブルズ」へはどういう経緯で入団されたのですか。

藤井 知り合いの社長さんが関西独立リーグのオーナーをやっていて、その縁で声をかけていただきました。2022年から投手コーチ、23年から監督に就任しました。関西独立リーグには、ほかに堺、兵庫、和歌山、淡路島、そして24年から姫路が加わり6チームになります。

── 独立リーグはNPBと比較して、どこが違いますか。

藤井 施設、金銭面で大きく違います。日本野球の最高峰であるNPB球団と比べたら、正直、恵まれているとは言えません。大阪は少年野球や高校野球とチームがたくさんあり、球場の確保は簡単ではありません。トレーニング器具や新しいボールもそれほど揃っていません。そんな環境のなかで、プロ野球という夢を追う選手の手助けをできればと思っています。

── GM補佐も兼務されているのですね。具体的にどんなことをするのですか。

藤井 球団経営において、協賛スポンサーを見つけなくてはいけません。一般企業のように商品があってそれを売り込むのではなく、夢を追いかける選手をあと押しし、応援協賛してくれる会社や人を探すわけです。

── 大阪ゼロロクブルズのセールスポイントは?

藤井 球団代表兼GMが谷口功一さん(元巨人ほか)、ヘッドコーチに浅井良(元阪神)、バッテリーコーチに小山桂司(元日本ハムほか)、そして監督が僕です。NPBで投手、捕手としてプレーしていた指導者が多く、バッテリーに関してはとくに力を入れて指導しています。4人ともNPBに人脈があるので、スカウトの方が見にきてくれるのは魅力だと思います。スカウトが見に来てくれなければ、何も始まらないですから。

 僕自身は、現役の時にダルビッシュ有ら超一流の選手と一緒にやっています。打撃についても、先述したように裏方をしていたからこそ知り得た7年間の知識技能を、具体的に選手に還元してあげられるのがストロングポイントです。

── 藤井さんの今後の目標は何になりますか?

藤井 応援しがいのあるチームづくりと、チームからひとりでも多くNPB選手を輩出したいです。3万人、4万人の前でプレーする景色を見せてあげたいですね。


藤井秀悟(ふじい・しゅうご)/1977年5月12日、愛媛県生まれ。今治西高から早稲田大を経て、99年ドラフト2位でヤクルトに入団。2年目に14勝を挙げ、最多勝を獲得。チームのリーグ制覇、日本一にも貢献し、ベストナインにも選出された。08年にトレードで日本ハムに、10年にはFAで巨人に移籍。さらに、12年にはFA移籍した村田修一の人的補償としてDeNAに入団。13年は開幕投手を務めるも、翌年は登板機会がなく戦力外通告を受ける。トライアウトを受けるもオファーがなく、現役引退。その後は巨人、DeNAでバッティングピッチャーを務め、22年から関西独立リーグの06BULLS(現・大阪ゼロロクブルズ)のGM補佐兼投手コーチに就任。23年から同チームの監督に就任