篠塚和典「クロマティは日本シリーズで恥をかいて守備が変わった」 巨人最強助っ人の愛すべき素顔
ウォーレン・クロマティ 中編
(前編:クロマティが「4割バッター」に迫った1989年 「大好き」と語っていた投手とは?>>)
篠塚和典氏が「1980年代の巨人ベストナイン(※記事を読む>>)」で5番・センターに選んだウォーレン・クロマティ氏。そのエピソードを振り返る中編では、1987年の西武との日本シリーズでもクローズアップされたセンターの守備、1980年代に巨人に在籍した外国人選手のロイ・ホワイトやレジ―・スミスとの違いについて聞いた。
篠塚和典と一緒に食事をするクロマティ photo by Sankei Visual
――前編でのバッティングに続いて、今回はクロマティさんの守備についてお聞きかせください。
篠塚和典(以下:篠塚) 守備も下手ではないです。ただ、気持ちがパッと抜けちゃう時がありました。それでも当時は、首脳陣も外国人選手のプレーに関してあれこれ言うことはあまりしませんでしたし、そこは本人次第。クロウ(クロマティ氏の愛称)が守備に力を入れ始めたのは、本人が"恥"かいてからですね。
――恥をかいたというのは、西武との日本シリーズで見せた緩慢な守備(※)のことですか?
(※)1987年の巨人と西武の日本シリーズ第5戦。巨人が1−2のビハインドで迎えた8回裏、西武・秋山幸二のセンター前ヒットで、一塁走者の辻発彦がクロマティの山なりの返球の隙をついて一気にホームインした。
篠塚 そうです。あの日本シリーズ以降、スローイングの練習でもしっかりピッと投げたり、守備に対する意識が明らかに変わりました。周りから「そういうふうにやればいいんだ」と茶化されたりしていましたけどね(笑)。フワッとした返球をしてきた時には、内野陣が「今のはダメだ」というジェスチャーをすることもありました。とにかく、あの日本シリーズでの守備に関してはだいぶ反省していましたよ。
――クロマティさんは肩が強くない一方、ボールを捕るまでの能力は優れていたように思います。守備位置は、基本的にセンターでしたね。
篠塚 そうでしたが、他のポジションで起用されてもそんなに悩まなかったんじゃないかと。彼は陽気で考え込む性格ではないので、どんなポジションでも前向きに取り組んでいたでしょう。ファーストを守ることもありましたから。
【日本人選手とも積極的にコミュニケーション】――巨人に入団した当初の、クロマティさんの練習への取り組み方はどうでしたか?
篠塚 慣れない環境に来たこともあって、手探りの状態でしたね。最初は通訳を介して話していましたが、徐々に日本語を覚えたり、ちょっとしたニュアンスもわかるようになっていきました。
当時の外国人選手の中では、「日本の野球に早くアジャストしたい。そのためには日本語もある程度は話せなければいけない」という意識が一番強い選手だったような気がします。日本語に慣れてからはもちろん、その前から積極的に日本人選手たちとコミュニケーションを取っていました。
――それに対して、周囲の選手たちの反応は?
篠塚 自分もそうですが、他の選手たちもクロウによく話しかけていました。本人が積極的にコミュニケーションを取ろうという姿勢を見せてくれていたのが大きいです。チームに溶け込むのも早かったですし、本人もやりやすかったんじゃないですかね。あの時代の外国人選手は、日本人選手とはあまり話さず"一匹狼"のような選手が多かったのですが、クロウだけは違いましたね。
――同じく1980年代に巨人で活躍した、元ニューヨーク・ヤンキースのロイ・ホワイトさん、元ロサンゼルス・ドジャースなどで活躍していたレジ―・スミスさんとは違いましたか?
篠塚 違いましたね。ホワイトやスミスは長くメジャーで活躍した実績がありましたし、格が違う。性格もクロウのように陽気な感じではなく、落ち着いた感じで風格を漂わせていました。クロウにはそういう風格はありませんでしたよ(笑)。
――それゆえ、チームにも溶け込みやすかった?
篠塚 話しかけやすかったですし、ちょっかいも出しやすかったですよ。周りからそうされたから、本人もすぐに打ち解けたのでしょう。
当時は「外国人選手は2年プレーしてくれれば十分」という時代で、契約が終わったら自国に帰る傾向が顕著でしたが、クロウは日本で7年間もプレーしました。クロウがチームに溶け込み、チームもクロウを必要としていた証拠です。「自分の現役生活を日本で終わらせるんだ」といった気持ちでプレーしていたと思います。
日本の居心地もよかったんでしょうね。野球でのコミュニケーションだけではなく、私生活の人間関係もうまくいっていたんじゃないかと思います。そうでなければ7年間もできません。同じように性格が陽気で、日本で13年間プレーした(アレックス・)ラミレス(元ヤクルトなど)などもそうだと思いますよ。
――ちなみに、クロマティさんに最初に話しかけたのは篠塚さんだそうですね。
篠塚 そうです。多摩川の練習グラウンドだったのですが、クロウがポツンとしていたので、声をかけて一緒にランニングなどをしました。ランニングをする時は近くに通訳はおらず、僕も英語が話せるわけではないので、野球に関する単語を言ってみたり、簡単な挨拶をする程度だったのですが、話しかけたらクロウもパッと答えてくれて。お互いにしっかり理解できているのか微妙な感じの、ぎこちない会話ではありましたが、今でもクロウは「あれで気持ちが楽になった」と言ってくれています。
先ほども話しましたが、当時の外国人選手は日本でプレーしても1、2年の選手が多かった。そこで活躍した選手もいましたが、日本の環境に馴染めず、力を発揮できずに帰っちゃうのも寂しいじゃないですか。
――クロマティさんには、話しかけたくなる雰囲気があった?
篠塚 それもあったかもしれません。一方でホワイトやスミスなど、メジャーでガンガンやっていた選手にはそれほど声をかけなかったかな......。避けていたわけではないですよ。外国人選手が入団してチームに合流した時に、チームメイトの前で自己紹介をしたりしますが、その雰囲気を見ればだいたいどういう性格なのかわかります。そういうのを見ながら、それぞれの選手への接し方を考えていました。
あと、ひと癖もふた癖もある外国人選手がいますからね。どうしても日本の野球が下に見られてしまうというか......。今は日本の野球のレベルが上がり、日本人選手がメジャーでも活躍している時代なのでそういうことはほとんどなくなっていますが、当時は「日本でプレーするのが嫌になったら帰る」といった選手もいました。クロウにはそれがありませんでしたね。
(後編:なぜ宮下昌己に「伝説の右ストレート」を放ったのか? 篠塚和典が明かす大乱闘の舞台裏>>)
【プロフィール】
篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。